青の緞帳が下りるまで #19
←(前回)「青の緞帳が下りるまで #18」(第四章 偽アナスタシア王女 1)
第四章 偽アナスタシア王女 2
静まり返った部屋で、ミーチャとヴィターリーは枕を並べて横になる。
ヴィターリーははやくも寝息を立てた。
――ヴィーチャは大物になるわよ。
そう言ったのはヴィーカだった。
肝が太いというのか、彼は並大抵のことでは動揺しない。王女が目の前にあらわれても、ミーチャがあらわれても、すぐに受け入れることができる。
王女と潜伏生活を送ることになったというのに、緊張するそぶりも見えない。
――学校で勉強ができなくても全然気にしないの。落ちこぼれていても、好きなことに夢中になることができるんだもの。
――ヤローキンの幻の聖歌。
――ええ、クセニア・クロチキナという歌手の公演で聞いたものよ。一度聴いただけで覚えてしまったの。
――なぜ幻になっているんだ?
――アナスタシア王女のために作曲したものらしいのだけれど、王女がその曲をひどく嫌ったそうなの。以来、国の儀式では使われなくなったそうなのよ。でも素敵な旋律よね。つい口ずさんでしまいたくなるの。
――なぜ王女はこの曲を拒否したのだろう。
――さあ、ヤローキンがアルトランディア人だからじゃないかしら。王女はリトヴィスのものを好むそうだし。
真相はわからない。だが、ヴィーカとの何気ないやりとりは好きだった。
こういう状態を嵐の前の静けさというのだろうか。
毛布にくるまったミーチャは、三人に言えなかった情報を頭の中で反芻する。
大公が危惧していたことがいよいよ現実になりそうだ。アナスタシア王女捜索を口実にリトヴィスの軍がこの街に攻めてくる。
おそらくはそれを見越して、サルティコフ大公は身を隠したのだろう。劇場の建物に到達するまでは時間がかかるだろうが、攻めてこられたらひとたまりもない。
隣の部屋からは時折、咳き込む音が聞こえてくる。
暖炉の火を消したのがよくなかったのかもしれない。喉の調子がよくないと言っていたサーシャが本格的に風邪をひいたようだ。
煙突の煙くらいいいじゃないかとヴィーチャが訴えてきたが、油断はできない。
この劇場を王女とミーチャの潜伏場所として指定してきたのはサルティコフ大公だ。彼の目が光っている間、当面、役人や憲兵がここに見回りにくることはないだろう。
命令通り、一週間、王女を護衛しなければならない。(王女の護衛はどちら?)
しかし、怖いのはアナスタシア王女の追っ手やリトヴィス軍だけではない。
王立軍に見つかり、サルティコフ大公の手先であることが露見すれば、ミーチャの立場も、命も危ない。
そんな人間の前に、どうしてのこのこ現れたのだか――。
ミーチャは気持ちよさそうな寝息を立てているヴィターリーを見つめた。
あのサーシャという子は一体何者なのか。
***
潜伏生活四日目。一月十日。
王女は不機嫌だった。
「サーシャの咳がうるさくて眠れないの。それに――」
「それに?」
「悪夢でも見ているのかしら。独り言がひどいのよ」
「どんな?」
「……いえ、なんでもないわ」
サーシャの声がかすれはじめた。熱はないのだが、声の調子がおかしいという。
可哀想だが、医者に診せるわけにはいかない。
歌えないことで、サーシャは落ち込んでいた。
「国王賛歌、歌ってほしいな。原曲は聴いたことがないんだ。旋律だけでもいいんだけど」
ヴィターリーが頼んでも、サーシャは首を縦にはふらなかった。首をマフラーで保護したまま、家事をする。
彼女にとって、歌うことはなにより大切なことらしい。
「やっぱり湯を常時沸かしていないといけないんだよ。空気が乾燥していると、喉を痛めてしまう」
ミーチャに詰め寄られても、要求に応じることはできない。
サーシャが歌えないというのは逆によろこばしいとミーチャは考えた。
サーシャの歌声はよく通るため、万が一、歌声が外に漏れたら、劇場に人がいることを知らせてしまう。そうなると、自分たちに身の危険が迫る。
音出しは禁じたが、皆は楽屋に集まり、音を絞ったラジオでニュースを聞いた。
「アルトランディア国民よ、今こそ立ち上がるべきときです。このままではわが王国はリトヴィスに占領されてしまいます。我が国は芸術の国と言われながらも、国際的に活躍している一流芸術家がいない。留学制度もない。音楽院にかける費用を軍事にかけるべきだったのです。そうすればこのような事態にならなかったのではないでしょうか……」
「どうでもいいニュースね」
王女は退屈そうに転がった。
「過去をとやかく言っても、過去は帰ってこないのに」
歌えなくなったサーシャは、ヴィターリーが持っていた紙に何かの落書きをはじめた。
この空間だけは非常事態とは無縁だった。
「アナスタシア王女の行方は依然として不明です。手がかりを見つけた方は、ラジオ局までご連絡を――」
ミーチャは別の局にチャンネルをまわした。
ラジオの放送の合間に、愛国心をあおるようにヤローキンの曲が流れてくる。もの悲しいワルツから、意気揚々とした行進曲まで。
「いい曲だな、サーシャ。毎日聞いても飽きることはない」
ヴィターリーの言葉にサーシャは顔を曇らせる。
「いい曲であることは間違いないけど、こういう使われ方は、ヤローキンからすると不本意じゃないかな」
「不本意?」
ヴィターリーは聞き返す。毎日ラジオから流れ、自分の曲を国民に聴いてもらえる。それは幸せなことではないだろうか。
サーシャは言葉を選びながら言った。
「音楽は記憶と結びつくって、ヤローキンは言っていた。その言葉の意味はよくわからないけれど、何年か先に――この曲を聴いたときに人は、今の状況のことを思い出すんじゃないかな」
「そんなことないだろう。いい曲はいつの時代になってもいい。曲自体の評価は変わらないよ。ヤローキン先生のピアノ曲は最高だ」
「違うよ」
サーシャはヴィターリーの目をまっすぐ見て言った。
「ヤローキンの傑作はピアノじゃない。歌曲なんだよ」
一月十一日。
ユヴェリルブルグに滞在して六日が経過したが、列車の運行が再開する動きはなかった。
そんな中で、問題が発生した。
「しまった」
旅券を開き、ヴィターリーは頭をかく。旅行許可証の有効期限は昨日だった。
せっかくミーチャに手配してもらったものなのに。
劇場で作曲に専念しているうちにすっかり忘れてしまっていた。いつもこうだ。何かに夢中になると肝心なことを忘れてしまう。
(ま、なんとかなるかな)
やむをえない理由で、足止めをくらっているわけだし、仮に旅行許可証があっても、肝心の列車が動かないのでは意味がないことだ。
それより今は、未来のことを考えたかった。サーシャと一緒に欧州に行ったらどんな世界が待っているだろう。彼女の才能は本物だ。
そのとき、ヴィターリーの背後で空咳がした。
音が外に漏れないよう、咳の音に気遣いが見えたが、サーシャの咳は日増しにひどくなっていく。
ヴィターリーは厨房で紅茶を淹れ、サーシャに運ぶ。
「サーシャ、列車が再開したら、一緒にドイツに行こう」
「ドイツ?」
サーシャは上目遣いでヴィターリーを見た。
「オーストリアでもフランスでもいい。私は世界にヤローキンの曲を紹介したい。彼の才能はアルトランディアだけに埋もれていいものじゃない。そのときは手伝ってくれるかい?」
沈んでいるサーシャを元気付けたくて、ヴィターリーは明るく話しかけた。
いつかのように喜んでくれるかと思いきや、
「……私には旅券がないよ」
サーシャは寂しそうに言った。
「大丈夫だ。ミーチャに頼めば何とかなる。彼ならすごい旅券を手に入れてくれるよ。一等車に乗れて、快適な旅が約束されている」
隣の部屋にいるミーチャは、聞き耳を立てながら苦笑する。相変わらず彼は自分の苦労も知らないで好き勝手なことを言っている。
だが、それでいいのだ。ヴィターリーは何も知らなくていい。それが一番幸せなことなのだから。
ありがとうございます。いただいたサポートは活動費と猫たちの幸せのために使わせていただきます。♥、コメントいただけると励みになります🐱