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『大貧帳』感想文

内田百閒は、お金にまつわる話も有名ですね。

もとは造り酒屋の裕福な家の出でありましたが、百閒が六高に入学する頃には家業が傾き、貧しくなってしまって、それからのちも百閒はずいぶん貧乏をしました。しかし妙に超然として、借金の話や質屋、原稿料の話など、飄々とした文章をたくさん書いています。

こちらの『大貧帳』はその、お金にまつわる38篇を収録しています。

そのなかで、「貧凍の記」という随筆が、わたしには特に印象に残りました。

貧乏の極衣食に窮し、妻子を養うことも出来なくなった百閒は、こればかりはどんな事があっても手離すまいと思っていた漱石先生の軸を、人手にわたしてお金に代えるよりほかに途がなくなってしまう。

そのとき既に漱石先生は亡くなっていたが、先生に対して誠に申し訳なく思い、心中にも堪えがたいものがあった。しかし、これを米塩に代えて、一家が活路を見い出すまでの日を過ごせるならば、先生も許してくださるのではないかと願い、気を取り直した。

なるべく縁故のある人に譲りたいと思い、同門の先輩を訪ねて事情を打ち明け、紹介を頼んだ。先方には軸物を持参し、百閒の妻が訪ねた。

しかし、貰ったお金は、相談したとき先輩がこの位が適当だろうといっていた金額の半分にも足りなかった。悲痛な気持ちに冷刃を加えられるような思いがしたが、さらに堪えられないことがあった。

先方の主人は、「漱石さんの物には贋物が多いのでしてね」、「どうもおかしい所がある。失礼ですが、これで戴いておきましょう」といって、そのお金を出したという。

百閒が門下であることは紹介されているはずで、紹介状を書いた人は主人の知り合いである。主人はそういう関係を無視してまで自分の鑑識を衒おうとした、そういう非礼の人とは知らなかった、と百閒は悔しさをにじませている。

「墨を含ませた筆をかかげている先生の前に跪いて、紙の端を押さえた昔の自分を思い出して、私は口惜しくて涙がにじみ出した。すぐに取り返したくても、それは出来ないのである。その余裕があれば、初めから漱石先生の遺墨を持ち出さなかったであろう。私はそう云う金に手をつけて、使ってしまった。」

その後、そのとき受け取ってきた金額のお金を用意できたので、妻を先方に遣わし、お蔭で危急を救われました、先日の軸物はお返し願えないかと申し出たら、すぐに返してくれたそうである。

もう人手に渡すまいと思ったが、執拗な貧乏に追われ、結局その一軸を守ることすらできなかった。今度は夏目家に持参して、夏目家を通して、先生の遺墨を熱望していた人に譲ることになった。

「空山不見人、但聞人語響の五言の軸であった。今でも瞼の裏に、ありありと先生の筆勢を彷彿する事が出来る。」

…という内容の、文庫にして3ページの文章です。

百閒は借金を「錬金術」と称し、独自の流儀とユーモア精神で飄々と書く印象がありましたが、この「貧凍の記」は少し違う、いや、かなり違う印象を受けました。

「墨を含ませた筆をかかげている先生の前に跪いて、紙の端を押さえた昔の自分を思い出して」というところで、わたしの頭の中にその情景がパッと浮かびました。胸がしめつけられるような思いがしました。筆をもって作品を書いている漱石先生のそばで、紙を押さえている百閒。さりげない描写でありながら、その思い出が百閒にとってとても大切なものであるということが切に伝わってきました。
わたしはこの部分で、内田百閒というひとの文章のすごさを知ったように思います。

「空山不見人、但聞人語響の五言の軸であった。今でも瞼の裏に、ありありと先生の筆勢を彷彿する事が出来る」という結びの二文が、心に深い余韻となって残りました。

お読みいただきありがとうございました。

『大貧帳』内田百閒 中公文庫
2017年10月25日初版発行

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