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青の緞帳が下りるまで #21

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第五章 ヴィーカの記憶 1


 一月十一日。
 潜伏生活に退屈していた王女――ヴィーカはサーシャの手元をのぞく。サーシャはずっと紙に楽譜を書きつけていた。
 かと思えば、詩のようなものを書き込んでいる。

「これ、なんなの?」

「国王讃歌の二番の歌詞だよ」

「二番なんてあったの?」

 そう言うと、サーシャは笑った。ヴィターリーにも同じことを聞かれたと。

「だいたい有名になるのは、一番の歌詞だからね。アナイ・タートの練習につきあったことがあるんだけど、アナイ・タートも本番では一番しか歌わないと言っていたっけ」

「へえ……」

 アナイ・タートというのが、国を代表する歌手であることは、推測して知った。ヴィーカは深掘りしなかった。自分には縁のない話。
 サーシャの話すことは、専門用語を含め、ちんぷんかんぷんだったから、それ以上、聞かなかった。

「音楽家という人種に出会ったのは初めてだわ。それも二人も」

 ヴィーカはサーシャに言った。ミーチャとヴィターリーに聞かせたくない話をするときは、リトヴィス語を使った。

「役者を目指していたのなら、演奏家に会ったことはあるんじゃなの?」

「役者といっても、小さな劇団よ。それでもがんばって、サルティコフ大公の劇場に拾ってもらえそうだったのに、こんな事態になるんだもの。次に舞台に立てるのはいつになることやら――」

「それで一世一代の芝居を打とうとしたわけ?」

「そうよ」

「大胆だね」

「でも成功したわけじゃない。あなたが協力してくれたら、もっとうまくいくわ。そうね、私がアナスタシア王女になれたら、王女に仕える仕事をあげる。報酬を約束するわ」

「それは無理だと思うよ」

 サーシャはやんわりと言った。

「どういう意味よ」

「アナスタシア王女の真似は誰もできない」

「どうして?」

「覚悟が違うんだ」

 サーシャはさらりと言った。

「普通の役者なら、ステージの上に立つときだけ演じればいい。ステージをおりれば役から離れて普通の人になる。でも彼女はそうではない。物心ついたときからずっと、アナスタシア王女の役を演じ続けてきたんだ。起きているときも、寝ているときも。たぶん後世の人にもそう思われるように。並大抵のことじゃない。覚悟が違うよ」

「演じ続けるって……彼女は生まれつきアナスタシア王女だったんでしょう?」

「そうだけど。彼女は人が思う、アナスタシア王女を演じ続けていた気がする」

「性格が悪いって評判だったけど」

 ヴィーカはサーシャが話すことを紙に書きつける。

「悪いといえば、悪いんだろうね。でも、やっぱり――やさしい人だった。ネコにケーキをわざわざ持ってきてくれようとしたんだ」

「ネコに? 死んでしまうじゃない」

「普通の女の子だよ。自分が好きなものを、自分の大切なネコにあげたくなった。それだけのことだよ」

 サーシャが言う、普通の女の子、というところが、ヴィーカは理解できなかった。発言の年齢が十四くらいなら、一般に必要な常識や知識が欠けているように思えた。

 しかし、このサーシャだ。王女のことを聞けば、いともたやすく、すらすらと答える。もちろん王女のことなら何もかも知っているというわけではないが、彼女の言葉を聞くと、世間のアナスタシア王女とはまったく別の王女像が浮かびあがってくる。

「ねえ、サーシャ。どうしてこんなに深いところまで知っているの?」

「ただ本人を見ていてわかったんだ」

「じゃあ、ほかに何を知っているの? なんで王女はヤローキンの王女賛歌を嫌ったの?」

「王女賛歌を嫌ったというより、ヤローキンを嫌ったんじゃないかな」

「ヤローキンを?」

「そんなに変な人だったの?」

「外見は普通だと思うよ。ただ王女の目から見ると、皆に犠牲を強いるのに、彼だけ好きなことをやっているように見えたんじゃないかな。王女の意志を踏みにじるような予定変更をすることもあったし」

「……よくわからないわ。ヤローキンって人間的に問題がある人だったの?」

「私も実際のところ、よくわかっていないんだ。でもヤローキンはヤローキンで皆のことを考えていたし、王女は王女で皆のことを考えていた。それだけのことだよ。二人を見ていると思った。ああ、言葉より音楽のほうが――ずっと対話が楽なんだなって」

「あなたの言葉って難解だわ」

 そう言うと、サーシャは苦笑した。

「確かに。言葉って難しいよね」

 サーシャはその日の夕方もこっそり劇場を抜け出して、駅前広場に行っていた。ヴィーカは気づいていたが、何も言わなかった。
 彼女にとって、ヤローキンがどれほど大切な人かを知ったからだ。その気持ちはリトヴィスとの抗争で家族を失ったヴィーカには、痛いほどわかった。

 生きていくために、ヴィーカはアナスタシア王女になろうとした。けれど、家族が生きているなら、その人たちと生きる道を選んだだろう。家族のために、青の緞帳の舞台に立つことだけを考えて生きたかった。

 アナスタシア王女になりたいと願ったのは、王女という権力者に――万が一なれれば、人を救うことができるのではないかと思ったからだ。
 いつも思っていた。国王といい、王女といい、権力のある人たちはなぜ自分たちばかり贅沢をして、庶民のことを思ってくれないのだろう。自分がその立場にいれば、絶対に国民を戦争で死傷させたり、飢えさせたりはしないのに。
 そんなことは誰にも話せないけれど。

 サーシャは音も立てず、裏口から戻ってきた。彼女の体に降り積もった雪を、ヴィーカは手ではらう。

「ヤローキンに会えた?」

 そう聞くと、サーシャは首を横にふった。

「王女の捜索隊が出ていた。ヤローキンがここに来ないのは、王女の逃亡を手伝うために、動いているからかもしれない」

「ヤローキンって、そんなにご大層な人だったの」

「そうだね」

 ヤローキンのことは聞いても、一定以上のことはサーシャの口から聞き出せなかった。

「サーシャ、続きを聞かせてくれないかしら。王女に会ったときの話」

 いいよ、と言って、サーシャは紅茶を淹れ、ヴィーカの前に座った。
 喉が痛むのか、時折、サーシャの声は掠れた。

「王女の音楽のレッスンを見学させてもらったことがあるんだ」

「すごいじゃない」

「すごい……ことなのかな……。ヤローキンの命令みたいなものだったんだけど」

「一般の人なら、王女様に会えないわよ。で、どんな感じの人だったの?」

「私のことをプショークって呼んだ」

 サーシャはなつかしそうに笑った。

「プショーク? ひどいわね。それってネコに対する呼び名じゃない」

「ひどいかな」

 サーシャは首をかしげた。この子も王女に負けず劣らず、感覚がおかしいところがある。ヴィーカは憤った。

「ひどいわよ。アナスタシア王女を演じるために、サーシャのことをプショークって呼ぶようにって言われても心理的に無理よ。人を家畜扱いしているのと同じじゃない。そりゃお貴族様や王女様にとって、庶民は家畜同然なのかもしれないけど」

「別にヴィーカにプショークって呼んでほしいってわけじゃないよ。言葉で見ると、ひどいかもしれないけど、実際に言われてみないと、その気持ちはわからないよ」

「どっちにしてもひどいわよ」

 ヴィーカははっきりと言った。王女のような高貴な人から直接声をかけられたら、プショークでも嬉しいのかもしれないけれど。
 サーシャはイーラの剣幕に苦笑し、話を続けた。

「王女と直接会ったのは、数えるほど。何度も言ったけれど、私が知る限り、とても愛情深い方だった」

「そんな話、聞いたことがないわ」

「私も王女のそばでお仕えしたわけではないから、その人となりはわからない。でも皆が思うような、単なるわがままな方ではなかった」

「あなたが王女のことを個人的に知っているのなら、私もあなたのことを知っているふりをしたほうがいいのかしら」

「いや、知らないまま、このままでいいと思うよ」

 サーシャは紅茶をすすった。

「王女は誰とも親しくしない方だった。ヤローキンのことも嫌っていたし、音楽は好きではないと公言していたそうだし。でも私は人の言葉は信用できない。私にはわからないけど。あえて、そうしていたんじゃないかと思う」

「嘘を言っていたってこと?」

 ヴィーカの言葉にサーシャはうなずく。

「嘘というより、演技だよ。私に一つ言えることは、王女は紛れもなく、アルトランディアの王族だった」

「どういう意味?」

「至宝を、逃がそうとしたんだ」

「至宝?」

「その覚悟があったから、彼女はやはり王女なんだと思ったよ」

 ヴィーカはそのとき、サーシャが言っている意味の半分も理解できていなかった。
 アルトランディアの至宝という言葉は、国王賛歌で歌われる。

王よ、国の至宝を守りたまえ

 その至宝とは、国宝のトパーズだと一般には理解されている。
 王女が至宝を逃がそうとしたというのは、トパーズの国外流出を防ごうとしたのだろうか。

 ヴィーカが部屋にこもって考えている頃、ミーチャはヴィーカの部屋から出てきたサーシャを捕まえた。

「外出したのか?」

 脅すような声にもサーシャは屈しない。

「あなたに命令されることではないよ」

「何度も言っているだろう。ここが見つかったらどうする」

「大丈夫。一週間の間、私たちが絶対に見つかることはない」

「その根拠はどこに」

「あなたがここにいるのがサルティコフ大公の命令なら、大公が守ってくださるんじゃないかな」

 サーシャの根拠のない言葉に、ミーチャは溜息をつく。

「大事な話がある。きみと一対一で話しておきたかった。……きみはヴィーチャが好きか?」

「好きだよ」

「だったら――協力してほしい。ヴィーチャが何を吹き込んだか知らないが、きみの旅券は作れない。切符もヴィーチャの分しかないんだ」

「わかってるよ」

 サーシャはあっさりと引き下がる。ミーチャが逆に拍子抜けするほど、ものわかりがよかった。

「すまない」

「いいんだ。気にしないで。私が国外に出られないのはわかっている」

「そうか」

「国外に行くのは夢だけれど、無理なのは覚悟しているから」

 サーシャの大人びた言葉を聞いて、ミーチャは思った。
 発した言葉というのは、思いがけずその人をあらわす。
 サーシャはヴィターリーのように夢を追うのではなく、現実に即した考え方をする。自分にとって悪いことであっても、真実は最初に知っておきたいと思うタイプの人間だ。

 それならば、あのことを言っておいたほうがいいのではないだろうか――。
 あまりにもスムーズに会話が進んだせいで、ミーチャはつい、言うつもりがなかったことを口にしてしまった。サーシャへのお礼のつもりで。

「サーシャ」

 部屋に戻ろうとするサーシャをミーチャは呼び止める。

「なに?」

「驚かないで聞いてほしい。ヤローキンは死んだ」

 言った瞬間、ミーチャは後悔した。
 いくら聡いとはいっても、相手はまだ十代の子供だ。
 さすがに酷だったかもしれない。と同時に、なぜ口にしてしまったのか、自責したい気分にかられた。
 サーシャは一瞬、複雑な感情がないまぜになった表情をしたが、すぐにミーチャに笑顔を作って見せた。

「……嘘だ」

「嘘じゃない。だから、ここで待ってもヤローキンは来ないんだ。絶対に」

「私は信じない」

「つらいかもしれないが、現実は受け入れたほうがいい」

「ヤローキンは死なない」

 サーシャは青ざめた顔をマフラーで覆うと、走りさった。

(しまった……)

 なんて顔をさせたのだろう、とミーチャは顔を覆う。
 いつも後悔することばかりだ。自分がよかれと思ったことは、いつもよくない結果になる。人を悲しませてしまう。自分の判断はどこかで間違っている。
 ヴィーカを泣かせるつもりはなかったのに泣かせてしまった。あのときと同じだ。
 自分は人間として、なにか欠けているのではないだろうか。
 傷ついている少女に、なぜ追い討ちをかけるようなことを言ってしまったのだろう。

 真実を告げるなら早いうちがいいと思った。
 いや、そうだろうか。ヴィターリーがサーシャに夢中になりすぎるのを防ぐためだったのではないだろうか。
 ヤローキンを待つという口実で、ヴィターリーが列車が再開してもユヴェリルブルグに留まると言い出さないように――。


 ***

「そうだったのですね」

 ミーチャの手記を読んだマエストロは老眼鏡をはずし、目をしばたたかせる。
 この書類は保管するわけにはいかない。またマエストロも、この書類を持ってアルトランディアから出ることはできない。
 マエストロは丁寧に書類の端を揃えると、イーラの手元に戻した。

「……私はミーチャとサーシャの間にそんなやり取りがあったということも知りませんでした。私はサーシャという才能を手に入れて、無邪気に夢を描いていたのです。サーシャが成功の女神のように思えて仕方なかった」

 マエストロはイーラに言った。イーラは、時折メモをとる。それは公表するためのものではなく、自分の祖父の話を覚えておくためのものだった。
 四十年前の出来事は、老マエストロの頭の中では、昨日のことのように存在している。

「サーシャと初めて会ったのが、あの駅前広場でした。アナイ・タートという歌手に出会ったヤローキンの気持ちがわかった気がしました。サーシャを手放したくなかった。彼女のためなら何曲でも書けると思った。彼女が自分の曲を歌ってくれたら幸せだっただろうし、どこまでも一緒に行けると思いました」

 そのとき、楽屋の扉が執拗に叩かれた。

「ああ、もうこんな時間か。リハーサルが始まってしまう」

 マエストロは腰を浮かせた。

「では、お嬢さん。残りの資料――台本と覚書はお借りしておきます。必ず明日、お返しします」

 マエストロ――ヴィターリーはイーラに手を差しのべ、握手した。
 別れ際、イーラはマエストロを呼び止める。明日、もう一度会う予定ができたが、どうしても今、訊いておかないことがあった。明日があるなどという保証など、どこにもない。
 少なくとも、戦禍を経験したアルトランディア人はそう思う。

「マエストロ、あなたは――そのまま残りの日数を劇場で過ごし、ドイツ行きの列車に乗って国外に出たのですか? ずっと父と一緒だったのですか?」

「いえ……」

 マエストロは首を振った。

「物事はそう簡単には進みませんでしたよ。サルティコフ大公が消息を絶ったんです」

→(次回)「青の緞帳が下りるまで #22」(第五章 ヴィーカの記憶2)

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