アートとしての病、ゲームとしての健康 ―10年後に読む『ハーモニー』―(6/12)

(6)00年代、新しい「健康」

しかし、実際にこのようなテクノロジーの実現を目の当たりにしてみると、我々は不思議な感慨を覚えます。いったいこれまで人類は、自分の身体にすらアクセスすることができないで、どうやって何万年も生きてきたのでしょうか。

結論から言えば、人類が従来の意味において健康であるためには、それほど頻回で高解像度のアクセスを必要としなかった、ということになるでしょう。

古典的な意味での健康とは、端的にいえば「病気ではないこと」でした。
健康そのものを「これ」と指し示すことはできない、つまり否定形によってしか言及しえない、という理解です。逆に言えば、自覚的なレベルでは「私は病気でない」と感じられているとき、つまり痛みも、苦しさも感じないときには、身体の内部で何が起こっていようと「私は健康である」と言ってしまうことができただろうと思います(そして少なからぬ患者は今日でも、診察室で同じことを口にします)。つまり身体感覚によるフィードバックが、健康か否かを判断するのに重要な位置を占めていたわけです。

この健康という概念は、19世紀の終わりから20世紀にかけて打ち立てられた「恒常性(ホメオスタシス)」の概念によって、「一定の範囲に保たれていること」という理解へと精緻化されました。

恒常性とは、さまざまな外部環境、あるいは内部環境の変化に対して、身体が反応して一定のバランスをとろうとする働きのことです。寒いところで体温が下がりそうになればこれを上げるように働き、運動して体温が上がればこれを下げるために汗をかく、という具合です。先の血糖値についても同様で、上がってくればインスリンが分泌され、下がってくれば貯えていた糖が血中に放出されます。こうしてバランスが保たれていることが健康、というわけです。

このあたりから、自覚された健康と実際の健康とのあいだには明らかな乖離が生じ始めています。つまり、苦痛はないが、一定の範囲に保たれてもいないので健康でもない、という事態が起こりうることになります。自身が健康であるかどうかを知るためには、医療者の診察や機械を使った検査に頼らなければなりません。

この解離を決定的にしたのは、ごく最近になって導入された「生活習慣病」の概念ではなかったかと思います。

高血圧症、糖尿病、脂質異常症といった病は、よほど進行するまでそれ自体が苦痛を与えることはありませんが、将来的には心臓病、癌、脳卒中といったさまざまな病の原因となるがゆえに「不健康」です。
かつて心臓病、癌、脳卒中は「三大成人病」と呼ばれ、つまりは加齢という不可避のものによって名指されていたわけですが、その素地となる病が生活習慣という制御可能な要素によって呼びなおされたことによって、「食べる」というごく日常的な行為すらも「健康」の問題系に組み入れられてしまいました。

行政レベルで「生活習慣病」という呼称が正式に採用されたのは1996年のことで[xi]、この文脈で2008年に打ち出された予防的な集団アプローチの方法が、腹囲測定で議論を呼んだあの悪名高き「メタボ検診」です[xii]。

腹囲の測定が医学的に妥当であるかどうかはさておくとして、このパラダイムシフトは「健康」の概念を完全に書き換えました。太っていることはいまや「健康」の枠外にあるのです。

血糖値が大きく上がったとしてもその後下がれば、いま・ここの恒常性は一応たもたれていることになるでしょう。つまりは健康です。しかし新しい「健康」においては、そのような血糖上昇が起こること、あるいは起こりうる可能性それ自体が問題視されます。あえて極端な言い方をすれば、血糖値を急激に上げるようなものを「食べる」こと自体が、あるいは過剰に「食べる」ことによって太ること自体が、いまや「健康」ではないということなのです。今日の新しい「健康」は、人類史上もっとも狭小化されたレンジを指しています。

『ハーモニー』が書かれたのはまさにこの00年代においてであり、國分は10年代にその議論を引き継いでいるのだ、という点を前提として理解する必要があります。彼等が訝しがっている「健康」とはベルナール以来のそれではなく、いま・ここにある身体の内的な恒常性維持から解離したところで、医学・政治・経済により合意形成された、外的な、未来志向的な、社会的な、価値基準なのです。

そのうえで、この「健康」は医学をまるきり離れて独り歩きする、ということについても言及しておかねばなりません。速水健朗は『フード左翼とフード右翼』(2013)の中で、「マクロビ」「オーガニック」「ホリスティック」といった「健康に良い」とされるが科学的な根拠のないいくつかのアイデアを挙げながら、科学によって脱魔術化してきたはずの食と健康が、最近になって再魔術化しつつあることを指摘しています[xiii]。

しかし、これは当然といえば当然の話です。我々は自らの「健康」に直接的にアクセスする方法をほとんど持たず、医者か占い師にでもその価値判断を委ね、そのアドバイスを信じるほかない、という極めて魔術的な世界に身を置いているからです。

患者自身がその妥当性を評価できるのは、ただ身体感覚的なフィードバックによってのみです。薬だろうがマクロビだろうが「なんだか気持ちいい」「効いているような気がする」という感覚さえ与えることができればそれでよい、という魔術的な世界観が、今日の世には確かにあるのです。

(続きます)

[xi] 厚生労働省|生活習慣に着目した疾病対策の基本的方向性について(意見具申)
[xii] 正式名称を特定健診・特定保健指導といい、40歳〜74歳を対象に2008年4月より施行された。血圧、血糖、脂質といった生活習慣病指標の測定に加え、腹囲の計測が含まれており、その基準値が日本独自に設定されたものであることが議論を呼んだ。
[xiii] 速水健朗『フード左翼とフード右翼』朝日新書、2013


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