青の緞帳が下りるまで #26
(前回)「青の緞帳が下りるまで #25」(第六章「タチアナ・Lに関する覚書」 2」)
第七章「キリル・シェレメーチェフの追想」
リハーサルを終え、宿泊先のホテルに戻ったマエストロは、マルーシャから借りた資料の複写を再読する。
アンナ・Bの原稿には、タチアナ・Lとアナスタシア王女の関係や交流については書かれていない。だが、タチアナ・Lがヤローキンのもとにいたのは間違いないだろう。
それともう一つ。ミーチャの孫のイーラに渡された資料だ。
それも写しで、原本はイーラが持っている。読んだらすぐに処分するようにとの指示を受けた。
彼女は言っていた。
「私はAはアナスタシア王女とばかり思っていたので、この資料の意味がわからなかったのです。Aがサーシャという子なら――新しい発見があるかもしれません。祖父はおそらく、最大の謎の答えを知ったのです」
マエストロは「キリル・シェレメーチェフの追想」という手記を手にとった。
***
中央の国王につくか、東のルミャンツェフ大公につくか、西のサルティコフ大公につくか。アルトランディアの貴族なら誰でも一度は考えたことがあるだろう。
シェレメーチェフ家は数代にわたりサルティコフ大公家に仕えていた。サルティコフ家の子息、令嬢たちの養育係を任されたのが縁だ。
私の父はサルティコフ家に預けられたニコライ九世の第五王子の養育係をしていた。
ニコライ九世は子宝に恵まれ、男児も多かった。そのため第五番王子は、いずれ子供のいないサルティコフ大公の養子となり、サルティコフ家を継ぐものとみなされていた。
「あの小さなニコライがニコライ十世となり、王位を継ぐなどと誰も予想していなかった」と私の父、セルゲイは晩年、何度も零した。
兄王子たちが王宮で帝王学を学んでいる間、小さなニコライはサルティコフ大公の膝元で、芸術三昧の生活を送っていた。お忍びで街の劇場に入り浸り、真剣に音楽家を志していた。
なまじ音楽の才があったのがよくなかった。成長するにつれ、ニコライはますます音楽にはまりこんでいき、養父であるサルティコフ大公はそれを止めるどころか、面白がって後押しをした。
「このご時世、音楽などやっている場合ではない」と忠言する家臣には「音楽は平和の象徴。王子が音楽にのめりこめるなど、それこそ平和な世の中の証ではないか」と反論したという。
もっとも、平和な世の中というのは偽りだった。
隣国リトヴィスとの関係は悪化をたどり、王国には不穏な空気が漂っていた。サルティコフ家の人間は芸術に現実逃避をしているとみなされた。
その音楽バカ王子のニコライが王位に就いた。このことは私にとっては多少有利に働いた。父が養育係をしていたおかげで、私は新国王の覚えがめでたかった。ほかの貴族の青年たちからは羨ましがられ、サルティコフ家についた父は先見の明があったと褒め称えられた。
士官候補生の中で一番はやく出世するのはこの私、キリル・シェレメーチェフだと囁かれた。
私にとって、人生における初めての挫折は、ユヴェリルブルグで隠遁生活を送っていたサルティコフ大公の急な呼び出しからはじまった。
「この子を養育しろ」
私がまだ十六歳になるかならないかの頃だった。
引き合わされたのはダークブロンドの髪、青い目をしたあどけない幼児だった。その子はおぼつかない足取りで大公の私室を動き回っていた。この子供のことは王宮でも噂になっていた。サルティコフ大公が囲っていた愛人の一人に産ませたという子だ。
「名はサーシャだ」
サルティコフ大公はぶっきらぼうに言った。
「サーシャ……アレクサンドル様ですか。名字はなんとおっしゃるのです? 父称は?」
「ただのサーシャでいい」
愛人の子にはサルティコフの姓も、父親の名も名乗らせないのだと私は理解した。
シェレメーチェフ家は確かに教育者が多いが、一介の若造、ただの士官候補生にすぎない自分に養育係がつとまるとは思わなかった。何の専門教育も受けていないのだから。
「おそれながら、私より乳母を雇ったほうがよろしいのでは」
勇気を出して言った提案は、大公にあっさり却下される。
「女は口が軽い。お前のほうが信用できる」
「しかし――」
私には王宮勤務という夢があった。
シェレメーチェフ家次期当主として、王宮に強いパイプを作っておく必要がある。その時間をこの子供の世話に費やすなど、ありえないことだった。
「なにも一生に渡って面倒を見ろと言っているのではない。この子が七歳になるときまででいい。陛下にもお前を借りる許可はいただいている」
私は溜息をついた。
そこまで言われたら、反論の余地はなかった。命令に逆らえるような立場でもない。
出世コースからはずれるが、仕方がない。大公に貸しを作っておけば、将来必ず報いがもたらされるだろう。
「お前にはこの屋敷の一室を与える。この子に父親と母親のことを聞かれても、決して答えてはならぬ。よいな」
「……はっ」
納得はいかなかったが、命じられたからには完璧にこなす。
任務とあれば、完璧に遂行する。そう覚悟を決めてからは完全に立ち直った。
独身の身でありながら、私は育児のエキスパートになった。王宮の舞踏会の華だった自分が育児に励む姿は、貴婦人たちには見せられないものだ。
だが時間がたっても、疑念はぬぐえなかった。身分ある人が愛人に産ませた、いわば公に認知できない子供を家来に下賜し、ひそかに育てさせるのはよくある話である。しかし、それは何も自分のような若造に任せなくてもいい話だった。ほかにも人材はいるだろうに。
ひょっとして――と、私は考えた。サルティコフ大公はこの子を手放すつもりはないのではないだろうか。愛人が産んだ子は、教会や施設に預けることも多いが、大公はこの子供を手元で育てることを選んだ。人を食ったような大公だが、このサーシャには確かに愛情を注いでいる。大公は独身で子供がいない。大公はもしかするとこの子供を自分の跡継ぎにしようとしているのではないだろうか。
サルティコフ大公は、アナスタシア王女に次いで、二番目の王位継承者である。国王、王女に万が一のことが起きれば、王位継承権は当然、大公に移る。そうなれば――この子がサルティコフ大公の息子であるなら、王位を継ぐ可能性も出てくる。
いや、愛人の子を王位に就かせた例はない。仮に王家の血筋を引いていたとしても、ルミャンツェフ派が反対するだろう。
しかし、現王女、大公に万が一のことがあった場合、王家の血筋はもはや残っていない。貴族とは王家を守るために存在するもの。もはや愛人の子などと言っていられる場合ではないのではないか。
「……キリル、おなかいたいの?」
大きな青い目が私の顔をのぞきこんでいた。
「いえ、大丈夫です。さ、昨日の復習をしましょう。立ち居振る舞いから」
私は妄想を打ち消した。すべては憶測にすぎない。
自分は大公の命令に従うまでだ。
***
サーシャは器用な子供だった。素直で飲み込みが早い。頭もいい――。それなのに、サルティコフ大公はこの子に決して帝王学を教えようとはしなかった。
王宮の小間使いとして完璧に仕えられるように。それが私に任された教育の内容だった。
「サーシャ、水をもっておいで」
「はい、かしこまりました。ご主人様」
一礼すると、サーシャは機敏に走っていった。
サーシャはサルティコフ大公のことを、ご主人様と呼ぶ。
私はますますわけがわからなかった。
大公は一体何を考えているのだろう。サーシャがサルティコフ大公の庶子だと思ったのは勘違いなのだろうか。いや、サーシャと大公の顔立ちはどこか似通っている。血縁関係であるのは間違いない。ゆくゆくは養子にするために、自分を養育係に任じたのかと思ったが、そのつもりはないのだろうか。
命じられたことに逆らってはならない。だが大公に訊かずにはいられなかった。
養育している間に情が移ってしまったのだろう。私はこの子供の行く末が気になった。
問いつめると、サルティコフ大公はあっさり白状した。
「この子は『鏡の館』に入れるつもりだ。あそこに欠員ができた」
「まだ子供ですよ! 十にも満たない!」
「至宝を守るためだ。それに我々も『鏡の館』の内部事情に通じておく必要があるだろう? 『鏡の館』は軍の警備が厳重で部外者の立ち入りは許されない。わしがいかに大公であろうともだ。サーシャをそこで働かせる。小さいあの子がスパイだとは誰も思うまい」
サルティコフ大公の言葉に反論こそしなかったが、私は理解できなかった。大公の言うとおり、子供だからこそ、動きやすいというのはあるだろう。
だが、私は出世コースを諦め、この子供をスパイにさせるために時間を費やしたのかと思うと、失望した。もっと大きな意義があったのではなかったのか。
大公もわかっているはずだ。サーシャには天性の資質がある。人をひきつけてやまない、帝王の資質が。
***
「鏡の館では、外の世界とは別の名前で呼ばれるそうです」
王宮にサーシャを連れていった私に、あたえられた別れの時間は五分だった。
五分という短い時間で、話せることなど限られている。
「あなたはサーシャではなく、アーサスと呼ばれます」
なぜそんな名前になるのか、鏡の館とはどういうところなのか、サーシャは一切質問しなかった。彼はいつも運命を受け入れる子だった。
「今日からアーサスか、別にいいけど。変な名前」とサーシャは笑い、「鏡の館」の建物の奥に消えた。
それがサーシャの養育係としての、私の最後の役目だった。
サーシャはスパイとして有能な役割を果たした。
鏡の館付近にサルティコフ派の私が出没するのは不信感をもたれるため、サーシャとのやり取りには、間に何人もの部下を挟んだ。
ほぼ毎日、私のもとにサーシャからの報告文が届いた。
「ヤローキンは鏡の館にいます。十時から十二時まで。作曲執筆。鏡の館、異常なし」
サルティコフ大公はとりわけヤローキンの動向に関心を持っているようだった。あたかもヤローキンを見張らせるためにサーシャを鏡の館にいれたかのようだ。
なぜサルティコフ大公がヤローキンに関心を持っているのだろう。音楽好きの血が騒ぐのだろうか。
ヤローキンは一介の音楽家にすぎないのに――。
***
「キリル、あのくそじじいはまだ生きているのか?」
あるとき、王宮でニコライ十世に会った。
廊下を歩いていたときに、呼び止められた私は、謁見室に案内された。
国王が言う、くそじじいが誰をさすのか、瞬時に察知した。
「は。サルティコフ大公閣下は持病の心臓発作で寝込まれております」
「くたばりそうなのか?」
「いえ、養生すれば大事ないと伺っております」
サーシャの養育に携わった褒美として、私の王宮勤務の復帰は叶ったが、実際に任されたのは閑職だった。軍人として武勲を立てることもなければ、軍会議に加わることもない。
もっとスパイであるサーシャを監視する立場であるのだから、当然のことかもしれないが。
ニコライ十世は若いときに会ったときと変わらない。
国王と大公は、お互いに馬鹿国王、くそじじいと罵り合っている。
「あのくそじじい、もう半年以上も王宮に顔を見せていない」
「容態が悪いようですから」
「国王の主治医を断るほどの病気というのは一体なんなのだ。時間があるときにさぐってこい。国中の薬という薬を送りつけてやる」
「は」
世間では国王と大公は仲が悪いという評判だったが、国王はどこかで大公がいないのを寂しがっているようにも見えた。
即位するまで王宮に住んでいなかった国王には親しい側近はいない。
王宮内にはリトヴィス人が多数おり、国王は人知れず、何度も暗殺されかかったという。
国王という、誰もが羨む地位にいながらにして、ニコライ十世は誰よりも孤独であるように見えた。
一礼して、退室しようとしたときだった。
「お父様!」
私の目の前に小さい少女が飛び込んできた。国王を父と呼ぶ人は、王宮に一人しかいない。リトヴィス王妃との間に生まれた一人娘、アナスタシア王女だ。
彼女の顔を見た私は狼狽した。一瞬、彼女の面影にサーシャが重なったからだ。
サーシャと同じ、青い瞳をしていたからだろうか。
サーシャが大公の子供なら、血縁にあたるのだから似ているのも無理はないだろうが。それにしてはあまりにも似すぎていた。それと、彼女の目の色にも驚いた。
世間ではアナスタシア王女はリトヴィス人の血をひいたため、茶色の目をしていると言われていたから。
「どうした」
謁見中にもかかわらず、国王は王女を膝の上に抱き寄せた。
王女は口をとがらせ、国王に言った。
「歴史教師のワシリエワ夫人が気にくわないの。自分の教え方が下手なのを棚にあげて私に鞭をふるうっていうのよ。辞めさせてちょうだい」
「わかった」
「それとね……新しいドレスがほしいの。今度の集まりで着られるように。新調してもいいかしら」
「ああ、仕立て屋を呼んで好きなようにするがいい」
「うれしい。愛してるわ、お父様」
頬にキスをすると、王女はパタパタと去っていった。美しい少女だが、わがままだった。彼女の要求を国王はすべて受け入れた。
私の顔を見て、国王は訊いた。
「娘に甘いと思われるかね?」
「いえ……」
リトヴィスの血をひく王女なのだから、仕方ないのだろう。国王でもリトヴィスの人間には逆らえない。
「不憫な子だ。おそらく長くは生きられない。それゆえ、つい甘くなってしまう」
「……お体が悪いのですか?」
リトヴィスから嫁いできたソフィア王妃は虚弱で、王女を産んですぐに亡くなった。
国王はその問いには答えなかった。
「キリル、大公に伝えよ。国王になれば、何でも思いのままになると思っていたが、なに一つ思いのままにならぬ。大公は卑怯だ。それをわかって、国王の座を私に押し付けたのだから。私はふがいない国王だ。国民はおろか、愛する女性も、子供も、誰一人幸せにできぬ。末代まで呪ってやる――とな!」
***
いつだったが、国王の私室から出てきたときに、ばったりサーシャと遭遇した。
官服を着て、王宮の厨房から飲み物を運ぶ途中だった。
「キリ……」
言いかけてたサーシャはすぐに口をとじ、一礼した。王宮内では知らないふりをするように命令されていたことを思い出したのだ。
私も普段なら素通りしただろうが、その日に限って、サーシャと話がしたかった。
幸い、あたりに人はいなかった。
「靴が汚れた。拭きたまえ」
サーシャはその意図をすぐに理解した。持っていた果実酒の瓶を開け、私の革靴の上にこぼす。
「申し訳ありません。すぐに拭きます」
そして懐から布を取り出し、私の足元に屈んだ。
「……元気でやっていますか?」
そう訊くと、サーシャは頷いた。
「辛くはないですか?」
「大丈夫」と答えたあと、ややあってサーシャは口にした。
「ねえ、キリルは私の父上と母上のことを知ってる?」
当然といえば、当然の質問だった。
今までサーシャが一度も訊いてこなかったのが不思議なくらいだ。自分の父母は誰なのか、気にかけない人はいない。
丁寧に靴を拭きながら、サーシャは言った。
「皆には父称と名字があるでしょ。キリルにだって、セルゲーヴィチ・シェレメーチェフといったれっきとした長い名前がある。どうして私だけサーシャなの?」
「必要がないからです。ここにいる限り、あなたの父親の名前も名字も必要ありません」
「そうか。……そうだね。鏡の館の住人たちには皆、ひとつの名前しかない」
サーシャはにっこり笑って言った。
「汚れはとれました」
そして別れた。あのとき、自分の憶測を口にしていなくてよかったと、私はあとになって胸をなでおろした。
長年、サーシャはサルティコフ大公の庶子だと思っていたが、その憶測は正しくなかったからだ。
それが真実だったとしても、世の中には謎にしておいたほうがいいことのほうが多い。それをキリルはサルティコフ大公から学んだ。
サーシャには何も言わなかった。だからあの子が何も知らないと思っていた。
だがあの小さな子供は、大人たちが隠していたすべてに勘付いていたのだった。
→(次回)「青の緞帳が下りるまで #27」(第八章 戯曲 コーリャと村娘の恋 1 )
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