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青の緞帳が下りるまで #16

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第三章 再会と潜伏生活 3

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「なるほどな。王都に行こうとして、一本後の列車に乗ったら、国外に出られなくなってしまったということか」

面目めんぼくない」

 サーシャが淹れてくれた紅茶を前に、ヴィターリーはミーチャに頭を下げる。
 思えば子供の頃から、彼にはみっともない姿を見せてばかりだ。音楽学校に入るための書類の準備を手伝ってもらったり、音楽教師を紹介してもらったりもした。ヴィーカが亡くなった後は、生活の面倒もすべて見てもらった。

 アルトランディア王立音楽院の編入が叶わなかったときもミーチャは諦めず、ヴィーチャの夢を叶えようと、海外留学の道を開いてくれた。なのに――この有様だ。
 ミーチャが手に入れてくれた旅券のすごさは思い知った。それを手に入れるために、おそらく人知れず苦労したのだろう。

 それなのにヤローキン先生に会いたいと思って余計なことをしたから、ミーチャの思いを無駄にしてしまった。いや、無駄ではない。ヤローキンを知っているサーシャと出会えたし、国を出る前にミーチャと再会できたのだから、

 沈黙したミーチャを前に、言い訳を考えたが、なに一つ口に出せなかった。
 そんなヴィターリーの顔を見て、ミーチャは溜息をつく。その様子を見て、ヴィターリーはヴィーカの言葉を思い出した。

 ――ミーチャは誰よりも人の幸せを願える人なの。そのために自己犠牲を厭わず、人知れず苦労を重ねてしまうのよ。私はミーチャにがんばってほしくないの。ミーチャは私たちを喜ばせようと、一生懸命がんばってくれるけれど、そんなことはしなくていいの。私は、ミーチャが生きているだけで幸せなのに、どうしても通じないのね。ミーチャは本心を語ってくれないもの。

 今もそうだった。ヴィターリーに言いたいことがあるだろうに、事情を聞くだけで何も言わない。怒っているなら怒っていると、はっきり言ってくれたほうが楽なのに。

 しかし、ミーチャが女性連れだとは思わなかった。
 ヴィターリーは暖炉の前で紅茶を飲みながら、ケバブをかじる少女に目をやる。人見知りらしく、挨拶もろくに交わせなかったが、名前は聞いた。
 奇しくもヴィターリーの姉と同じ、ヴィーカという。
 なぜ王宮勤務のミーチャがこんなところにいるのか、なぜヴィーカという少女を連れているのか、聞きたいことは山ほどあったが、言葉にならなかった。
 いつもこうだ。音楽以外のこととなると、スムーズに言葉が出てこない。

「ヴィーチャ」

 空になったカップに紅茶をつぎ足しながら、サーシャが言った。

「もしかしてこの人がさっき話していたヤローキンの手紙の……」

 二人の会話からミーチャが王宮勤務であることを知ったのだろう。

「そう、ヤローキン先生に手紙を渡してくれていたミーチャだ」

「その話は極秘だと言っていただろうが」

 言った瞬間、ぴしゃりと返ってくる。

「ごめん」

 そうだ。自分はいつも知恵が足りない。余計なことを言ったり、やらかしたりして、ミーチャを怒らせてしまう。

「……他の人間にも話したのか?」

「まさか。サーシャにしか話していないよ。このサーシャはヤローキン先生の下働きをしていた子なんだって」

「ヤローキンの?」

 訊いた瞬間、一瞬、ミーチャの目の色が変わった。

「なんでお前はこんな子を連れているんだ」

「私たちはここでヤローキンを一緒に待つんだよ。駅前広場までヤローキンを迎えに行くんだ」

 代わりに答えたのはサーシャだった。

「ヤローキンが生きている可能性は少ない」

「それでも死んでいるというわけではないと思う」

 ミーチャはサーシャをじろりと見た後、ヴィターリーに向き直った。なにも言わなくても、ミーチャの顔には、なぜこんな厄介事に巻き込まれているのか、という苦悩が見てとれた。
 ゆらゆらと浮かぶ紅茶を見つめ、ミーチャは言った。

「駅前広場に行くのはやめたほうがいい。今、アナスタシア王女の捜索隊が出て、それらしき少女を片っ端から連行していっている」

「アナスタシア王女?」

 ヴィターリーが聞きなおす。

「劇場爆破事件で王女も亡くなられたと聞いていたが」

「生きているらしい。列車が止まっているのも、逃げた王女捜索のためだ」

 ミーチャは隣にいるイーラの顔を見ずに言った。
 まさかサルティコフ大公から彼女の護衛を頼まれたなどとは口が裂けても言えない。それでなくともヴィターリーは予想以上に口が軽い。

「王女は……生きているの?」
 サーシャは大きな瞳を見開くと、「よかった」と小さく呟いた。

(よかった?)

 それを聞いたミーチャはサーシャの言葉に違和感を覚えた。
 生粋のアルトランディア人なら、リトヴィスの血を引く王女が生きていたことは吉報ではない。リトヴィスに虐げられてきたという歴史がある以上、リトヴィスの王妃と王女を持つことを、嫌悪する国民が多数だ。

 しかし、ミーチャは思い直した。単に、サーシャは人の命が救われたことを喜んだのかもしれない。

 サーシャはミーチャに言った。

「どうしても駅前広場に行かないといけないんだ。私が王女ではないことくらい、王女を知っている人からすると、外見でわかるはずだよ。それでも駅前広場に行くのは危険なの?」

「ああ。捜索隊は見境なく十代の少女を補導している。捕まると何をされるかわからない。今、出歩くのは危険だ」

「それで、ミーチャはその子を保護しているのか」

 ずっと黙り続けている金髪の少女に、ヴィターリーは視線を向けた。

「どういう経緯で?」

「任務だ」

 そう答えた瞬間、ああ、やってしまった、とミーチャは思わず口元を押さえる。ヴィターリーの楽天的な空気の中にいると、自分もつい油断してしまう。
 世間一般の常識には疎いヴィターリーだが、たまに勘が働くときがある。

「って、ことはその子はもしかしてその……本物のアナスタシア王女……殿下?」

 ヴィターリーの声がふるえた。

「いや、違う。彼女はヴィーカ、いや、イーラで……」

 言い訳がましいミーチャの傍で、名前不明の少女はすっくと立ち上がり、高らかに宣言した。

「私ハ、アナスタシア、ダ!」

「リトヴィス語じゃないか!」

「お、お静かに!」

 とり押さえようとするミーチャの手を少女は振り払った。

「私ハ、アナスタシア王女。リトヴィス語ヲ喋ル。アルトランディア語、話セナイ!」

「なにをおっしゃるんですか」

「私ハ、嘘、ツカナイ。私ハ、アナスタシア、ダ! ミーチャハ、私ノ護衛。極秘任務。口外無用!」

 王女が自分で事態を大きくしてどうするのか――。ミーチャは頭を抱える。
 何も話さずに、この場をしのごうとしたミーチャの作戦は失敗に終わった。
 一方で、思いがけない高貴な少女と対面したことで、ヴィターリーは興奮した。

「すごい……。ミーチャはそんなすごい任務に携わっていたのか」

「すごいかどうかは」

 ヴィターリーはわかっていない。秘密に携わるということは、彼自身の身にも危険が及ぶ可能性があるということだ。秘密は知らないにこしたことはない。

 だが、ミーチャの内心をヴィターリーは理解しない。もっとも話したところで理解できるような人間でもない。彼の頭の中は音楽で満ちあふれているからだ。

「こんな極秘任務に携わっているのなら、そりゃ、人に話せないよね。大丈夫。私は絶対に誰にも話さないし、王女をお守りする。ああ、こんなことなら、敵国の言葉と思わず、リトヴィス語を勉強しておけばよかった。ミーチャはわかるのか?」

「いや、問題はそれなんだ」

「ミーチャ、私ハ……ホシイ! 私ハ……」

 今も王女が何かを訴えているが、話のほとんどがわからない。無視をすると、騒ぎ立てるし、今の状況が飲み込めていない。

「ミーチャ、言ウコト、聞ケ!」

「だからお静かにと!」

「私が話してもいいかな」

 騒動の間、遠巻きにことのなりゆきを見守っていたサーシャが、三人の間に割って入った。

 にこりと笑うと、サーシャは王女の前でぺらぺらと何かを話した。あまりにも流暢なそれがリトヴィス語であることに、ヴィターリーとミーチャはすぐには気がつかなかった。

 王女はサーシャの言うことにうなずき、答えた後、表情を変え、静かになった。
 おそらくは、潜伏先では静かにしたほうがいいとか、命が惜しければミーチャの言うことを聞けとでも言ったのだろうか。

 ヴィターリーはサーシャの万能っぷりに舌を巻いたが、ミーチャは別のことを考えた。
 この子は意外な拾いものだ。王女の通訳として使えるかもしれない。

「ヴィーチャ、この子、何者なんだ」

「言っただろ? ヤローキン先生の下働きだって。ホテルで働いていたそうだから語学に堪能なのかもしれない。王都にある『鏡の館』とかなんとかというホテルにいたらしい」

「鏡の館?」

「あの……」

 確認しようとしたミーチャの言葉は、サーシャに遮られる。

「要するに、この人とあなたはここに六日間、隠れていないといけないってことなんだね」

「ああ、そうだ」

 サーシャはその後も王女と会話を続けた。

 時折、王女はミーチャに視線を向け、くすりと笑う。リトヴィス語で話す二人は親密な様子だった。

 王女が何を話しているかわからないからこそ、不安はあった。サルティコフ大公がどこまで王女に話したかわからないが、部外者に聞かせてはいけない内容もある。秘密を知りすぎた場合、サーシャという人間を処分しなければならなくなる。
 眉間に皺をよせるミーチャの肩をヴィターリーがポンと叩いた。

「よかったじゃないか。子供は子供同士。女の子は女の子同士。サーシャはしっかりしているから、ちゃんと世話してくれるさ」

「なにを言っているんだ。あのサーシャって子が嘘をついているとも限らないんだぞ。王都から逃げてきたといって、お前を騙している可能性だってある」

「まさか。あの子はいい子だよ。天性の歌手だ。第一、ヤローキンを好きという人に悪い人はいない」

 ヴィターリーはミーチャの前で笑った。
 ヴィターリーの楽天ぶりは昔から変わらない。いや、彼は根っからの楽天家ではない。明るくふるまうようになったのは、ヴィーカが亡くなってからだ。困難に陥ったときこそ、彼は場を和ませようとつとめる癖がある。

 ミーチャはあらためて、王女と話すサーシャの顔を見た。
 悪巧みをするような顔には見えない。見えないが、サーシャの顔に何かひっかかりを感じた。彼女もまた、驚くほど美しい青い瞳をしていたからかもしれない。

「ヴィーチャ、聞きたいことがある」

 寝床の準備を整えた後、ミーチャはヴィターリーを捕まえる。
 サーシャと王女がいないところで話をつけたかった。

「お前、本気であのサーシャって子とここでヤローキンを待つつもりなのか?」

「列車が再開するまではつきあっていいだろう? あの子がヤローキン先生を知っているのなら、面通しもしてもらえるだろうし。列車が再開したら……私たちは一緒にドイツに行くんだ」

 ミーチャは内心、溜息をついた。
 どうしてこんなことになったのだろう。
 こうならないために、ヴィターリーに旅券を手配したというのに。
 ヤローキンの歌を口ずさむヴィターリーの背中を見て、ミーチャは決意した。

 無邪気なヴィーチャに真実を明かすには、もう少し時間が経ってからの方がいいかもしれない。

→(次回)「青の緞帳が下りるまで #17」(展示品四 楽屋の壁の落書き)

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