青の緞帳が下りるまで #17
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展示品四 壁の落書き
「Y劇場の改修工事が行われたとき、政府筋のある方からの要望で、この落書きが残されたのだそうです。この劇場は避難所として使われていたそうですから」
劇場職員の従姉妹であるマルーシャから聞いたことを、イーラはマエストロに話した。
壁に書かれた文字に、マエストロは順番にふれた。
「懐かしいですね。列車が止まった間、この劇場に泊まっていたのです。不法滞在でしたので、今日の今日まで黙っていました。これからも――公言することはないでしょうね」
「大変な時代だったんですね」
イーラがそう言うと、マエストロは首をふった。
「大変といえば、大変だったのでしょう。ですが、あのときの時間ほど、満ちあふれていて幸せなときを、私は知りません。生涯を通して、数え切れないくらい思い出す、大切な時間です。若いときというのは、いろいろ急ぎすぎるものですね。当時の自分に言ってやりたいくらいです。お前はまったくまわりが見えていない。あの時間を、心ゆくまで味わうべきだった、と」
マエストロは胸元で十字を画く。
「あのときのことはまるで昨日のことのように覚えているのです。あの一週間がなければ、私は作曲家として成功しなかったでしょう。だからこそ、アナスタシア王女の悪評を心苦しく思っていました」
「マエストロは王女を恨んでいたのではないですか?」
「恨むようなことなどないですよ。私は誰も恨みません。ですが、何を言っても、人は自分が信じたいように解釈するだけなのです。それなら発言するだけ無駄なような気もしましたし、私が何かを発言することで、誰かをおとしめるようなことがあってはならないと思ったのです。有名になるということは、発言に力を持つということです。一般人なら雑談のうちですませることが、私の場合、大げさになってしまう。そのせいで自らを危険にさらすことはしたくないのです」
マエストロは笑った。
「私が今日あるのは、ミーチャをはじめ、私を応援し、支えてくださった方のおかげです。その方たちの恩に報いるために、私は決して自分や、自分の才能を粗末にしてはいけないのです。雄弁に語るくらいなら、私は音楽にすべてを託します。音楽は言葉より、雄弁で、偉大です。そして、かのモーツァルトも言っていますが、音楽は耳ざわりであってはならない――それが真実だと思います」
→(次回)「青の緞帳が下りるまで #18」(第四章 偽アナスタシア王女 1)
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