快楽について;優れたインターフェースは蟻地獄のようで、


スカイプの着信音、気持ちいいよね、あれ気持ちいいようにちゃんとデザインされているんですよ、という話から始まるユーザーインターフェースについての一連のレクチャーをむかし受けたことがあって、もう細かいことはすっかり忘れてしまったけれども、音、形、色、触感、その他あらゆる感覚的な要素が人間工学的に不快でない、できれば気持ちいい、ということがサービスにとってとても重要なんだということだけは、なんとなく頭の片隅に残っている。

その少し後だったか、あまりに気持ちよくて驚いたのがブラウザ上で動くGoogle driveの触感で、ちょうどDropboxから乗り換えてみたころだったと思うのだが、アイコンが滑る速さとほどよい重量感、ドロップしたファイルがフォルダにすとんと落ちていくあの感じ、等々が絶妙にかみ合い、ただのオンラインストレージにもかかわらず、ずっと触っていたいという妙な気を起こさせるあの使用感に、時代の変わり目を感じたのをよく覚えている。それ以来、あらゆるファイルをほとんどGoogle driveだけで管理するようになった。

快楽にもいろいろあるが、ここでいう「気持ちいい」とはとりもなおさず「不快ではない」ということで、それはプラスの価値というよりはマイナスがないことの価値であり、ちょびっとプラスがあればなおよい、という感じ。たとえていうならば、引き戸が軋まずにスムーズに滑るとか、表面が滑らかで妙なでこぼこがないとか、そういうタイプの快楽のことである。

だからこそというか、優れたインターフェースはまるで蟻地獄のようだと思うことがある。

Webサイトの運営には「滞在時間」という指標があって、どこかしらの入り口から入ったユーザーが何回リンクを踏んでどのくらいサイト内に滞在したかを可視化できてしまうがゆえに、これをなるべく長く伸ばしていくということがひとつの目標となる。でこぼこや軋みがあれば、ユーザーはそこで離脱する。ユーザーの滞留のためには目立つバナーやキャッチーな記事タイトルといった快楽のニンジンを掲げることも必要だが、サイトの導線上に生理的な不快がないよう丁寧にヤスリをかける作業も欠かせない。よくできたWebサイトは、隅々まで滑らかでよどみがない。まあ一方では、楽天市場のように情報が氾濫するタイプのサイトに沈んでいくユーザーもいるわけだから、やっぱり快楽にもいろいろあるんだなとも思う。

滞在時間という指標を未だに重視するのかどうか、アプリなんかでも使うのかどうか知らないが、たぶん使うんだろうな、と、そんな話を思い出したのは先日アンインストールしたアプリ版Twitterに変わってGoogle Chrome上でTwitterを見るようになった折で、アプリで隅々まで滑らかに調整されていたそのインターフェースは、ブラウザ上ではどうにもぎこちなくて気持ちが悪く、必要な投稿を終えたら余計な滞在せず離脱してしまう、ということが増えたからだった。

優れたインターフェイスのサービスに滞在してしまうのは、離脱するよりも滞在することの快楽が大きいからである。一度座ってしまうも立ち上がるよりも座り続けていたほうが楽、ということである。当たり前だと思われるかもしれないが、たとえば座りづらい椅子にではこのようなことは起こらない。優れたインターフェイス、あるいは「人をダメにするソファ」においてだけ、こういう快不快の転倒が起こっている。

ドゥルーズの環境管理型権力の話を持ち出す時によく例に上げられるのは「ホームレスが寝ることのできない椅子」だが、当然ながら座りづらくすること、拒否することだけが権力の機能ではない。権力は座りづらさと座りやすさ/立ち上がりにくさをたくみに使い分けることによって、ときに我々を快楽の蟻地獄のなかに押し留めている。我々は優れたインターフェースの中へ、深く深く沈んでいく。

この話はあらゆる話題に接続できそうで、自分の関心領域だけでも身体論、美食論は当然ながらその射程に入るが、もうひとつ頭をよぎるのは、ちょうど昨日の記事で話題に挙げた「美しい文章」という話題である。美しいものはみな、表裏一体に蟻地獄としての側面を持っているような気がする。いや、それはさすがに言い過ぎなのだが、美しい文章は蟻地獄のように人を沈めて帰さない、というところまでは言ってしまってもよいだろうし、それは別に必ずしもよいことではない、ということである。

ともあれ、単なる道具というのは、場合によっては少しざらざら、でこぼこしているくらいが必要十分ということがある。

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