見出し画像

青の緞帳が下りるまで #03


←(前回)「青の緞帳が下りるまで #02」(序章 A王女 2)

序章 A王女 3

祖母は言っていた。

 ――思想的に自由な本が出せるということは、その国は平和であるということよ。アナスタシア王女の真実は、私が生きている間には無理かもしれないわね。

 アルトランディアはリトヴィスから独立したとはいえ、まだ平和ではなかった。

 イーラはアナスタシア王女展の片づけをするマルーシャの手伝いをした。大丈夫だと言われたけれど、何かやらなくては気がすまなかった。

 イーラは王女の肖像画の複製を眺める。
 オキシペタラムの花を思わせる青い宝飾をちりばめられた冠に白いローブデコルテは王女の正装姿だ。肖像画が描かれたのは十四歳のときだと言われている。整った美しい顔立ちをしているが、きつい目元は神経質そうに見える。その目の色は茶色がかっている。
 世に知られているアルトランディア王国最後の王女アナスタシアの有名な肖像画だ。

 アルトランディアの王族の目は青い。それがアルトランディア人の血筋である証拠なのだが、アナスタシア王女だけは色が違う。
 欧米諸国では外見で人を差別してはならないという風潮があるそうだが、ことアルトランディアの王族に限っては、青い目であることが敬意の対象だった。

 そのアナスタシア王女は母親がリトヴィス人であることから、リトヴィスの王女と称された。
 ただ祖母だけは、アナスタシア王女はアルトランディアであるとかたく信じていた。イーラの子供の頃に語られた祖母の話は、嘘や思い込みではないはずだった。

 ――おばあちゃん、王女がアルトランディア人だったって本当?

 ――本当よ。

 ――ソフィア王妃の子供ではないなら、母親は誰なの?

 ――推測はしているけれど、言えないわ。言ったら、お前に被害が及ぶことになるから。

 ――じゃあ、どうして王女はリトヴィス人の子ってことになっているの?

 ――王女がアルトランディア人だと都合が悪いのよ。同国人なら、リトヴィスを倒そう、リトヴィスから独立しようという口実がなくなってしまうからね。

 ――だったら王女は被害者じゃない。おじいちゃんと同じ。何も悪いことはしていないのに、世間から誤解されているの?

 おじいちゃんと同じ――と言うと、祖母は苦笑した。かつて祖父は王立軍に属し、王都勤務だった。その経歴だけでも、王政を倒した共和国派からは疎まれるものだった。

 ――人が知りたいのは真実ではないの。真実と謳ってあっても、なにが真実なんて誰にもわからないもの。人は自分が見たいものを見て、知りたいものを知る。知り得た情報の中から、自分が納得できるものがあれば、それがその人にとっての真実になるし、納得できないものであれば、いくら事実であっても、その人にとっての真実にならない。

 ――難しすぎて、よくわからないわ。

 ――いつかわかるときがくるわ。人は安心したい動物なの。自分が信じていることが正しいと言われるとほっとするの。だからそういう本を読むと安心する。つまり、アナスタシア王女は悪者だと思いたい人には、そういう本が求められているし、そういう内容のほうが売れるということじゃないかしら。

 つまり、アナスタシア王女は国民の敵であらねばならないということだ。
 反リトヴィスの象徴が、アナスタシア王女だった。だからこそ、皆が一丸となって悪者に向かって立ち上がることができた。アナスタシア王女がリトヴィス人でなければ、共和制を立ち上げた意味がなくなってしまう。人は自分たちがしたことは正しいと思いたい。だからこそ、一度悪者にしてしまった人への評価を変えることができない。

 イーラはマルーシャの指示で、アナスタシア王女関連の資料を手袋をはめた手で、箱におさめる。どれもこれも王女に対して悪意を抱かせるような資料だ。
 事実、王女の傍若無人なふるまいの逸話は数多く残されている。

 王女はまわりにアルトランディア人を置かず、リトヴィス人だけの中で生活した
 アルトランディアの青色を好まず、リトヴィス語でしか会話をせず、アルトランディア人にリトヴィス語を強要した。

 もっともそういった王女の姿勢は、リトヴィスからの受けはよかった。
 国の式典で国王がアルトランディア語でスピーチをした後の、リトヴィス人さながらの流暢な王女のスピーチは、リトヴィスの人間を喜ばせた。王女が生きている間、リトヴィスと良好な関係が築かれるという声もあったが、国内で王女への反発は激しかった。

 一九一四年の国王暗殺事件、クーデター。そのきっかけとなったのが、アナスタシア王女とリトヴィス人の婚約がまもなく発表されるという噂だった。二代にわたってリトヴィスの血縁者を王族に嫁がせることは国民の本意ではなかった。
 それでなくとも隣国同士というのは諍いの種になりやすい。

 でも、イーラはアナスタシア王女を憎む人たちに対して訊いてみたかった。
 あのような普通の日記を書くような少女が、果たしてリトヴィスと組んで、実の父親を殺すような算段を企むだろうか。当時の王女はまだ十四か十五歳だったはずだ。
 ぼんやりと考えていたときだった。

「イーラ、また電話よ。出版社から」

 電話口に呼ばれたイーラは溜息をつく。

「今度はなんですか」

 O出版社の編集長は悪びれもせず、イーラに言った。

「肝心なことを伝え忘れた。ユヴェリルブルグにいるのならちょうどいい。マエストロの取材をしてきてくれ」
「は?」

 イーラは聞きかえした。

「どうして私が」

「迷惑代だよ。印税が入らないと生活できないんだろう? 取材をして記事を書いてくれれば、謝礼を払う」
「冗談じゃないです。私、記者の仕事なんてやったことないですし」
「文章をまとめるのは得意だろう。くだんのマエストロは、調べたところオゼルキ村に関わりがあるらしいんだ。きみのおじいさんと同郷だろう。共通の話でもできるんじゃないだろうか」

「編集長、オゼルキ村はもうないんですよ。私も行ったことがないんです」
「頼むよ。そっちに一人、女性記者を派遣するから。きみは機会があればオゼルキ村の話でも出して、マエストロの関心をひいてくれればいい。あ、そうそう。マエストロの名前を伝えておこう」
「待ってください。まだ引き受けると言ったわけでは」
「メモしておいてくれよ。ヴィターリー・ヴォルホフだ」

「ヴォルホフ……」

 イーラは耳を疑った。その名は、祖父が手紙と資料を託すようにと伝えた人の名前ではなかっただろうか。

 ***

 一九五四年四月某日。
 アルトランディア共和国の新聞各紙の見出しを飾ったのは、一九一四年クーデターで北米に亡命した巨匠(マエストロ)ヴィターリー・ヴォルホフの凱旋帰還だった。
 東欧の小国アルトランディアが輩出した世界的な作曲家の帰国を祝い、国境の街ユヴェリルブルグはお祭りムード一色でわきあがった。

 中央駅に降り立ったマエストロの一瞬をとらえた被写体はたちまち国中に報道され、首都カロリスコエ・セローから開局されたばかりの国営テレビ局のクルーが駆けつける。

 動いているマエストロは気難しく神経質な音楽家というより、ベレー帽がよく似合う好々爺という印象だった。足腰が弱いため、スーツ姿の屈強なマネージャーが常によりそい彼の歩みを助ける。その様子もすぐさま国内に拡散された。

 街中に音楽祭のポスターとのぼり、そして「お帰りなさい、マエストロ」の横断幕が掲げられる。VIP待遇で黒塗りの車に乗せられたマエストロは、沿道からの熱烈な歓迎に手を振って応じる。半世紀を経て復活するユヴェリルブルグY劇場での音楽祭。そのメインゲストがこのマエストロだった。

 マエストロをのせた黒塗りの車が目の前を通り過ぎる。
 取材陣にまじって沿道からその様子を見ていたイーラは震えが止まらなかった。
 彼が、祖父が言っていたヴォルホフだろうか。
 なにより彼の、ヴィターリーという名前。ヴィターリーの愛称はヴィーチャだ。

 オゼルキ村のスタジオで、祖父と祖母が撮影した写真に写っていた少年の名がヴィーチャだった。

 ――ヴォルホフという人がたずねてきたら、この資料を渡してほしい。

 祖父に託された資料。彼はまだ生きていた。
 オゼルキ村出身ということなら、ほぼ間違いないだろう。
 いや、まだわからない。ヴィターリー・ヴォルホフという名前はよくある名前だ。
 イーラは号外新聞に目をとおす。
 「巨匠、英雄、帰還」の見出しが躍る記事に、マエストロのインタビューが載っている。

「私は亡命するつもりはなかったのです。たまたま留学する予定で、国外を出たら、帰国できないことになっていたのです。それで難民申請を経て、アメリカに渡りました」

 マエストロは欧米諸国と国交断絶したリトヴィス支配下のアルトランディアの人間ということで、注目を集めるようになった。
 マエストロの功績は、ヤローキンの音楽の宣伝だけでなく、リトヴィスがアルトランディア人に対して行ってきたことを世界に公表したことである。
 その功績が認められ、故国への帰還を認められた。

 その内容は、イーラがO出版社の編集長から聞いたものと、おおむね同じだった。
 マエストロがヴィターリー・ヴォルホフと言われても、正直、信じられなかった。写真のヴィーチャという少年の面影はほとんど残っていないし、個別のインタビューの予定も入っていないため、本人に確認できない。

 だからこそ、イーラはマルーシャにあるものを託した。この日の予定では、Y劇場に着いたマエストロは記者会見前に劇場を見学することになっている。その案内役がマルーシャだった。

 カメラを片付けていると、「大仕事で緊張しますね」と、ハンチング帽をかぶった女性が言った。O出版社が派遣してきたユヴェリルブルグ在住の記者だ。名はアンナという。
 微笑もうとしたけれど、イーラの口元が自然とひきつってしまう。
 よりにもよってこの人と一緒に過ごさないといけないなんて。

 彼女もイーラの感情を読みとったのだろう。すかさず言い添えた。

「本の出版が延期になったことはうかがいました。延期は残念ですけど、きっと出版できますよ」

 アンナの微笑をイーラは受け流す。

「あなたこそ、出版おめでとう。ヤローキンを調べていたんですって?」

 マエストロ帰還記念で、イーラの本の代わりに急遽、出版されることになったのが、アンナの著作である。

 アンナはまあ、と頭をかいた。
「厳密には調べていたのはヤローキンではないんですけどね。亡くなった叔母が音楽院の教授で、ヤローキンの同僚だったんですよ。その叔母の手記を出版したくて、編集長にかけあってたんですけど、ずっと断られて……。中にヤローキンのことをちらっと書いてあったので、その部分だけ急遽出版されることになったんです」

「運がよかったのね」
「お互いそうですよね」
「お互い?」
「そうですよ。英雄のマエストロとこれから会えるじゃないですか。あのヤローキンを知る人と直接会える機会ってないですし、私自身、聞いてみたいことが山ほどあるんです!」
「そうね」

 イーラは溜息交じりに言った。自分はアンナのような気持ちにはなれなかった。

「出版が延期になったのも逆によかったと思いますよ」
「どうして? 出版される保証はどこにもないのよ。楽しみにしていただけに、ショックが大きくて」
「マエストロって、ヤローキンの弟子だったんですよね。じゃあ、アナスタシア王女と会ったことがあるんじゃないですか?」
「え?」

 思いがけない関連性に、イーラははっとする。

「そうじゃないですか。ヤローキンって国王の音楽師範だったから王宮に出入りしていましたし、一時期、アナスタシア王女の音楽教師の任についていた人じゃないですか。弟子のマエストロにしたって王女と直接話したことはなくても、ヤローキンから王女の話を聞いている可能性は高いじゃないですか」
「そう……だけど」
「それを原稿に足せば、もっとセンセーショナルな本が書けるんじゃないですか」

 言われてみればそうだ。
 そうだけど――。
 編集長は言っていなかっただろうか。

 ――マエストロはアナスタシア王女を恨んでいる。

 そんな人からアナスタシア王女のことが聞けるだろうか。もちろん、マエストロがアナスタシア王女を知っていて、その話を聞けるなら幸運なことだが、マエストロが祖父が言う、ヴォルホフという人物であるなら、別の真実が浮かび上がってくる。

 取材陣と共に劇場入りしたイーラは展示室をのぞいた。
 劇場のロビーの一角には巨匠ヴィターリー・ヴォルホフにちなんだ歴史資料展が設けられた。
 セッティングを終えた取材陣の前に、アルトランディアの軍人に囲まれたマエストロが登場する。

 マエストロは思ったよりも背が高かった。足が悪いのか、ゆっくりとした歩調で、杖をつきながら歩いている。
 ベレー帽の下の顔はほとんど見ることができない。
 取材陣の前を一度会釈して通り過ぎると、マルーシャに案内され、マエストロは展示品の間をまわる。

 展示物にはイーラも一度目をとおした。
 当時の歴史的背景を示す年表、ニコライ十世一家の肖像画。戦後、発見された当時の家具や調度品。そして、マエストロが師ヤローキンと交わした書簡、ヤローキンのサインが入った色褪せた貴重な楽譜。そこに書き込まれた「親愛なるヴィーチャ、きみの作品は完全な駄作」という評。

 案内するマルーシャの緊張をほぐすように、マエストロは笑った。

「ああ、懐かしい。この楽譜は持ち出すことができなかったんですよ。まさか祖国に帰れなくなるとは思っていませんでしたから」

 そう言った瞬間、マエストロの周囲からフラッシュが焚かれる。

「マエストロが寄贈された品はこちらに展示させていただきました。ヤローキンのサインの入った楽譜など、貴重なものをご提供いただいましてありがとうございます」

 取材陣に聞こえるように言うと、マルーシャはマエストロに向きなおった。

「お訊ねしたいのですが、アルトランディア王国金貨を寄贈された理由は?」
「国外に出る際に友人が餞別でくれたものなのです。大半は留学資金として換金してしまったんですが」
「その友人という方は?」
「申し上げることはできません。この国の法律では亡命者とつながりがあることがわかると、犯罪となるようですから」
「マエストロのご友人に対してそのようなことはなさらないと思いますが」
「私も長く生きてきましてね。そこはどうしても慎重にならざるをえないのです」

 マエストロは淡く微笑んだ。

「その方はマエストロの恩人というわけですね」
「そうですね。恩人は……ほかに数え切れないほどいます。生きていれば、会いたいのですけどね」

 イーラはマエストロ話を慎重に聞きながら、その動きを見守った。小物の展示の次は、写真の展示だ。
 彼が祖父が話したヴォルホフなら、絶対に例の写真の前で足をとめるはずだった。祖父と祖母とヴィーチャという少年が一緒にうつっている、オゼルキ村のスタジオの写真。

 きた!

「ほう……」

 マエストロは老眼鏡をかけ、写真を認識したが、言葉を発することはなかった。
 すぐに別の展示に視線を移した。

「これはアルトランディア民謡の楽譜ですね」
「はい、そうです」

 イーラは内心落胆した。
 マエストロはほかの展示には熱心だったのに、写真には目もくれなかった。
 ということは、彼は祖父が資料を渡すように頼んだヴォルホフではなかったのだろうか。

「イーラ、行きましょう」

 一緒に取材することになったアンナに腕をひっぱられ、イーラは移動した。

→(次回)「青の緞帳が下りるまで #04」(序章 A王女 4)

ありがとうございます。いただいたサポートは活動費と猫たちの幸せのために使わせていただきます。♥、コメントいただけると励みになります🐱