青の緞帳が下りるまで #039
「どこに行ってたんですか!」
Y劇場を出るなり、跳んできたアンナの怒声にイーラは首をすくめる。大きなカメラを首からさげたアンナは顔を真っ赤にしている。
「肝心なときにいなくなって、こっちは困ってたんですよ」
「ごめんなさい。そんなつもりはなかったの」
「ひょっとして、いやがらせですか?」
アンナは頬をふくらませる。
「いやがらせ?」
「イーラさんの本が出版延期になって、私の本が先に出るので」
「ああ……」
昨日まではそういう感情も持っていたかもしれない。けれどマエストロと会って話しているうちに消え去ってしまった。
「それとも記者会見の私の態度にあきれたとか。そういうの、はっきり言ってもらわないと、私、わからないんです。何かやらかしたのなら謝りますから」
「違うわよ。皆のかげでスクープをもらったの」
「なんですか、それ」
「楽屋でのマエストロの話」
イーラはアンナにメモ書きを見せる。マエストロが語った話は、すべてを記事にすることはない。だが、マエストロがこの国の音楽教育のために戻ってきた――という話くらいは、公にしてもいいだろう。
「やりますね。抜け駆けですか!」
「しー! 声が大きい」
「これなら編集長も喜びますよ。マエストロ、楽屋にこもったきりで全然外出しないので皆やきもきしていたんです」
「それならよかったわ」
アンナはイーラの顔を見る。
「あの、さっきマルーシャさんが来たんですけど、アナスタシア王女に関する資料を整理していたら、おもしろいものが見つかったって言ってくれましたよ」
「そうなの」
「チャンスじゃないですか。今よりもっとおもしろい本が仕上がるかもしれませんね。おばあさまも喜ばれるんじゃないですか?」
彼女は彼女なりに、イーラを元気づけてくれようとしているのだろう。
「そうね」
と、答えたイーラは、そういえば――とあることを思い出した。
祖母は、アナスタシア王女に会ったことがあると話したけれど、Aはアナスタシア王女ではなく、サーシャという少年だった。
では王女と会ったと話したのは、祖母の勘違いだったのだろうか。
祖母が会ったのは、一体誰だったのだろう。
劇場から流れるヤローキンの聖歌を聴きながら、イーラは目をとじる。
あれは祖母が亡くなる直前のことだった。祖母はなつかしい夢を見たといい、その内容をそばにいた幼いイーラに教えてくれた。
「アルトランディアが共和国になり、ユヴェリルブルグの小さな劇場で、私がアナスタシア王女を演じて、何度目かのことよ。不思議なお客が来たの。その人はともを連れず、一人だった。年頃は私と同じくらい。全身黒ずくめで、細身だった。首にショールを巻いていたの」
――アナスタシア王女の演技を見たわ。おもしろかった。
「そう言って、その女性は楽屋に入ってきたの。私はてっきりファンだと思って、軽い対応をしてしまったのよ。
――あなたは?
――プショークの知り合い、と言ったらわかるかしら」
――プショーク……ですか?
「プショークというのは、リトヴィス語でネコという意味。どこかで聞いたことがあるようなことがしたけれど、思い出せず、私はうまく答えられなかった。その人は私の反応を待たず、公演の感想を話してきたの」
――よく嫌われものの王女の役を引き受けたわね。観客の中には役と演者を同一視する人もいるでしょうから、大変でしょう。
――そんなことはないです。私はアナスタシア王女の役が好きなんです。
――まあ、どうして?
――私の知っている子が教えてくれたんです。王女は紛れもなく、アルトランディアの王族だって。
「そう答えたら、その人は軽く微笑んだ気がしたの」
祖母はそのときを思い出すように目を伏せた。
「私がユヴェリルブルグで会った子が、王女からプショークと呼ばれていたことを思い出したのは、それからしばらく経ってから。楽屋で会った黒ずくめの女性は、どこかその子に似ているような気がしたわ。その女性はどこか輪郭がぼんやりとしていたの。彼女が逃げ延びた王女なのか、それとも王女がプショークと呼んでいることを知っていた女官なのかはわからない。もしかしたら……幽霊だったのかもしれないわね。でも、その人は私がアナスタシア王女について疑問に思っていたことを、答えてくれたの」
――私は王女がヤローキンを嫌った理由がよくわからないんです。
――単に、ヤローキンに対して呆れていたからでは?
――呆れていた?
――当時、王女はまだ十四、五歳でしょう? 反抗期まっさかりじゃないかしら。ヤローキンは人には犠牲を強いて、自分だけ楽しみを享受していたもの。
――ヤローキンってそういう人だったんですか?
――王女の目にはそううつったのよ。王女は愛する人を幸せにできないような男性が嫌いだったんじゃないかしら。国王賛歌の二番は、王女に媚びを売って作った物。それで王女が喜ぶと思ったんでしょう。
「その人の話は、まるで王女を誰よりもよく知る人の話だった」
祖母はしみじみと語った。役者だった祖母は、もともと台詞を覚えるのが早かったそうだが、記憶力もよかった。そのときの会話を一語一句、違えずに覚えていた。黒ずくめの女性の、美しい青色の瞳を見て、絶対に覚えておかなければならない、と強く感じたそうだ。
――ヴィーカと言ったかしら。あなたの王女の演技はよかったわ。アルトランディア人らしさがとても出ていた。けれどね、王女はアルトランディア人であってはいけないのです。
――どうしてですか?
――この国の独立のためです。王女は子供のときから、半分リトヴィス人であることで心ない差別を受けてきました。それは決して、可哀想なことではないのです。そうやって憐れまれるようなことを、王女は嫌います。それだけの自尊心を持っているのです。王女は自分から嫌われ役を買って出たのです。自分一人が悪者になることで、国民が奮起し、自由を取り戻すことができるのなら――王女は喜んで悪者になるでしょう。あなたにはそういう王女役を演じてほしい。
なぜ王女が国王賛歌を嫌ったのか。その問いを投げかけたとき、黒ずくめの女性は「なんてくだらない質問」という表情を一瞬したが、思いなおし、誠実に答えてくれた。きっとその言葉――王女の想いを伝えるために、その女性は祖母のもとにあらわれたのだろう。
――平和な時代には、国王賛歌は必要ないのです。リトヴィスの圧政から逃れるために、歌で団結する必要もないのです。思想も、歌も、人生も、あらゆることが本来は自由なのです。君主であっても、庶民であっても――誰かに損なわれることなく、不安に怯えることなく、しがらみから解かれ、自由に自分が望むことができる。神からあたえられた才能を活かし、自分の人生を謳歌する。
いつか、そういう時代が来てほしいと心から願っています。
平和な世を作るために、これまで望まぬ犠牲を払った多くの人たちのためにも。
→(次回)「青の緞帳が下りるまで #40」( 展示品八 王女の日記)
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