青の緞帳が下りるまで #18
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第四章 偽アナスタシア王女 1
一月八日、朝。
ユヴェリルブルグの駅前広場は思った以上に騒然としていた。
一人で広場に赴いたミーチャはまず人の多さに驚いた。王都から避難してきた人たちがまるで路上生活者のような暮らしをしている。
キリル・シェレメーチェフ中尉と連絡を取ろうにも、駅前の特別施設は閉鎖されており、彼の行方もわからなかった。
ミーチャの新任務については、直接、大公から彼に連絡がいったはずだ。特別施設に残したミーチャの荷物は処分されたことだろう。
彼はもはや自分の部下ではないのだから、自分と接触する義務はない。そう自分に言い聞かせながらも、ミーチャは彼が持ち去ったであろう「リスト」をもう一度、確認したかった。
ミーチャはサルティコフ大公からの極秘任務で王宮の至宝を国外に避難させた。
王宮の宝物庫で直接その至宝の運び出し作業にあたっていたのがキリルだ。至宝には物だけではなく、国宝級の芸術家も含まれていた。
暴徒が王宮に火をつけたため、すべての至宝が運び出せたわけではない。運び出せなかったもの、火災で失われたものにはチェックがされてあった。
ミーチャの記憶が正しければ、そのリストに「ヤローキン」の名前があり、備考の欄に「焼失」と記載されていた。それが事実であるなら、大作曲家ヤローキンは火災で亡くなったと考えていいだろう。
もう一つ、思い出したことがある。
至宝の運び出しの際に足を踏み入れた宝物庫。その建物の名前が「鏡の館」ではなかっただろうか。
ミーチャが買い出しという口実で広場をうろついていた頃、サーシャは王女を自分の衣裳部屋に案内した。ヴィターリーの住む部屋はヴィターリーとミーチャが使うことになり、サーシャの部屋に王女が越してきたのである。女の子は女の子同士で、というのが健全な大人二人の意見だった。
長い間使われていなかった衣裳部屋にはかびの臭いが充満しており、王女は顔を顰めた。
「子供用の衣裳は一種類しかなくて、私が今着ているこの白いワンピースだけなんだ。同じサイズのものが二十着はあるから、着替えには不足しないよ。ショールとかはこっち。冬服はないけれど、厚手の服がいくつか重ね着すれば、寒さをしのげる」
ハンガーにかけられた衣裳を見せたが、王女は仏頂面のままだった。
「もう一度、説明しようか?」
「リトヴィス語デ話セ。私ハアルトランディア語ハワカラナイ」
王女はさっきからずっとこれを繰り返していた。
「リトヴィス語デ説明シロ」
サーシャは溜息をつく。
「……本当ニ リトヴィス語デ 話シテ大丈夫? チャントワカル?」
リトヴィス語で訊くと、王女は自信満々に答えた。
「モチロン」
「じゃあ、聞くけど。どうしてアナスタシア王女のふりをしているの?」
サーシャの問いは少なからず王女を動揺させたようだった。
「どうしてって……。私は本物の王女だ!」
「違うよ。私は王宮で本物の王女を見たことがある。あなたが似ているのは、金髪と青い目だけ。顔も声も全然違う」
「黙れ、無礼者」
「それにね、世間では王女はリトヴィス語しかわからないと思われていたようだけれど、実際の王女はアルトランディア語も普通に話せたんだよ。あのミーチャって人はともかく、私すら騙せないのに、それで王女を名乗るっていうのは無理があるんじゃないかな」
王女はしばらく百面相を続けたあと、
「……私、そんなに似てなかった?」とアルトランディア語でポツリと言った。「こんなにはやくばれるとは思ってなかったわ。それもあなたみたいな子に」
王女を名乗った少女は大きくのびをする。
「名前を聞いてもいい?」
「ヴィクトリア。ヴィーカと呼ばれているわ」
「ヴィーチャのお姉さんと同じ名前なんだ」
「そうなの?」
「そういう話をした。ヴィーカとミーチャは結婚の約束をしていたとか」「へえ」
王女は気のなさそうに言った。
「舞台で王女役をやったことはあったし、自信はあったんだけどなあ。サルティコフ大公は王女と面識が少ないってことだったから、彼を信用させれば確実に大金が手に入ると思ったのに」
「大金?」
食事の準備をしながら、サーシャは聞き返す。
「懸賞金よ。今、リトヴィス軍が行方不明の王女に懸賞金をかけたの」
駅前での王女捜索に懸賞金がかけられたという。
「そんなに生活に困っているの?」
「なに言っているの。生活に困っていない人のほうが少ないでしょう。懸賞金が手に入れば……遊んで暮らせるじゃない」
サーシャは黙って王女の話を聞いた。
「それでなくとも、本当に王女だって思い込ませれば、懸賞金以上の幸運が舞い込むわ。綺麗なドレスを着て、皆に傅かれる生活。王宮に住めれば、肉が食べ放題よね。豪華な食事。給仕に囲まれていたれりつくせり」
「……きみの想像力って逞しいね」
サーシャはくすりと笑った。
「何よ、あなた、王宮の生活を知ってるっての?」
「……勤め先のコックが王宮の厨房に借り出されることがあったから、食事事情くらいはね。国王陛下も王女殿下も慎ましいお方だったよ」
王女は顔をしかめる。
「悔しいわ。こんなところにあなたみたいな子がいたなんて。サルティコフ大公は簡単に騙せたのに」
「私はあなたが偽者だと皆の前で言うつもりはないよ。アナスタシア王女のふりをしないといけない事情が、あなたにあるのだろうから」
「そうだ! じゃあ、あなたが私が王女だって証言してくれればいいんじゃない? ねえ、どうやったら王女らしくなるの。懸賞金の半分をあげるわ。どう?」
「だったら交換条件といかないか」
「交換条件?」
「私は王女の情報を教える。きみは――」
サーシャはこほん、と咳払いをした。
「私の髪を結ってほしい。女の子らしく。結ったことがないんだ。職場では後頭部で一つに束ねるだけでよかったし。どうも不器用でうまく結えないんだ」
「ああ、そうか。いいわよ。それくらいおやすいごようよ」
***
「祖母はこのとき、Aの秘密に気づいたそうですが。お互い約束を守って、誰にも話さなかったそうです」
イーラはマエストロに言った。
「サーシャの秘密?」
マエストロは小首をかしげる。
「風邪を引いていたことかな。細かいことは覚えていなくてね。ただ今になってわかったことがある。私が本物のアナスタシア王女だと思っていた女性は、きみのおばあさんだったんだね」
マエストロの言葉にイーラはうなずいた。
「そうです。祖母は王女Aに縁がある人と会ったことがあるようなことを話しているのです。だからこそAが王女ではないのかと思うんです。AはアレクサンドラのAでもあり、アナスタシアのAでもあります。あなたがいうところのサーシャという少女は、王女である可能性が高いのではないでしょうか。王女でなければ、オキシペタラムの花が描かれている理由が説明できません」
「オキシペタラムの花?」
マエストロは壁の落書きを見直した。下のほうに確かに、星のようなオキシペタラムが描かれている。
「ああ、これは――」
「何か知っているんですか?」
「いや、噂で聞いただけなんですが、王女だけでなく、一部の人が使用するサインだったようですよ」
「一部の人?」
「鏡の館――だったでしょうか。ヤローキンのサインにも入っているんですよ」
そう言うと、マエストロはヤローキンの手紙を示した。そこにはヤローキンの名前の下に、星型が入っている。形は違うが、これもまたオキシペタラムの花ということなのだろうか。
「ではこのサインを使う人はなにか特別な意味があったのですか?」
イーラが聞きかえすと、マエストロはうなずいた。
「そうでしょうね。ただこの楽屋の書き込みのことは本当によく覚えています。全員でサインを入れたんです。今となっては、このサインがA――サーシャが存在していた唯一の証拠のようなものですよ」
***
作曲の合間、ヴィターリーは劇場の舞台に足しげく通った。
客席の壁には亀裂が入り、天井からは雪解け水が滴っている。並べられたビロード張りの椅子は、どれもぼろぼろだ。なるほど、修復には莫大な費用がかかりそうだ――とヴィターリーはひとりごちる。
舞台袖のグランドピアノも保存状態が悪い。調律もほどこされていない。まったく音の出ない鍵盤もあるが、それでもなんとか音階を奏でることはできる。
そんな場所でも、ヴィターリーからすると楽園のような場所だった。
ヤローキンが最初の作品の初演を行った劇場――そう思うと、同じ場所に立っているだけでこみ上げてくるものがあった。
舞台の上には目も覚めるような鮮やかな青の緞帳が吊られている。アルトランディア王家の紋章が銀糸で縫い取られてある見事な品。王立劇場の緞帳は決まって青。だからこそ、芸術家たちは青の緞帳の舞台に憧れる。
――ヤローキンの初演で歌ったのがアナイ・タートだったんだ。
サーシャの話にヤローキンと共にいつも出てくるアナイ・タートの名。
彼女は一体、何者なのだろう。
「ひょっとしてヤローキン先生の配偶者だったりするのかな。先生は独身と聞いていたけど、内縁の妻とか」
訊ねると、サーシャは「内縁」の意味がわからず、しばらく考え込んだ。
「夫婦という感じじゃなかった。しいていうなら師匠と弟子。だけど、ヤローキンにはアナイ・タートが必要だったし、アナイ・タートにもヤローキンが必要だった」
その言葉はヴィーチャにも理解できた。
つまり、お互いの存在と才能がお互いを刺激し、高め合えるパートナーだったということだ。
ヴィターリーを劇場に案内したときに、サーシャは謎かけのようなことを言った。
「ヤローキンはこの青の緞帳を愛していた。アナイ・タートもそれは同じだった。なのに、二人が見ている先は全然違っていたんだ」
「どういうことだ?」
「二人はよく喧嘩していたんだよ」
サーシャは懐かしそうにふっと笑ったが、それ以上は話そうとしなかった。
一月九日、潜伏生活三日目。
夜遅く劇場に帰ってきたミーチャは、数日分の食料をどさりと楽屋に置くと、駅前で仕入れた情報を三人に提供した。
「列車の再開情報はなかった」
そう告げた後、ミーチャは皆の前で号外新聞を広げた。
「アナスタシア王女について書かれている。事件の当日、王女は劇場に遅れて行ったそうだ。実際、王女を乗せた馬車が逃走したという目撃情報も入っている。王女についていたリトヴィス兵の護衛が王女を逃がしたとか。その護衛は遺体で発見された」
サルティコフ大公の使者に教えてもらったことが、二日経ち、公の記事になったの。
そこまで話した後、ミーチャは王女の顔を見た。王女にアルトランディア語はわからないかもしれないと思ったが、
「そうよ、正しいわ」
王女はふんぞりかえって、うなずいた。
滑らかなアルトランディア語だった。ミーチャとヴィターリーは顔を見合わせる。
「あの……王女殿下はアルトランディア語をお話しになるんですか?」
「アルトランディアの王女がアルトランディア語が話せないわけないでしょ? ちょっとこの人をからかってみたかっただけよ。これからはちゃんとアルトランディア語で話すわ」
そう言うと、王女はサーシャをちらりと見た。
おそらく、サーシャが王女を説得したのだろうと、ミーチャは思った。
「では、どういう経緯でこちらに逃げてこられたのですか?」
「サルティコフ大公の庇護を受けたのよ」
それから王女はどうやってユヴェリルブルグにたどり着き、サルティコフ大公の屋敷まで行ったかをミーチャに説明した。その話に矛盾はないように思えた。
「なぜ劇場に潜伏することになったんですか」
ヴィターリーは聞いた。
「そんなの、サルティコフ大公に聞いてちょうだい。ここが隠れ家にちょうどよかったからでしょう。私が知っているのは、一週間、ミーチャと共にこの劇場で生活するようにってことだけよ」
「では、一週間後にサルティコフ大公の屋敷に行くということでしょうか、殿下」
「わからないわ。でもその敬称はやめてちょうだいって言ったでしょう?」
「しかし王女殿下」
「だから、王女はやめて。気がつかれたらどうするの」
王女は頑なに呼び名にこだわった。
「ではイーラ様……ということで……」
「ヴィーカ」
王女はきっぱりとミーチャに言った。
「ヴィーカ?」
「ヴィーカがいいわ。そのほうが、らしいもの」
ヴィーカという名は、ヴィターリーにとってもミーチャにとっても、同じ人を思い浮かべる。もっとも王女がその名前を使いたいというのであれば、私情で拒否するわけにはいかなかった。
「なにかこの壁にサインでも書いておこうかしら」
王女はペンを握ると、楽屋の壁を見て、ほくそえんだ。
「は?」
なぜ王女が突然アルトランディア語で話しはじめたのか理解できなかった。自由奔放であるところは変わらないけれど。
「アナスタシア王女、何月何日から何月何日までここで過ごす、とか」
「落書きなんてだめですよ」
「どうせ取り壊す劇場なんだから、何をやっても自由じゃない」
ミーチャが止めるのも聞かず、王女は「V」という文字を入れた。
アナスタシアのAではなかった。
「Vのほうが謎めいていいじゃない」と笑う。
「じゃあ、私も」と、ヴィターリーが続いた。「外国に出たら、戻ってこられないかもしれないし、いつかこの劇場でヤローキン先生と会えるように」と「V」を入れ、その後でサーシャが「A」を入れた。
流れで仕方なく、ミーチャも「M」と入れる。
サーシャはその後、花模様を描いた。星型の小さな花。
「それはやり過ぎなんじゃないか?」
ミーチャが聞くと、サーシャは怪訝そうな顔をした。
「そうかな。いつも書いているから。ヤローキンも同じようなマークを入れているよ」
「王都でそういうサインが流行っているのか?」
ミーチャの質問にサーシャは答えなかった。
「ま、いいわ。なにかがあったときは、この文字が伝説になるかもしれないわね」
王女は満足そうに微笑んだ。
「なにかってなんですか」
「私たちのうちの誰かが、歴史的に有名人になったときよ。観光名所になるかもしれないわ」
「それなら間違いなく、アナスタシア王女由来の名所になるでしょうね」
ミーチャが言うと、王女は納得したようにうなずいた。
「そうなったらおもしろいと思うわ。何年か先、この落書きを見にこられるといいわね。そのときには劇場自体、なくなっているかもしれないのだけれど」
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