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“察する文化”で育った私達と、オンライン化の行く末への考察

自分のことを自分でしない大人がたくさんいる。
自分のことを、自分で言えない人が多いと感じる。
これって、日本だけなのだろうか。ふとそんなことを考える。
よく、海外の学校と比較されるが、自分で手をあげて発言する子は、私たち日本の学校にはほとんどいない。(と聞く)
「日本人らしい」とまで形容されることもあるが、この“周りの空気を見て”行動するルーツはどこにあるんだろう。

“察する”ことを美徳としてきた文化があるからだろうか。
最近読んだ何かの記事では、この「察する文化」は、どうやら江戸時代くらいから日本に根付いてるらしい。人口が過密になった江戸の町で、みんな仲良く共生していくために、「察する」ことが必要とされたのだという。

相手の気持ちを察して行動する、何か物を言う、と言うこの文化には、私は海外の人が感覚的に入り込めない(この感覚に浸れないと言うんだろうか)ところがあると思っていて、日本人独特の楽しみの一つでもあると思う。私が特に好きな感覚は、「間」「余韻」である。

外国人の人にも「ワビサビ、サイコー」と言われるが(ありがとうございます!)この、「間」とか「余韻」は、かなり独特だと思う。例えば短歌や音楽、文学作品の中の言い回しなど・・・を提供(発表?)した側と、それを受け取る側が、「間」や「余韻」を介して何かの感覚を味わう時。「作者はこう言う感覚を表現したいのではないだろうか」と共通に物静かに漂う、何ともはっきり言い表せない甘美さとでも言うのだろうか・・・この不思議な波長を味わえる瞬間こそが、私は、あぁ日本人でよかったなと思う時でもある。

何かの話で聞いたことがある。夏目漱石の弟子が、小説に書くセリフを漱石に相談した話だ。男が女に「愛している」と伝えたい。感情を最も表現するのに、「愛している」と素直に書いたのでは、どこか陳腐に感じると。そこで、漱石は言ったのだそうだ。
「月が綺麗ですね」と、書いておきなさい、と。
これを聞いたときは、ほう、と思った。愛していると素直に言うより、「月が綺麗ですね」・・・なんてロマンチックな!!!このセリフに様々なものが凝縮されている。情景、時刻、季節、音、静寂、感情、温度。それらが、この一文を読んだ瞬間に、ぶわぁっと、心に流れ込んでくる。こう言う文化の根付いた国で育ってこれたことを誇りに思う。


ただ、一方で、察することに慣れすぎて、肝心な時に自分の本音を埋もれさせてしまう人が多くいることは、悲しいことだ。「空気を読め」と言われて育った私たちは、自分を埋没させることが大人になることだと勘違いしてきてしまった。
自分が違和感を感じることに対して、「ま、いいか」とうやむやにする。本当は違うと覆っているのに、「周りの意見を尊重する方が大事だから」「相手を立てることが大事だから・・・」と、自分を殺してしまうのは、それは違う。

また、はっきり言わない人も多い。「こう言う空気を出したらわかってくれるだろう」といらんことまで“察して”もらおうとするのは厚かましい。自分が、相手に対して望むことがあるならば、素直に伝える方がいい。「これを言ったら傷つけるんではないか」「嫌われるんではないか」と思って、自分の頭の中でぐるぐる考え続けても、それはただの想像であり、リアルな相手の気持ちとは、全くもって関係ない。自分が言葉を放った先に、それをどう受け取るかは、相手の決めることで、あなたの気にするところではない。


ところで、少し話が飛躍するが、今、多くの人がオンラインやメールで色々な物事を進めている。私自身は、この現象には限界がくると思っている(勝手に)結局、人は、人に会いたくなる、のだと思う。いくら、オンラインが充実したとしても、本当に、実際に、現実に今目の前にあなたの話したいと思っている人を感じることはできない。

そう、「察する」空気さえ、ないのだ。察する相手の表情も、声色も、電気音。空気を「合わせる」周りも、画面の中。

察することができるのも、その世界が、今までは自分の“リアル”だったから。たとえ、傷つくリスクがあっても、実際に誰かと会ってコミュニケーションすることを、最終的に人は絶対に欲する時が来るのだと思っている。

オンライン化が進んだ先にあるのは、「察する」こともできない世界だ。
このまま、人が人に合わなくなってしまったら、きっと人間は人間でなくなっちゃう気がする。

相手の目を見て、話す。
周りの音、季節、時刻を感じて。
言葉を受け取って、表情を見て。
触れて、体温を感じる。

人間が人間と会うことで“人間”を作るのだ。

読んでくれてありがとうございます。 ふと思った時に、心のままに書いています。 よかったらまた読んでください。