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青の緞帳が下りるまで #02

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序章 A王女 2


「イーラ!」

 Y劇場のエントランスで従姉のマルーシャが手をふっているのが見えた。
 イーラはマルーシャに駆け寄り、抱擁を交わした。

「マルーシャがY劇場の職員になっていたなんて知らなかったわ」
「私だってあなたが本当に本を書いていたなんて知らなかったわよ。しかもこのタイミングで」

 マルーシャはイーラにY劇場の企画展のチラシを見せる。刷ったばかりだという紙にはまだインクのにおいが残る。
 チラシの見出しは「アナスタシア王女展」。イーラの本にちなんだ企画展で、初日には発売記念記者会見やサイン会まで行われるという。

「本の出版はいよいよ来週ね。準備は整っているわよ」

 マルーシャはいたずらっぽくウインクして見せる。

「知らなかった。こんな大げさなことになっているの?」
「なに言っているの。あなたの夢が叶ったんじゃない。ヴィーカおばあちゃんはずっとイーラは作家になるって言ってたわ。私もその夢のお手伝いをさせてもらいたいの。もう戦争が終わったんだから、好きなことをしていい時代になったのよ」

 微笑むと、マルーシャはイーラの手をひっぱった。
「こっちに来て。見せたいものがあるの」

 赤い絨毯の上を二人は並んで歩く。

「なによ。なんなの?」
「あなたのおばあちゃんが夢見ていたものよ」

 観客席の扉の内に一歩踏み入れた瞬間、イーラは息をのんだ。

 ステージ上にかかげられた真っ青な青。精緻な金銀の刺繍がほどこされているが、目に飛び込んでくるのは青そのものの色。アルトランディア人の誇り――青の緞帳だ。

「刺繍の修復に莫大な費用がかかったんだけど、幸い、多くの方から寄付をいただいて、元通りにすることができたのよ。アルトランディア王国時代の紋章の刺繍に対しても、文句を言う人はいなかったわ」

「すごい……」

 イーラは鳥肌が立つ思いで、ステージを見つめた。

「ヴィーカおばあちゃんに見せてあげたかったわよね」

 マルーシャが言った途端、祖母の言葉が脳裏で響いた。

 ――イーラ、青の緞帳のステージに立つのは、この国の舞台・音楽関係者の夢だったのよ。

 アルトランディア王立劇場のことを、劇場関係者たちは敬意をこめて「青の緞帳」と呼んだ。
 才能を認められた、選ばれた人のみが立てる舞台。

 イーラの祖母が「青の緞帳」の舞台に立つことは一度もなかった。国家転覆のクーデターが起こり、国は演劇どころではなくなったからだ。王立劇場を含む、各地の劇場は閉鎖され、避難場所や食物倉庫となった。つまり祖母は第一次世界大戦に巻き込まれる形で、夢を諦めざるをえなかったのである。

「アナスタシア王女展のほうも見ておく?」
「いいの? でもそんなコーナー作って、本当に大丈夫なの?」
「来月上演される反アナスタシア王女の演劇でも使えるから、大丈夫よ。あなたの本もそういう話なんでしょう?」

 マルーシャの言葉にイーラは言いよどむ。自分の本がアナスタシア王女擁護の話であると、言い出せる雰囲気ではなかった。

「本の内容は読んでからのお楽しみ……かしら」
「そうなの? 残念だわ。ああ、王女の日記の写しはこれよ」

 展示コーナーの一角でマルーシャは立ち止まり、イーラに指さした。
 アナスタシア王女の日記は、祖母から聞いたことがある。アルトランディア人であれば、皆一度は目にしたことがある内容だ。

 ×月×日
 プショークというネコと出会う。
 おとなしい性質で、どれだけ悪さをしても、文句を言わない。
 週に一回、プショークに会いにいくのが楽しみ。
 餌にケーキを持っていこうとしたら、女官に注意される。
 ネコにケーキをやると病気になるらしい。まわりの干渉がわずらわしい。

「こういう日記を読むと、王女のわがままさとか、モラルのなさっていうのがわかるわよね。性格悪そうだもの」

 マルーシャは呆れたように言った。

 読む人によって印象が違うのだろうか。これを読んだ祖母は、アナスタシア王女を普通の女の子だと評した。イーラ自身、ひっかかることは少ない。しいて言えば、どれだけ悪さをしても――の部分だろうか。

「性格悪いのかな」

 思ったことは口をついて出た。

「悪いに決まっているわよ。これ、十四歳か十五歳のときの内容よ。なのにネコに悪戯をするっていうのもアレだし、ネコにケーキをやるって発想も子供じゃないんだから。ネコに人間の食べ物をやったらダメなことくらい常識じゃない」

 反アナスタシア王女の感情は、戦争が終わった後も国民の中で思いのほか根強い。
 良識派のマルーシャでもそうだ。

「アナスタシア王女展、皆、来てくれるかしら」

 マルーシャの怒りをそらすべく、イーラは話題をかえた。

「そこは大丈夫よ。館長もずいぶん乗り気だったの。最近、不思議なことがわかってね」
「不思議なこと?」
「この劇場にアナスタシア王女が潜伏していたって」
「まさか」
「それが、本当らしいの。この劇場の修復工事が行われた際に、発見されたものがあるのよ。あなたがアナスタシア王女の本を執筆していたって知っていたら、教えてあげられたのに」

 マルーシャはイーラを奥の部屋に案内する。片面に鏡が多く貼られたそこは楽屋だった。
 真新しい色を塗られた壁のすみに、色あせた壁があり、下のほうにペンで四つのアルファベットが書き込まれている。
 イーラは目を見開いた。

 V、V、M、A

 この落書きは見覚えがある。祖母が話していた、名前のイニシャルだ。
 そのうちの二つは知っている。Vはヴィーカ、Mはミーチャ。

「このAってアナスタシア王女らしいわ」
「アナスタシア王女?」
 イーラは声を上げた。
「まさか!」
「それがその可能性が高いんだって。王女の癖そのものらしいのよ。王女は必ず、自分のサインを書いたときに、オキシペタラムの花を描くんですって。ほら」

 少し離れた場所――マルーシャが指さしたところにあったのは、星型の模様。

「偶然……じゃないかしら。Aだってアナスタシアに限らないじゃない。アンナとか、アリーナとか、アレクサンドラとか。Aというイニシャルの名前の人、たくさんいるでしょ?」
「そうだけど、王女のサインなんて普通の人は知らないわよ。最近になって王家の文献を研究していた方が教えてくださったの。とはいえまだ調査中なんだけどね。これが本当にアナスタシア王女のものなら、世紀の大発見だわ」

 マルーシャの言葉にイーラはぞくりとした。残る二つは祖父と祖母のサインだ。
 祖母はアナスタシア王女に会ったことがあると話していた。
 避難していた場所に一緒にいた人物がアナスタシア王女だったのだろうか。
 そのことは本には書けていない。それが事実なら大スクープだ。
 そのときだった。

「マルーシャ!」

 ノック音と共に、劇場の職員が入ってきて、マルーシャを呼ぶと、二言、三言訊いた。
 ふりかえったマルーシャはイーラに言った。

「あなたに電話みたいよ」
「私に?」
「首都のO出版社からですって」

***

「どういうことですか」

 黒い卓上電話の受話器を握り、イーラは声を張り上げる。首都から電話をかけてきたのは、イーラの本を出す予定のO出版社の編集長だった。
 企画展の打ち合わせで、Y劇場にいるという話はしていたが――。

「本の発売が延期? それもタイトル変更の上、原稿差し替えになるかもしれないって……。発売は来週の予定じゃないですか。企画展だってもう進んでいるんですよ」
「イーラ、事情が変わったんだ。きみの気持ちはわかるが、今、この本を出版するわけにはいかない。政府筋から検閲が入った。アナスタシア王女を擁護する内容は、国の平和を乱すため、認められないそうだ」
「そんな……」
 戦争中じゃあるまいし――。
 その言葉がイーラの喉から出かかった。

「かわりにヤローキンの本を出すことになった」
「ヤローキンって、最後の国王ニコライ十世の音楽師範だった、あのヤローキンですか?」

 今、イーラがいるY劇場に冠されているヤローキンである。

「そうだ。知らない人はいない、現在のアルトランディアの国歌の作曲家だ。たまたまうちに預かった原稿があったんで、そっちを先に出すことにした。ああ、気落ちすることじゃないよ。何もきみの本が出版されないわけじゃない。今は出版できないというだけだ」
「それじゃあ、いつ出版されるんですか」
「それは――……わからないな」

 編集長は言葉を濁した。わからない、すなわち、出版される可能性が極めて低いということだ。そのくらい社会人経験の少ないイーラでもわかる。

「イーラ、時機が悪い。運が悪かったな」
「運が悪いでは納得できません! 納得いく理由を説明してください!」

 引き下がる気配のないイーラの迫力に負け、編集長は声をおとした。

「ここだけの話だが、来週のユヴェリルブルグの音楽祭に、特別ゲストが来ることになったんだ」
「ああ、そうらしいですね。当日まで秘密だそうですが」

 道行く人たちの噂話を思い出し、イーラは言った。

「なんと、マエストロだよ」
「マエストロ?」
「アメリカに住むアルトランディアの英雄だよ。あのヤローキンの弟子なんだ」
「ヤローキンの?」

 イーラは耳を疑った。ヤローキンに弟子がいたのですか? という言葉が喉まで出かかった。

 最後の国王暗殺事件の際、劇場で亡くなったとされるヤローキンは謎が多い人物だが、ヤローキンに弟子がいたという話も聞いたことはなかった。
 もっとも、数年前までアルトランディアはクーデターと戦争で、情報が統制されていた時代だったため、一般庶民が知り得る情報には限界がある。

「私も詳しくは知らなかったが、アルトランディアがリトヴィスから独立できたのは、マエストロの助力のおかげなんだ」
「そのマエストロって……そんなにすごい人なんですか?」
「ああ、欧米では有名だよ。ドイツに留学している間にアルトランディアが鎖国したため、帰国できなくなったそうだ。指揮者として国際コンクールで数々の賞をとったり、作曲家としても映画音楽も作ったりと、大活躍している、まさに巨匠だよ。欧米ではマエストロというニックネームで呼ばれている」

 彼は国外で、アルトランディアの音楽を紹介し、アルトランディアの政情を伝えたという。その動きがアルトランディア独立を外から助けることになった。

「そのマエストロが来週、一時的に帰還されることになったんだ。マエストロに配慮して、アナスタシア王女関連の情報は統制されることになった」

 声を抑えてはいるが、編集長は興奮気味だった。

「すごいこと……なんでしょうね。でも……その人の帰還とアナスタシア王女の本の出版差し止めは関係ないように思えますけど」

 イーラはつとめて冷静に言った。

「それがな、イーラ。マエストロはアナスタシア王女を恨んでいるらしい」
「え?」
「そうだろう? アナスタシア王女のせいで、師であるヤローキンは不遇な目にあった。ヤローキンは王女の音楽教師でもあったそうなのだが、王女のわがままで不当に解雇されたり、王女への献呈曲を非難されたりした。国王暗殺事件だって王女が絡んでいたのだとしたら、ヤローキンは王女に殺されたようなものだ」

「待ってください。本にも書きましたけど、当時王女はまだ十四か十五歳で――」
 そんな年端もいかない少女が、暗殺事件に関わることができただろうか――。イーラの声は遮られる。
「イーラ、マエストロが戻ってくるタイミングで、アナスタシア王女を擁護する本など出せるはずがないだろう?」

 編集長の言葉は決定なのだろう。それでも恨み言の一つは言いたくなる。

「どれだけ精魂込めて書いたか、わかっていただけないんですか? 編集長だっておもしろいっておっしゃってたじゃないですか」
「確かに、きみの原稿は小説としてはおもしろい。だが、ノンフィクションなら調査不足なところもある」
「どういう意味ですか」
「きみが頼りにしている資料になんの根拠も価値もないからだ。おばあさんの話にしたって、憶測の域を出ない。嘘を真実だと思い込んでいることだってありえる」
「祖母が嘘を話したとでも?」
「可能性はある」
「待ってください。そんなはずはありません。祖母は記憶も確かで――」
「ああ、いい。別にきみと喧嘩したいわけじゃないんだ。詳しいことはきみがこっちに帰ってからにしよう。きみの本を出せなくなってうちも赤字なんだ。マエストロが帰還するってわかっていれば、それにあわせて音楽関係の本でも出しただろうに」

 編集長は自分たちのほうが被害者だという言い方をする。

 一方的に電話が切れた後、イーラは唇を嚙んだ。こんなことがあっていいものだろうか。どれだけ発売日を楽しみにしていたか。
 原稿を書くのもそうだ。検閲にそなえ、編集長から何度もリテイクの要求にもすべて応じた。
 すべては祖父と祖母のため、自分のためだった。なのに労力をかけた数年という月日が、一瞬でなかったことにされてしまう。

 電話のやりとりから、事情を悟ったマルーシャが気の毒そうな顔をイーラに向けた。

「企画展は中止ってことかしら」
「そうみたい。ごめんなさい……」
「いいのよ。出版物の差し止めはよくあることよ。一つ一つ気にしていたら、書きたいものも書けなくなってしまうわよ。またきっと機会はあるわ」
「あるかしら」
「絶対にあるわよ。悪いことはいいことにつながってるってヴィーカおばあちゃんも言ってたじゃない。きっといい結果につながるから、必要以上に落ち込まないで」

 ユヴェリルブルグに到着したときの、弾むような気持ちは消えてしまった。
 マルーシャに慰められても、イーラは納得できなかった。
 こんなことがあるだろうか。
 亡命者の個人的な事情で、自分の本の出版が差し止めになってしまうなんて。

 祖父が反対した資料を、原稿に使ったから、こんなことになってしまったのだろうか。
 それともこういう結果になることを見越して、祖父は資料を誰にも見せるなと言ったのだろうか。

→(次回)「青の緞帳が下りるまで #03」(序章 A王女 3)

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