呪いについて;読みづらくてわかりにくい文体の練習

あなたは別に、この文章を読まなくてよろしい。
明確にそう意思表示することのできる文体があれば、あらゆる呪いを無視できるような気もする。

読みやすい文章、わかりやすい文章、論理的で論旨の明快な文章、そういうものを書く訓練はたぶん幼い頃から様々なかたちで受けていて、おかげさまでそういう文章(だと一応は自分なりに評価できるようなもの)は、まあほとんど無意識のうちに書くことができるけれども、これは同時に、いかなる文章を書くときも傍らの架空の読み手に監視されることを避けられないという一種の呪いでもある。

呪い自体は書いたものを公開するか否かに関わらず常駐しているが、いわんやそれを自分の名前でインターネット上に公開するとなれば、文章としての質のみならず内容や態度までもが問題になるわけで、この段階をクリアするためにはさすがに無意識のうちにというわけにはいかず、ある程度意識的に作業したり思考したりする必要が出てくるけれども、しかしこうした作業が始まるよりも前に、そもそも書かれ得たことの半分くらいは無意識のうちに未然にスクリーニングされ、消えているのだろうなとも思っている。

内在化した他人の眼は枷のようでもあるけれども、しかし、もはや自分自身の眼でもあるのであって、その眼鏡に叶わない文章は誰よりもまず自分自身にとって醜い。つまるところ呪いの根幹には道具性でも社会性でもポリコレでもなく、まず美学の問題があるということで、そうであるとするならば課題は、道具として優れず、社会性を有さず、ポリティカルにコレクトか否かという磁場さえも無視し、しかし他ならぬ自分自身にとっては美しい、という文章を書くという離れ業が如何にして可能か、ということである。

あなたは別に、この文章を読まなくてよろしい。
明確にそう意思表示することのできる文体があれば、あらゆる呪いを無視できるような気もする。


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