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『ああ漱石山房』

それでは本日も張り切ってまいります。よろしくお願いいたします😊

⭐️この日記は2022年12月25日に書いたものです。

わたしは図書館のチラシコーナーが大好きでして、長年、展覧会、美術展の情報をここでチェックしています。
ですが、ここしばらくコロナの影響で、そのコーナーが元気がなくなってしまい、新しいチラシが入ってこない状況が続いていました。

それが最近また、少しずつ元気を盛り返してきてまして、チラシコーナーがなんだか賑やかになってきました。復調を感じています。これがまた、図書館に行く楽しみのひとつになっております。

先日、あるチラシに目がとまりました。

大きく印刷されていた「ああ」という文字が目を引くチラシ。ひらがなの「あ」って、視覚的にインパクトがありますよね。なんだなんだ!と引き寄せられました。

手にとってみると「ああ漱石山房」とあります。漱石に関係がある話かしら…と見てみると、おじいさんの顔写真が載っています。
誰だろう?
名前を見ると「松岡譲」とあります。

松岡譲、松岡…。

あれっ?
もしやあなたは、あの松岡くんなのですか。

ドキドキして、チラシをもらって急いで家に帰りました。本棚から急いで本を出し、ページをめくります。

…やっぱりそうだ!あの松岡くんだ。
芥川龍之介の「あの頃の自分の事」に出てきた松岡くんだ!

興奮でギャーっと叫びました。

しばらくして落ち着いて、まじまじとじっくり見てみると、おじいさんになった松岡くんの写真です。

松岡くんは長生きしたんだな、よかったな、と深い感慨がありました。少しでも知っている人が(わたしが一方的に知っているだけなのですが💦)長生きしてくれるのは嬉しいものです。

それにしても漱石山房とはなんぞや。初めての聞きました。(←知らないことばかりですみません)

そこで、チラシから要約、引用します。
「漱石山房とは、漱石が明治40年から亡くなるまで、9年間生活した家のこと。早稲田南町にあった。

毎週木曜日の午後、門下生たちがここに集い、漱石と夜遅くまで世間話や活発な文学談義に花を咲かせた。

大正12年の関東大震災を機に、漱石山房の保存問題に取り組む機運が高まり、とりわけ松岡譲が奔走しましたが、建物は昭和20年5月の山の手空襲により焼失。

松岡譲の努力は実を結びませんでしたが、平成29年に新宿区立漱石山房記念館が開館し、門下生たちの漱石山房に対する思いを、さまざまな形で表現しています」

松岡くんは「漱石山房に門下生として出入りし、漱石の長女・筆子と結婚」したとのこと。漱石の義理の息子になったのですね。驚きました!

「ああ漱石山房」というフレーズは、松岡くんがその晩年にエッセイ等によく使用したものだそうです。朝日新聞社から、昭和42年に松岡譲『ああ漱石山房』というエッセイ集が刊行されています。

そのチラシを見たあとのタイミングで、『文豪たちの友情』を読みました。この本の中で、漱石と門下生たちのエピソードを知りました。

その中で、漱石が門下生から熱狂的に敬愛されていたことや、彼らとのさまざまなエピソードを知り、とても嬉しく楽しくなり、これはぜひ漱石山房にいってみたいものだ!と思いました。

またわたしは、きちんと作品を読んでいないのにも関わらず、なぜか幼少期から夏目漱石にかぎりない親しみの念を感じていました。

大人になってから吉本隆明『家族のゆくえ』を読んだときに、里子に出されたり、養子に出されたりといった、漱石の幼少期の状況や、漱石作品から見て取れるというヒステリーやパラノイア的な追跡妄想のことを知って、漱石への興味や思いが強くなりました。漱石の作品をちゃんと読んでもいないのにどうかしてると自分でも思いましたが、私の中の漱石ムーブメントの下地はできていたわけです。

今回、芥川龍之介→松岡くん→漱石山房というご縁に導かれ、漱石山房記念館に、ついに行ってきました。
(いつもながら前置きが長いですね、すみません💦)

地下鉄東西線の早稲田駅1番出口を出て、信号を渡り、斜めに入ってゆく道が「漱石山房通り」。通りをゆくと、右手に早稲田小学校がありました。とてもおしゃれな建物で、非常にうらやましく、じっと眺めました。あんな素敵な小学校に通ってみたいものだ、来世に期待しよう、そんなことを思いつつ、細い道をそのまま歩いて行って、チラシには歩いて10分と書いてありましたが、それよりはいくらか早く、記念館に到着しました。

おしゃれで現代的な外観です。その中には漱石山房の建物が再現されていました。書斎の再現は大きな見所の一つです。

入館料は300円。安すぎる。太っ腹である。もっと高くしてもいいのでは、と思う一方で、もし1000円を超えたら気軽に行けなくなりそうなので、やはり300円のままであってほしいと思う、この両極に揺れる複雑なファン心理に悶えました。

記念館内部の展示を見ながらゆっくりと歩を進めていきます。

石井千湖『文豪たちの友情』で事前学習をし、漱石と門下生たちについて知識を得ていましたので、パネルで人物名と写真を見るだけで大興奮しました。

●この人はああいう性格だったな…とか、

●この人とこの人はちょっとひと悶着あったんだよね…とか、

●この人はたしか、漱石に「僕のお父さんになってくれませんか」と頼んだという、超クレイジーな人。でも漱石の蔵書や構想メモ、手紙などを戦火から守ったんだよね…とか。ちなみにこの人は小宮豊隆(こみやとよたか)という人物なのですが、内田百閒から「漱石神社の神主」と呼ばれるほど、筋金入りの漱石大好き人間だったそうです。

この小宮豊隆の他にも、門下生の中には熱烈な「漱石大好き人間」が何人もいて層が厚い。おもしろいエピソードには事欠きません。

こんな感じに、事前に知識をいれておくと、展示されているもののひとつひとつが隅々まで楽しい!事前学習、大事ですね。

記念館の中には、壁に漱石作品の一節がパネル展示されている場所がありました。

実はわたくし、恥ずかしながら漱石作品は高校教科書の『こころ』しか読んでおりません。なので、大人になってから漱石の文章や言葉に触れたのはこの時が初めてと言っていい状態です。

展示された言葉ひとつひとつが、強く胸を打ち、静かにこころを満たしていきます。思わず涙がこぼれそうになりました。鞄の中に常備していたパンダナで涙をふきつつ、じっくりと読みました。

●「真面目とはね、真剣勝負の意味だよ」(『虞美人草』)。

←さんざん「くそ真面目」「馬鹿真面目」と言われて、自分の真面目さを恥ずかしく思っていたあの頃の自分に言ってあげたい。馬鹿真面目であったかもしれないが、真剣ではあった。あの頃、この言葉があったならどれだけ救われただろう。涙がこみ上げました。

●「僕の存在には貴方が必要だ。どうしても必要だ。僕はそれだけの事を貴方に話したいためにわざわざ貴方を呼んだのです」(『それから』)。

←好きな人にこんな風に言われたら、(心の中で)叫んで、たぶん土手を走ります。じっとしていられないくらい嬉しいと思います。

●「呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。」(『我輩は猫である』)。

←涙がはらはらとこぼれました。

●「百年待っていて下さい。…百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」(『夢十夜』第一夜)

←この言葉はとくに印象に残って、家に帰ってきてからも、ずっと考えていました。

漱石先生は1916年に49歳。
2022年のいま、わたしは40代。考えてみると、漱石先生から約百年後です。

「百年後に、逢えましたね。」

そんな言葉が急に頭の中に浮かんできて、ドキッとしました。

おみやげに、漱石山房原稿用紙と、漱石先生ブロマイドを購入してきましたので、早速ブロマイドを写真立てにいれてみました。とても良い感じ。

なんだかとても懐かしく、慕わしく思う。

「これで漱石先生の顔が毎日見られる。
淋しくはない。
先生の言葉を聞きたいと思ったら、
作品を読めばいい。
作品を読めば、先生に会えるのだから。」

そんな言葉が急に頭に浮かび、またドキッとする。

いったい何なんだ、この気持ちは。門下生の誰かの心が私に乗り移ったのだろうか。不思議な感覚にとらわれました。(←思い込みが強いだけかもしれませんが💦)

パネルで展示されていた、小説の一節や手紙の言葉、そのひとつひとつがこころに深く沁みてくる。生きることに対する深い実感のこもった言葉として、胸に響いてきました。

漱石先生から百年後の時代を生きている私。
百年という時を超えて、
言葉が、思いが、届くんだ。
これが文学というものなんだ。

文学ってすごい。
心が震えました。

そして、それとともに、
完全な理解とはいかないまでも、漱石先生の言葉が少しでも理解できるようなところまで歩んできた自分に対し、不器用ではあったがよく頑張ったなと、初めて自分で自分をほめてやりたいと思いました。

今回、漱石山房記念館の展示を見て、まずは『硝子戸の中』と『永日小品』から読んでみようと思いました。なので、この日をわたしの「漱石記念日」としたい。真剣にそう思いました。

ここをスタートにして、来年2023年は、漱石作品をどんどん読んでみたいと思います。

ちなみに、ベルクソンと金色夜叉の音読も続けたいし、松本清張も読みたいし…。
ああ、なんて忙しい!。

しかしこれは嬉しい悲鳴であります。読みたい本がある、これこそが私の生きる原動力なのですから。

思い込み強め!の文章でしたが、最後まで読んでくださって、ありがとうございました🙇。

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