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青の緞帳が下りるまで #01


序章 A王女 1

 一九五四年三月。
 アルトランディア国立鉄道の夜行列車に乗ったイーラは、早朝、ユヴェリルブルグ駅に降り立った。ユヴェリルブルグはイーラの亡き祖母の故郷であり、祖父母の墓がある。
 駅の中央広場には、アルトランディア共和国の独立を祝う飾りがほどこされ、多くの人々でにぎわっている。
 一週間後の独立記念日には、戦禍の後、修復されたY劇場に特別なゲストを迎えての音楽祭が催されるとのことで、街はわいていた。
 広場からのびる裏路地には商いをする人たちが集い、いせいのよい呼び声が響く。
 食料品を売る人、家でとれた野菜や穀物。油で作った石けんや洗剤。物があるということは、戦争が終わり、長年の鎖国政策が解かれたということ。
 さまざまな商品の中に、かつては見かけなかった娯楽の品々がある。とりわけ色鮮やかな色彩を放つ商品がある。花だ。

 戦争の間、花を買う人はいなかった。
 イーラは花屋の軒先に足を踏み入れる。春らしいやさしい色合いの中に、淡い青色が目にとびこんでくる。アルトランディア共和国の国旗に使われる青。この国の産出物であるブルートパーズの青。かつて王政だった時代から、アルトランディア人の好む色は変わらない。
 いつしか青色は幸福の象徴であると言われるようになり、人々は家のどこかに青色を飾るようになった。
 イーラの祖母が愛したのも、また青色の花だった。
 小さな青い星が輝いているようなオキシペタラムの花束を買うと、イーラはユヴェリルブルグの教会の墓地に向かった。

 かつてはこの地を治めていたサルティコフ大公は音楽と芸術を愛し、領内に数多くの劇場を作った。劇場だけでは飽き足らず、教会の音響設備にもこだわったという。
 教会の二階から流れてくる聖歌隊の歌は、まるで天使の声だ。
 音楽や芸術は非常時ほど必要とされなくなる。彼の浪費癖は戦時中、各方面から叩かれた。けれど平和になった今は、貴重な観光資源となり、サルティコフ大公は先見の明があった、名君であったと評されている。
 彼がおこなったことの事実は変わらないのに、その時代や状況で、評価は変わる。
 だとしたら、彼女の評価も、変わるのではないだろうか。

 イーラは十字架の間を歩き、目的の場所を見つけた。祖母――ヴィーカの墓だ。
 木製の十字架が立っているだけの墓は殺風景だが、戦争の最中、これが精一杯だった。ヴィクトリア・アファナーシエワという名の隣に「役者、A王女を演じる」と刻まれている。そう、祖母は小さな劇団の女優だった。
 イーラの家に、舞台に立つ祖母の彩色写真が残っているが、確かに華やかな顔立ちをしていた。演じたのは主にヒロインで「あのA王女の役も演じたことがあるのよ」と幼いイーラに話した。

 A王女とは、アルトランディア王国最後の王女、アナスタシアのこと。アルトランディアの悲劇のはじまりと称される、悪名高い王女である。
 その王女の本を、イーラは著した。祖母の思い出話をまとめたのである。
 A王女と会ったことがある祖母は、そのときのことをほこらしげに語ったが、祖母の生前、王女のことは人前で話せることではなかった。
 アナスタシア王女は、最後の国王ニコライ十世の一人娘であり、ユヴェリルブルグ領主サルティコフ大公の姪孫にあたる。
 イーラが生まれる前、アルトランディア王国は隣国リトヴィスの侵攻に苦しめられていた。そこでニコライ十世はリトヴィス人の女性を王妃に迎え、一時的に和解をはかった。ところが生まれたアナスタシア王女は完全にリトヴィス寄りの考えを持ち、アルトランディアの文化や芸術に敬意をはらわなかったため、国民からの信望を失った。
 その後、国王の即位記念を祝う劇場で、国王暗殺事件が起きた。その首謀者はリトヴィス人とも、臨時政府の人間とも言われ、四十年経った今でも真相は謎に包まれているが、はっきりわかっている事実が一つある。国王及び縁戚、来賓数百名が命を落とした事件で、アナスタシア王女はリトヴィスの兵の力を借り、王都から脱出したのである。

 王女が生き延びたのか、亡くなったのかもわからない。
 ただ国王暗殺事件の犯人が誰であったとしても、犯行には王女が絡んでいたと国民は強く信じており、後にアナスタシア王女が首謀者とする演劇作品が数多く上演された。
 その憎まれ役の王女が、役者であったイーラの祖母の当たり役だった。

 王政廃止後、アルトランディアは共和国制になったが、第二次世界大戦中はリトヴィスに政権下におかれた。そのため、アルトランディア人の多くは、今なおリトヴィスを憎む人が多い。独立運動のスローガンが「リトヴィス人の王妃も、王女も不要」であったことから、国民の王女への反感は推して知るべきであろう。
 その王女を、なぜか祖母は一度も悪く言ったことがなかった。

 ――アナスタシア王女は昔からわがままだと言われていたわ。でも、いつだったかしら。私は王女を知る人と一緒に、ユヴェリルブルグの劇場で避難生活を送ったことがあるの。一週間ほどの期間だけど、私にとって忘れられない時間を過ごさせてもらったわ。その人が王女を悪く言わなかったから、私も自然と王女を悪く思えなかったのかもしれない。

 ――最初に王女を演じたときは、今からすると顔から火が出そうになるくらい、稚拙だった。でも楽しかったわ。王女を理解できた気がしたもの。もっとも、そんなことを世間で話したら、叩かれるでしょうけれどね。

 ――私は王女が悪い人だったとは思えないの。だから、あなたがいつか作家になって本を書くなら、王女を擁護する内容だとうれしいわ。王女の遺品の日記を読んだことがある? 普通の女の子としか思えないのよ。

 イーラは青いオキシペタラムの花を墓の前に置いた。

「ヴィーカおばあちゃん、久しぶりね。天国でおじいちゃんと仲良くしているかしら」

 イーラは膝をおり、祖母に話しかける。

「まっさきに報告したくて、おばあちゃんに会いにきたの。来週、私の原稿が出版されることになったのよ。おばあちゃんが話してくれた、アナスタシア王女の本を出すの。ママには反対されたけれど、私はどうしても世に出したかったの」

 イーラは祖母の顔を思い浮かべる。祖母ならきっと盛大に喜んで、抱擁してくれたはずだ。

「原稿を書き上げるまで三年。原稿に興味を持ってくれる出版社が見つかるまで二年もかかったの。そういう業界のことなんて右も左もわからないから」

 イーラは鞄から紙束を取り出した。

「今、戦時中のことを出版したい人が大勢いるんですって。その中で、私の原稿が選ばれたのは幸運なことだったわ。お墓の前にゲラを置いておくわね。一カ月前に仕上げたものなの。次に来るときは必ず本を持ってくるわ。タイトルはね。おじいちゃんの資料から借りたの。『アナスタシア王女はアルトランディア人だった』どう? なかなかセンセーショナルでしょう?」

 アナスタシア王女を、敵国リトヴィスの王女と罵る著作は多々あっても、アルトランディア人と称する本は、まだどこにも出てはいないはずだ。
 イーラは話を続けた。

「この本の発売記念イベントが、来週ユヴェリルブルグのY劇場でおこなわれるのよ。私の本の話を聞いたら、従姉のマルーシャが――彼女、戦後、劇場の職員になったんだけど、ぜひ企画展をやりたいって言ってくれて、それでここに来たの」

 ユヴェリルブルグ劇場が冠するYはYalokin―ヤローキン。ヤローキンは最後の国王の音楽師範であった作曲家であり、リトヴィスからの独立運動の際、彼の歌が国民の機運を高めた。その功労を称え、修復された劇場は「Y(ヤローキン記念)劇場」と名づけられたのである。

「そういえば、おじいちゃんとおばあちゃんが非常時に避難生活を送っていたのも、あのY劇場だったわよね。今回、劇場のロビーで独立記念日にあわせて、劇場にまつわる展示がおこなわれるとかで、おじいちゃんが残した資料を一部、提供したのよ。せっかくだから、おじいちゃんとおばあちゃんの若いときの写真とか見てもらいたいじゃない」

 イーラは色あせた白黒写真を思い出しながら言った。
 写真にうつっているのは三人。軍服を着た二十代くらいの青年と、髪を編んだ女性。そしておとなしそうな少年。

 写真の裏に「ヴィーカ、ヴィーチャと一緒に」というメモ書きと、オゼルキ村のスタジオで撮影というスタンプが入っている。オゼルキ村は祖父の故郷だが、リトヴィス軍の侵攻により、現存しない。当時、写真は高価なものだったと聞いている。おそらくは軍による侵攻の前に、撮影された家族写真のようなものなのだろう。

 そのヴィーチャという少年が誰かはわからないが、祖母の弟か親戚の子なのかもしれない。
 祖父はその写真をとても大切にして、亡くなるときまで片時も離そうとしなかった。

「あ、そうそう。二人に謝らないといけないことがあるの」

 イーラは祖母の墓の隣の十字架に視線を移す。その下には祖父が眠っている。

「預かったおじいちゃんの手紙や資料を、原稿を書くときの資料に使わせてもらったの。おじいちゃんの知人に渡すべきもので、誰にも読ませるなと言われたけど――おじいちゃんが亡くなって三十年以上経つから、さすがに時効じゃないかと思って」

 軍人であった、厳格な祖父が聞いたら怒るかもしれないが、貴重な資料を使わないわけにはいかなかった。

「残念だけど、おじいちゃんが話した、ヴォルホフっていう人とはずっと会えなかったわ」

 イーラは墓に刻まれた祖父の名に向かって話す。

「生きていたら七十か八十歳かしら。でも二度の戦争があったわけだし、高齢だしで、亡くなっている可能性が高いんじゃないかと思うの。資料を使ったのは、おじいちゃんの意志に背くことになるけれど、今だからこそ、皆に真実を知ってほしいの。そうすることがおじいちゃんの名誉回復にもつながると思うから」

 祖父は軍人時代、王宮の宝物庫の至宝を疎開する任務に携わっていた。至宝が具体的に何かはわかっていないが、おそらくは国宝のトパーズであろうと推測された。
 その至宝は疎開の最中、失われてしまったため、責任を問われた祖父は収監された。その後、一切の身分や称号を剥奪され、不遇な晩年を送ったが、祖父が残した資料から、祖父が無実であることは明らかだった。孫のイーラからすると、なぜ不当な扱いを受けた祖父が一言も言い訳しなかったのか、そちらのほうが謎で仕方なかった。
 わかっていれば、イーラ自身も、イーラの両親も、ずっと生きやすかったはずだ。

 イーラは腕時計を見て立ち上がる。

「じゃ、行くわね。劇場でマルーシャと会うことになっているの。おじいちゃんとおばあちゃんの思い出の場所を案内してもらうわね」

 墓地を出たイーラは、旧劇場通りに向かった。
 通りの奥に広がるレンガ造りの重厚な建物が、そのY劇場だ。
 空爆を受け、半壊状態になっていたが、住民の寄付によって修復工事がなされた。Y劇場前の広場には独立記念日に合わせた音楽祭ののぼりが立っている。

 噂では今回の音楽祭は国をあげた大々的なもので、亡命者が出演すると話題になっている。

「相当な大物が帰還するらしい」
「一体誰だろうね」
「直前まで秘密にされているんだって」

 道ゆく人たちが言葉を交わす。

 道端にはアルトランディアの英雄たちの名前が刻まれた記念碑が設置されている。

「あの時代を生き延びられたってすごいよね。餓死者も出たそうだし」

 祖母にとっては大変な時代も、楽しい思い出だった。楽しいと言うと、誤解を生みそうだけれど、祖母はいつも人生を楽しんでいた。

 ――若かった頃、あなたのおじいちゃんと一緒にユヴェリルブルグのY劇場で潜伏生活を送ったのよ。ここだけの話だけど、駅前広場の裏手から、劇場に続く通路があって、あなたのおじいちゃんと一緒に何度か出入りしたの。

 ――通りの角に、ケバブ売りがいてね。あの混乱の情勢の中なのに、なぜか店を開けていて、いつもおいしそうなにおいを漂わせていたの。ほしいと言ったら、おじいちゃんは私に買ってくれたの。

 祖母がこっそりイーラに話してくれた証言は、著書におさめた。

 ――劇場にはほかにも二人、避難生活を送る人たちがいたの。当時、国王暗殺のクーデターで列車が止まってしまって、皆ユヴェリルブルグに逃げてきたのよ。アナスタシア王女捜索のため、国境が封鎖されたこともあり、駅前広場は大勢の人で溢れかえっていたの。暴動も起きたという話もあとになって聞いたわ。でも、あの一週間はとても楽しかったのよ。

 祖母は一度、修復前の劇場にイーラを連れていってくれたことがある。そのときの祖母は、本当にうれしそうだった。

 ――ああ、ここよ。この楽屋に私たちは住んでいたの。

 そう言って、祖母は壁の落書きに触れた。

 ――ここに住んでいた四人が残したものなの。一人は国外に逃げたのよ。再会を誓ったのだけれど、結局会うことはなかったわね。

 戦争中、アルトランディアも東欧諸国と同様、鉄のカーテンの内側にあり、西欧の情報は一切、入らない状態だった。国外に出た人間が戻ることはゆるされず、亡命者のその後は、何ひとつ入らず、また亡命者と連絡をとることも厳刑とされた。

 ――現実は小説より奇なりという言い回しがあるけれど、本当だったわ。自分の身の上にあんなことが起きるとは思わなかった。つらくなかったといったら嘘になるけれど、生き延びられたのは幸運だったし、今にして思えば、ものすごい歴史的瞬間に立ち会うことができたの。

 祖母は多くを語らなかったけれど、その一人が祖父が会いたがっていたヴォルホフという人物であることは間違いなかった。その人は一体、今、どこで何をしているのだろう。この世にいないのであれば、どんな人生を送ったのだろう。

→(次回)「青の緞帳が下りるまで #02」(序章 A王女 2)


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