アートとしての病、ゲームとしての健康 ―10年後に読む『ハーモニー』―(2/12)

(2)ユートピアとしての『ハーモニー』

『ハーモニー』(2008)はSF作家、伊藤計劃の、結果としては最後に書かれた長編にあたります。

伊藤は本作を書いていた頃、すでに末期まで進行した肺癌を患っていました。病床で化学療法と放射線療法をくりかえしながら、時に朦朧とした頭で書きつづけたといいます。
同時期のブログ記事には、人が生きることと死ぬことについての当事者的な考察が、頻繁に顔をのぞかせます。当時の伊藤が感じていた「健康」の価値は、いまだ健康な読み手には計り知れないように思われます。

『ハーモニー』は、人々がかつてないほど「健康」に価値を感じるようになった世界の話です。
2019年(我々にとっては今年のことです)に起こった世界戦争と、未知のウィルスによるバイオハザード、通称「大災禍」を経験した世代の人たちは、気を抜けばいつ人類が「癌やウィルスに制圧される」[iii]かわからない、という恐怖を抱いて生きています。こうした背景から発達したのは、構成員の健康保全を唯一最大の責務とする「生命主義」的統治機構、「生府」でした。

生命至上主義(英:)Lifism。(中略)二十世紀に登場した福祉社会を原型とする。より具体的な局面においては、成人に対する十分にネットワークされた恒常的健康監視システムへの組み込み、安価な薬剤および医療処置の「大量医療消費」システム、将来予想される生活習慣病を未然に防ぐ栄養摂取および生活パターンに関する提供、その三点を基本セットとするライフスタイルを、人間の尊厳にとって最低限の条件と見なす考え方。[iv]

これらの思想が実装されたのが、冒頭でも紹介した「WatchMe」「メディケア」「ライフデザイナー」の三位一体というわけです。

そしてこれらの結果、どのくらい健康を保っているか、という評価が「社会評価点」という形でフィードバックされるのも重要なポイントです。Aさんは86点、☆4つ、Bさんは36点、☆2つ、という具合に、その「健康」ぶりをレーティングしたものがシステムからフィードバックされ、常に拡張現実で表示されることにより、各人が競って「健康」を保つようになります。

遠い未来の話のようですが、我々のよく知る言葉でいえば、WatchMeとはつまり「診断」のことであり、メディケアは「治療」であり、ライフデザイナーは「予防」にあたります。さすがに社会評価点が赤の他人に公開されることは我々の社会ではありませんが、たとえば会社の健康診断に引っかかって病院を受診させられているBさんを憐みの眼で見てしまう、というのはこれとほとんど同じことかもしれません。

これらのシステムによって、あらゆる病は未然に防がれ、身体の恒常性は極めて幅の狭いゆらぎの中で保たれる…というこのコンセプトは、基本的に今日の医療のそれとなんら変わらず、精度と速度が格段に上がっただけの話です。つまり『ハーモニー』の世界は、今日の医療にとってユートピアでしかないという事実を、まずはご理解いただきたいと思います。

余談になりますが、2017年の日本糖尿病学会で30あったシンポジウムのうち1つだけ、情報技術を扱ったものがありました。
情報技術の臨床応用はすでにさまざまな文脈で論じられていますが、そこでは生活習慣病診療の問題を解決する例として、スマートフォンの普及によって患者行動の把握が容易になった、という話題がありました。スマートフォンで食事の写真をとればアプリで推定カロリーが表示され、ウェアラブル端末を使えばどれくらい運動していたかがわかる時代です。治療者はそのデータを見ながら、ひとりひとりのユーザーがどのように療養を工夫できるかを、より生活に寄りそった形でアドバイスすることができます。

患者の治療行動や身体の変化に治療者がアクセスできることは、皮肉でもなんでもなく、よりよい治療関係の礎となります。従来は対話によるしかなかったその関係構築は、すでにテクノロジーによって高解像度化されつつあります。そしておそらく、「WatchMe」はその極限にあります。

とはいえこうやってプライベートを切り取って差し出すかのようなテクノロジーに、管理社会の影を見出す向きもありましょう。そして『ハーモニー』の前景化されたテーマは、ひとつにはこの問題でした。生命主義とはつまり、管理社会と医学の理想のマリアージュだというわけです。

しかし考えてみれば、健康維持をほとんど外注に出し、食べるものすら決められて自らが不健康になること許されない『ハーモニー』の市民の姿は、すでに今日我々が毎日体重計に乗り、食事の写真を撮り、テレビやインターネットの情報を頼りにせっせと健康管理に勤しむ姿とも、ほとんど重なり合うように思われます。

さて、このような権力のありかたを転覆させようとたくらんだのが、すべての黒幕として『ハーモニー』に登場するテロリスト、御冷ミァハ(みひえ みあは)でした。

若き日のミァハは、生体を監視しつづける「WatchMe」が「人間の体を言葉に還元してしまう」「ありとあらゆる身体的状態を医学の言葉にして、生府の慈愛に満ちた評議員に明け渡してしまう」[v]と嫌悪します。のちにアニメ映画化されたときには、よりわかりやすく「数値化されてしまう」というセリフも加わっていました。
いずれも自分の身体が、第三者の尺度によって要素へと分解され、解釈されることが我慢ならない、という反感です。そしてそのように身体を解釈されつづけていることは、「世界に自分を人質として晒している」[vi]ことに他ならないとも言うのです。

ミァハはまた、「権力が掌握しているのは、いまや生きることそのもの。そして生きることが引き起こすその展開全部」[vii]とも言います。あのミシェル・フーコーが「生権力」「バイオポリティクス」などと呼んだ問題です。
古来より暴力と死をちらつかせて民を治めていた権力は、フランス革命と市民社会の成立以降、リソースとしての市民を健康に生かし、その労働力を最大化することに注力するようになっています。市民の身体はもはや社会資源として、市民が自由にできる領域を離れ、権力に管理されるようになります。

『ハーモニー』ではこのアイデアを、よりあからさまに「公共的身体」などと呼んでいます。
こう呼んでしまうと極端なアイデアのようですが、市民の身体がだれのものか、という問題自体はすでに我々の世界でも切実なものとなっています。90年代~00年代、臓器移植が社会に実装されたころの議論はまさにそうでした。「脳死」した身体では脳機能が停止し回復の見込みはないけれども、臓器は瑞々しく保たれている、その臓器は社会のために提供すべきではないのか…という議論は、当時はグロテスクに思われたものです。

『ハーモニー』は、ひとまずはこうした問題系の収束点として書かれており、若き日のミァハはこれらがその極限において実装された社会のありかたに文句を言っているわけです。自分の身体の主権は自分が握っている、という信念のもと、彼女は生命主義社会へのテロと称して、何度も自殺を試みたりしています。

ただし、これらは2018年の我々にとってある程度「終わった」議論でもあります。1997年に成立した臓器移植法は2009年に最終改定されたきり、2018年現在までかわらず運用されています。西洋科学による身体の対象化や、生権力の問題などはさらに古く、今日までにくりかえし指摘されてもきた問題です。だからこそ、若き日のミァハの自殺未遂はどこか青い、子供じみた反抗にも映ります。

しかしミァハは、最後の自殺の失敗をへて思想的に転回します。『ハーモニー』の真価はここからです。既知の問題系からなる世界設計の精巧さも作品の大きな魅力ですが、読者はむしろ、それをいかに壊すかというこのテロリストの思想にこそ注目せねばなりません。

生命主義社会の完成系は、誰ひとり勝手な行動をしないように人間を管理してしまうことだ、と権力者たちは考えました。
彼等は「大災禍」のような混乱の再来に備えて、WatchMeのバックドアを利用し、いざというときに市民の意志を統率制御するための技術「ハーモニー・プログラム」を仕込んでいました。意志を制御されてしまった市民は、自らに固有の意識を失い、ロボットのように並列化されて、迷うことなく「健康」な生活を送るようになる、というコンセプトです。しかしそれでは人間としてあんまりなので、これはあくまでも「備え」にすぎず、実際に行使されることは想定されていませんでした。

しかし奇妙なことに、身体の主権を取り戻そうとしていたはずのミァハが最後にたどりついた答えもまた「人間の意志を制御し、意識を奪う」というものでした。転回したミァハは「ハーモニー・プログラム」の存在を知り、これを起動させるべきだと考えます。ミァハは人類が久しく経験していなかった暴動をあおり、権力者たちをふたたび恐怖に陥れることによって「ハーモニー・プログラム」の実行ボタンを押させることに成功します。はたして人類は意識を失い、完璧に「健康」な生活を手に入れるのです。

ミァハの目的が、人類みなが「健康」になることであればともかく、身体の主権を取り戻すことにあったのだとしたら、意志を制御され固有の意識を失うことはその目的と明らかに逆行します。これはいったい、どういうことでしょうか。

[iii] 伊藤計劃『ハーモニー』ハヤカワ文庫、2010、p159
[iv] 同p58
[v] 同p19
[vi] 同p132
[vii] 同p291

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