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『自分の中に毒を持て』感想

太郎氏が全身全霊をかけたドロップキックを喜色満面で繰り出しているそんな時、私のはせいぜいが右ストレート(それも体重を残して左手を顔の横にした形で)とかだろう。

雑なまとめ方をお許しいただきたいが、本書は「自分として純粋に生きること」、「無条件に生命をつき出し爆発する」ことのススメである。
彼の本、『自分の中に毒を持て』を読み始めた時、その姿がチャールズ・ストリングランドと重なった。モームの『月と六ペンス』の登場人物である。彼は画家で、絵の為なら何であれ犠牲にするし、それは「悪魔にでも取りつかれた」と表現されるような、自分の感じたことを表現せざるを得ないという強迫観念からのことである。この何もかもを芸術に注ぎ込む所に両人の共通点を見たわけであるが、さりながら、読み進めると、(太郎氏)-(ストリングランド)から些かの差が導かれるように思われた。つまり、ジャンキーなのである。太郎氏の方のことだ。彼は何とも危険を好み、危険によって生を実感するという。自分の中の毒というよりも、それは中毒というべきものだろう。とどのつまりはジャンキー、である。生の実感を得るそれを本能と呼ぶのであれば、正しく彼の在り様こそ人間らしさと言えるのかもしれない。

本稿は終始その話である。
プレゼンの時などはア・サイラが響く処刑台の上にいる気分で、確かに命の危機を感じる。しかし所詮その20分かそこらの話であって、太郎氏が人生ごと叩きつけるのとは違う。
太郎氏のずるいのは、本書において太郎氏だから出来ることだとか、才能ありきだとか言う逃げ道を尽く潰し回っている所だ。しかしあえて言うことになるが、仮に太郎氏に倣えば、現実的には私はくたばってしまいます。

とは言え、結局のところ迫真の危機に臨んで人は全力を出す。男は度胸、女は愛嬌とか言う。男女云々とか本質的でないことはさて置き、ともかく二つの仕事の在り方があるとした時に、もうどうにも逃げられない時には度胸で以って立ち向かわざるを得ない。愛嬌はそんな状況に追い込まれないように立ち回るあれこれだろうか。どうあれ切実な度胸の発揮こそ多分成長の種である。この度胸を、身体性を持つと換言しても良いだろう。
まあ太郎氏からするとこれも目的論であって、成長とか考えずに爆発するのが本当なのだろうけれど。
「甘い夢よりも痺れる現実のために、大人になる事よりもクリエイターになる事を選んだんだ」と言うセリフが出てくるのは左ききのエレン14巻である。広告代理店のクリエイターが追い込んで追い込んで、パソコンに描いているうちにニヤけてきて、成長して、その姿はきっと太郎氏と重なるのではないだろうか。
痺れる現実の幸福感は締め切りが感じさせてくれる。この時は迫真の危機がある。直前は生きた心地がしないのに、人生締切足だと思う次第。しかもビールが美味い。

さて、左ききのエレンには作品を手紙として交わす場面が何度かある。本書はある人から借りたのだが、私はこれをその返信のつもりで書き進めている。

課題解決を試みる以上、誰かと一緒にやる以上、太郎氏のように本能的に、あるいは無目的にはなり切れない。自己を貫くだけではできない。
一人ぼっちではどうもこうもいかない。私が正しいと思ったことにどこまでついて来てくれるかも分からなければ、それが合っているかもわからない。本能の爆発だけでは誰も消耗してしまう。資源は常に有限である。コミュ力も迎合も本気の内で、アンチだけではダメなのだ。
一歩身体を引いて、岡目八目と考えなければならない。悟りか、あるいは理論と実践の往復と言うのだろうか。ともかくまったく二重人格的である。
問題は常に複数で、一撃入れても入れられても、またすぐに立て直して次を起こさねばならない。

だからせいぜい、その右ストレートは渾身かと自問しよう。
私は、少なくともまだ、身体ごと飛ぶほどジャンキーじゃない。

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