アートとしての病、ゲームとしての健康 ―10年後に読む『ハーモニー』― (1/12)

※本稿はゲンロン×佐々木敦 批評再生塾が初出の原稿に加筆修正したものです。

(1)はじめに

みなさん、健康になりたいですか?

なりたい! と元気よく答えたあなた、はっきりしていていいですね。
健康になんてなりたくない、と答えたへそ曲がりのあなた、あなたはきっといつの日か、苦痛にもだえながら救急車で病院に運ばれたとき、心から健康でありたいと願うことになります。そのあとでまたお会いしましょう。

さて、なんと答えていいかわからなかったあなた。うまく答えられなかったあなた。
この文章は、あなたのために書かれています。うまく答えられないのは当然です。だって、健康っていったいなんなんでしょう。本当はまず、それを考えることから始めねばなりません。

何千年ものあいだ、人間はそれについて考えつづけてきました。もっともらしい答えもたくさん出ています。しかしそれは社会と思想と技術によって、時々刻々と変わっていくのです。我々の時代には、我々のための健康が必要です。それは「なる」ものでしょうか。「ある」ものでしょうか。それとも「つくる」もの、「手に入れる」ものでしょうか。もしかしたら「させられる」もの、かもしれません。

私は内科医です。生活習慣病領域を専門としています。私の仕事のほとんどは、人々が病気を予防し、健康に長生きするにはどうすればいいかを考えることです。しかしだからこそ、健康とはなにかを考えるには、私は病院の外へ出て、批評という世界に足を踏み入れなければなりませんでした。新しい考え方を時代の最先端でつかまえるのは、いつも科学ではなく芸術と思想だからです。

もう10年も前のことになりますが、『ハーモニー』という健康についてのSF小説が話題になりました。21世紀後半、科学と福祉がかつてないほど肥大化した社会の話です。身体の恒常的モニタリングシステム「WatchMe」、迅速な投薬システム「メディケア」、そして未来の疾病をも予防するために生活パターンを提案する「ライフデザイナー」、この三位一体によって、老い以外のいかなる不健康とも縁がなくなった医療のユートピアの話です。もちろん酒や煙草、その他あらゆる放蕩は倫理に反するものとされ、摂取すれば「社会評価点」を失います。

しかし、この高度なシステムをもってしても、社会性を無視して放蕩に走る人々を止めることはできません。そこで小説のラストでは、人間みんなが健康に生きるために、つまり余計なものを食べたり飲んだり、自殺したり争ったりしないように、人間が意識を並列化されてロボットのようになってしまう様子が描かれていました。

たとえばこういう芸術作品を批評する、というやり方によってしか、我々は我々の時代の健康について考えることはできないのではないか、という気がします。芸術は、批評に先行して我々に問いをなげかけます。そして批評は、テクノロジーに先手を打ってそれに応えねばなりません。

『ハーモニー』からさらに遡ること約20年、遺伝子の優劣で社会的地位が決まってしまう近未来を描いた『ガタカ』というSF映画もありました。90年代、まさに人類にとって可能な技術になりつつあった遺伝子操作やクローニング[i]。その衝撃をどのように受け止めるべきか考えながら撮られたのであろう『ガタカ』は、名作として繰り返し批評され、そうするうちに我々は、少しずつ新しい技術に対するモノの見方を作り上げてきたのではなかったか、と思います。
人間の発達には遺伝素因よりも、環境因子のほうが強く関与する、遺伝が人生のすべてを決めるわけではない——遺伝、という点だけに注目してみれば『ガタカ』はそういう話でした。そして今日我々は、いつのまにか、そのことをすでによく「知って」います。

『ハーモニー』についてはどうでしょうか。『ハーモニー』が問うたことは、2020年代にはもう自明の話になっているでしょうか。そうなるかどうかは、10年代の我々にかかっているように思われます。そしてごく個人的な意見ですが、我々は2017年になってようやく、『ハーモニー』を批評するための道具を手に入れたのではないか、という気がするのです。

『ハーモニー』に登場するような身体のモニタリング技術は、日々進歩し実現されています。そのひとつの到達点が、日本では2017年に発売された持続型血糖モニタリングデバイス「Free style Libre」、通称「リブレ」というものです(詳しくは後ほど)。
人はかつて想像することすらできなかった身体の揺らぎを「ごはんを食べたら10分後から血糖値が緩やかに上昇し、30分でピークを越えて降下に転じた」という具合に、24時間絶え間なく、連続的に監視できるようになりました。一部のユーザーはまるでゲームのように、これを食べたらこのくらい血糖値が上がる、このくらい歩くと血糖値がいくら下がる、と試行錯誤し、自分の身体の恒常性を理解するようにさえなっています。

こうした技術の登場は、我々がWatchMeの実現にむかってすでに歩き始めていることを意味しているし、逆に言えばようやくWatchMeのある世界がどういうものか、すこしずつ想像できるようになってきたということでもあります。

他方、我々が健康になるためには、意識を奪われなくてはならないのだろうか、というのも重要な問題です。むやみに美味しいものを食べすぎたり、お酒を飲みすぎたり、煙草を吸ったりすることは「不健康」な行為だと考えられています。そういう行為がどのようにして生まれるのか、そしてそれを防ぐためには、本当に意識そのものを奪わなくてはいけないのだろうか、そもそもどうして防がなくてはならないのだろうか、ということを、我々はきちんと考えなければならない。

『ハーモニー』の作者は、人間の意識が奪われるラストについて、インタビューでこう答えています。

ある種のハッピーエンドであるとは思うんですけど、はたして本当にそれでよかったのか、っていう思いもあります。そのほかに言葉が見つからなかったのか。さっきの言葉でいうと、「その先の言葉」を探していたんですけど、やはり今回は見つかりませんでした、っていうある種の敗北宣言みたいなものでもあるわけで。[ii]

それから10年後、10年代の我々は、はたして「その先の言葉」をもっているのでしょうか。

さて10年代、この問題について考えるための道具を携えて颯爽と現れ、一躍時の人となった哲学者がいます。『暇と退屈の倫理学』(2011)、『中動態の世界』(2017)といった著書で知られる、國分功一郎です。
意外なことかもしれませんが、私の見立てが正しければ國分は「食べる」ことについて考え続けている哲学者であり、一方で「健康」については訝しがってもいる哲学者です。健康を考えるうえで「食べる」ことの問題は避けて通れません。我々はなぜ「食べる」のか、どのように「食べる」のか。そしてそこに、意識はどのようにかかわるのか。そういうことを、我々は國分の登場によってはじめて考えられるようになった、といっても過言ではないように思います。

『ハーモニー』、「free style Libre」、そして國分功一郎。このやや突拍子もない三者の接続が医療と健康の見方をひらき、そして三者それぞれへの理解をも深めていくように思われます。これが、この文章の行き先です。

(続きます)

[i] 『ガタカ』の公開は1997年。一方、ヒトゲノム計画は1990~2003年に行われ、クローン羊ドリーは1996年に誕生し2003年に死んだ。
[ii] 「伊藤計劃インタビュー」『伊藤計劃記録Ⅱ』ハヤカワ文庫、2015、pp303-304

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