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『I can speak』感想文

太宰治の新潮文庫『新樹の言葉』の一番最初に、「I can speak」という、文庫にして4ページ分の掌編が収録されています。今回はそのお話をしたいとどうぞよろしくお願いいたします😊。

「くるしさは、忍従の夜。あきらめの朝。この世とは、あきらめの努めか。わびしさの堪えか。わかさ、かくて、日に虫食われゆき、仕合せも、陋巷(ろうこう)の内に、見つけし、となむ。」という文章から始まります。

主人公は「私」。「生活のつぶやき」とでもいったようなものを書き始め、自分の文学の進むべき路を少しずつ、己の作品に依って知らされ、多少の自信に似たものも得て、腹案していた長い小説に取りかかっている。おそらく太宰自身が投影された主人公なのだと思います。

昨年9月、甲州の御坂(みさか)峠頂上の天下茶屋の二階を借りて、すこしずつ仕事を進めた。「そんなに悪い出来ではない。あたらしく力を得て、とにかくこれを完成させぬうちは東京へ帰るまい、と御坂の木枯強い日に、勝手にひとりで約束した。」

が、9月10月11月と寒さが厳しくなり、心細い夜がつづき、どうしようかとさんざん迷った。
「自分で勝手に、自分に約束して、いまさら、それを破れず、東京へ飛んで帰りたくても、何かそれは破戒のような気がして、峠のうえで、途方に暮れた。」

この真面目さ、それが太宰なんだよなあ。うなずきながら読みました。

甲府へ降りれば気温も高いので、この冬も大丈夫なのではないかと思い、甲府へ降りた。変な咳がでなくなった。甲府の町外れの下宿屋の、日当たりのいい部屋を借りて、机に向かって座ってみて、よかったと思い、また少しずつ仕事をすすめた。

仕事をしていると、わかい女性の合唱が聞こえて来る。「私」の下宿と小路ひとつへだてて製糸工場がある。そこの女工さんたちが作業しながら唄っているのである。中にひとつ、際立っていい声があって、その声がみんなをリードして唄っている。いい声だなと思う。お礼を言いたい、その声の主をひとめ見たいとさえ思う。

「ここにひとり、わびしい男がいて、毎日毎日あなたの唄で、どんなに救われているかわからない、あなたはそれをご存じない。(中略)私は、しんからお礼を言いたい。そんなことを書き散らして、工場の窓から、投文しようかとも思った。」

「けれども、そんなことして、あの女工さん、おどろき、おそれてふっと声を失ったら、これは困る。無心の唄を、私のお礼が、かえって濁らせるようなことがあっては、罪悪である。私は、ひとりでやきもきしていた。」

2月、寒い静かな夜。工場の小路で、酔漢の荒い言葉が突然起こる。「私」は耳をすます。

「―ば、ばかにするなよ。何がおかしいんだ。たまに酒を呑んだからって、おらあ笑われるような覚えは無え。I can speak English. おれは夜学へ行ってんだよ。姉さん知ってるかい?知らねえだろう。おふくろにも内緒で、こっそり夜学へ通っているんだ。偉くならなければ、いけないからな。姉さん、何がおかしいんだ。何をそんなに笑うんだ。こう、姉さん、おらあな、いまに出征するんだ。そのときは、おどろくなよ。のんだくれの弟だって、人なみの働きはできるさ。嘘だよ。まだ出征とは、きまってねえのだ。だけども、さ、I can speak English. Can you speak English?Yes ,I can. いいなあ、英語って奴は。姉さん、はっきり言って呉れ、おらあ、いい子だな、な、いい子だろう?おふくろなんて、なんにも判りゃしないのだ…」

「私」は障子を少しあけて、小路を見おろした。「はじめ、白梅かと思った。違った。その弟の白いレインコートだった。」そして工場の窓から、ひとりの女工さんが上半身を乗り出して、酔った弟を見つめている。

月がでていたけれど、ふたりの顔ははっきりとは見えなかった。
姉の顔はまるく、ほの白く、笑っているようだった。弟の顔は、黒く、まだ幼い感じだった。

「I can speakというその酔漢の英語が、くるしいくらい私を撃った。はじめに言葉ありき。よろずのもの、これに拠りて成る。ふっと私は、忘れた歌を思い出したような気がした。たあいない風景ではあったが、けれども、私には忘れがたい。」

あの夜の女工さんは、あのいい声の人だろうか、たぶん違うだろうねと、太宰は結んでいます。

この作品は昭和14年「若草」2月号に掲載されたものです。

この文章を読んで、わたしは「これが太宰なのよ!」と叫びたくなりました。この感じ。この感じを書くのが太宰なんだと。漱石先生や芥川ともちがう、これが太宰なんだと。

弟の言葉から、弟はたぶん「おふくろ」さんとはあまり仲が良くなくて、お姉さんが弟をかわいがっているんだろう、弟も優しい姉を慕っているのだろう。そんな関係性を推測しました。弟は、夜学に通って英語を習っていることを、お姉さんに誇らしげに話している。くすくす笑う姉。その光景が頭のなかにありありと浮かびました。

いまに出征するんだと言ったそのあと、嘘だよ、まだ出征とは決まってないと弟が言ったのはおそらく、出征すると聞いて心配して、姉の表情が曇った、それをみて、弟は嘘だよと言ったのだろう…。
そういう細かなところまで、弟の言葉から想像することができました。これはすごいなと思いました。

「I can speak English. Can you speak English?Yes, I can. いいなあ、英語って奴は」。
弟のうれしそうな声がこちらまで聞こえてくるようです。

そのうれしそうな声のイメージは、わたしの持っている思い出とリンクするものがありました。

学生時代、中学校で使っていた英語の教科書の話になり、部活の後輩とわいわい話したことがありました。その教科書というのは三省堂の「New Crown」で、話題のトピックは「スワヒリ語」でした。「あなたは何か他のスワヒリ語を知っていますか? はい、知っています」の会話です。

「Do you know any other Swahiri words?」
「Yes, I do.」

このやり取りを、後輩はものすごくうれしそうに暗唱しました。それが、わたしの耳にとても強い印象を残しました。私はあとにも先にも、あんなにうれしそうな「Yes, I do」を聞いたことがありません。

今回、太宰の作品によって、その思い出がよみがえったのでありました。あの子はどうしているだろう。ひとつ年下の、真面目な、少し誤解されやすいところのある子でした。でも、とても、優しい子でした。

また、太宰の作品は、語り手がくよくよ悩んでいることが多いですが、読むうちにどんどん親近感を感じて、「人はかわいいものですね」という思いと、「ひとは哀しいものですね」という思いとで胸がしめつけられるような、そういう作品を書く、それが太宰だと感じます。やはりこれは、他の作家にはない太宰独自の持ち味だと思います。

この作品は昭和14年発表で、この年はヨーロッパで第2次世界大戦が始まった年。日本でも戦時体制が色濃くなっていく時期です。弟から「出征」という言葉が出て、この姉にも弟にも、そして「私」にも、その先に訪れる不穏なものが暗示されるわけです。だからこの作品もほんわかとしたものというだけではないわけです。そこにまた、太宰のすごさを感じるわけです。これが太宰なのよ!心から叫びたくなった作品でした。

文庫にして4ページ分。短めの作品ですが、すごく余韻の残る作品です。中身のぎゅっと詰まった作品だと思います。

お読みいただきありがとうございました。

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