臓器について;エアコンもソーシャルキャピタルも母なる海のようなもので、

今年の夏も熱中症の救急搬送、緊急入院は多かった。

自宅でエアコンを使ってなくて、というのは定番中の定番だが、エアコンが壊れていて、というケースもけっこうあった。こういうケースでは、エアコンが治るまで帰るに帰れないということがある。まあ、壊れたエアコンを修理できないまま生活を続けて熱中症になってしまうという状況は、多くの場合そもそそも生活自体がもう立ち行かなくなっていたということを意味するわけで、単にエアコンが治れば帰れるというものでもないのだが。


ともあれ、夏のあいだじゅうずっと考えていたのは、エアコンというのはもはや我々にとって一種の生命維持装置にほかならないということだった。

これは気候変動によってエアコンなしではとても生活できなくなった、ということでもあるかもしれないけれども、それだけではなくて、技術の進歩によって生命維持の基準あるいは相場が変化したというか、人類の恒常性の辺縁が一歩外に広がったというか、そういうところが間違いなくある。

エアコンは我々の体外にあるけれども、エアコンによって調整された環境の中で生きること、猛暑でも極寒でも快適に生命を維持できることが当たり前だと考えるようになった人類にとって(少なくともそうであるような社会において)、エアコンは我々の生命維持機構の不可欠な一要素である。身体の外部にあるモノが、その身体の内部環境を維持するシステム、すなわちホメオスタシスの、不可欠な一部分になっているという状況がここにある。


ところで我々は、身体の内部にあって、知らず知らずのうちにその身体のホメオスタシスの一部を担っているモノのことを「臓器」と呼んでいる。

西洋医学、というかたぶん正確には近代医学は、ヒトの身体を臓器の集積として理解する。もちろんそこには、より下位のレベル(組織、細胞、たんぱく質…)があり、より上位のレベル(臓器間ネットワーク)がある。

臓器ひとつをモノとして切り出して考えることが妥当であるかどうか、という話題はちょっとややこしいが、切り出すことができる、というのが基本的な近代医学の立場だとすると、すでに切り出されたかのようにして我々の傍らにあるモノたちもまた我々にとって欠かすべからざる臓器である、ということも普通にあり得る話なのではないか、と、そんなことを夢想している。

エアコンを臓器と呼べば言い過ぎの感もあるかもしれないが、たとえば体外に繋がれて肺の代わりをする人工呼吸器とはまごうことのない人工臓器なのであって、エアコンと人工呼吸器、どちらも体外で我々の生命を維持しているのだとすれば、両者のあいだにどのような境界線を引けばよいのか、よくわからない。


人工臓器というのはけっこう古くからいろいろあって、私が専門とする糖尿病領域で言えば人工膵臓がそうである。

膵臓のかわりに人体にインスリンを持続投与する機械は、昔はそれこそ人工呼吸器サイズ(ざっくり洗濯機くらいだ)だったらしいが、今ではポケットに入れて持ち運べるくらいになっていて、「インスリンポンプ」と呼ばれている。

最新型のものではパッチ式、つまり皮膚に貼り付けるだけ、というタイプのものがあったり、血糖値の推移を予測してインスリン投与速度を勝手に調整してくれるようなものもあったりして、こうなるともう人工臓器という呼称にほとんど違和感はない(ユーザーが実際にどう感じているかは、さすがにそんな質問をしてみたことがないのでわからない)。

さて、このインスリンポンプは人工臓器とはいいながら、インスリン分泌の枯渇した糖尿病の治療において別に必須のものではない。自動注入させなくとも、、注射器型のデバイスを使って、自分で都度注射すればそれで済むからだ。こういう場合は、インスリンポンプとは違って臓器が果たすべき役割を本人が意識的に肩代わりしているのであるから、人工臓器とは言い難い。

それでは、注射器型のデバイスを使って、自分ではなく他者が都度注射する場合はどうだろうか?

インスリンを注射しなければ生きていけない患者さんが高齢化し、認知症を発症するケースがある。あるいは逆に、認知症の患者さんが、インスリン注射を要する水準の糖尿病を発症することがある。これらのケースでは、本人が注射できないので家族がかわりに注射をすることになる。

周りの人がインスリンを打ってあげるというのは、もはや本人の意識の外にある営みだ。本人が意識せずともインスリンを供給してくれる、まるで膵臓のような他者が体外にある。これは、ほとんど膵臓が外在化している状態に等しい。


いやしかし、そもそも自律する臓器とは、我々にとって常に他者である。我々の意識にのぼらぬうちに様々なことをつつがなく処理し、そうかと思えば時に我々を裏切るこの他者は、我々の意のままになる所有物では決してない。このあたり、興味のある方は過去の『ハーモニー』に関する記事を参照されたい。


内側に他者がいて、外側に臓器がある。こういう状況について考えているうちに、人間の裏と表がひっくり返っていくような気分になる。

自分の身体の外部で、自分の意識に登ることなく、自分の生命を知らず知らずのうちに維持しているもの。それらもまた自分の身体にとって欠かすべからざる臓器である。そういうふうに思考を押し広げていけば、社会は、世界は、そのままひとつの個体の臓器であるというほかないような気がしてくる。

いわゆる宇宙≒マクロコスモス、身体≒ミクロコスモス、という対比は、大きなシステムの中に小さなシステムが入れ子のように入っているという図式だと理解していたが、実際には小さなシステムが、より大きなシステムの上位構造になっているということがある。みんなでひとりの人を生かす、という営みは、そういう大小の逆転を意味している。

あなたたちは私のための臓器であり、私たちはあなたのための臓器である。言ってみればそういうことである。


生命は、かつて海の中で生まれた。

海は生命にとって最初の、外的な恒常性維持システムであった。生命は海との絶え間ないやり取りによって、容易に内部環境の恒常性を維持していた。海から上陸するとき、脊椎動物は海を模倣してその内部環境を作り上げる必要があった。だから今、我々の中には母なる海がある。

いや、つい「外的な恒常性維持システム」などと書いたが、原初の生命に内と外の区別などなかったのではないかという気がする。内部に海を手に入れたと錯覚している我々は、いまだ海に似た大きな何かの中にいるのかもしれない。あなたと私は、ひとつの母なる海のなかにある。

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