依存について;スマートフォンは臓器のように魔法的で、

依存、という表現がやや雑に扱われているなと思うことがあって、SNS依存、は比較的よいが、スマホ依存、となるとちょっと妙だな、とか、微妙なラインがある。

外来に、普段は飲まずにいられるけれど調子が崩れると飲んでしまうというアルコール依存症の患者さんがいて、先日また飲んでしまう期に入ったその人が「もうね、飲んでるんじゃないの、飲まされてるって感じなの」と教科書のようなことを言っていた。依存というのは、こういうことである。

Twitterにはそれほど投稿しないが、見てはいる。投稿しない、というよりも、投稿できない、というのが正確で、わからない人には全然わからないだろうと思うけれども、思いついたことを素朴にネットの海に放出するということ、この小さな一歩のハードルがけっこう高い。性格の問題、実名でやっているという問題、時勢と職業倫理の観点から適当なことは言えないという問題、等々、気さくにTweetしない理由はいろいろある。

が、それでも見てはいる。

SNS依存にも、たぶんいろんな種類がある。活発に投稿し交流するユーザーだけでなく、投稿しないタイプのユーザーにも依存はある。時々タイムラインを延々とスクロールしながら、ああ、「飲まされてるって感じ」だな、と思う。


依存について、もうひとつ別の話。

むかしお世話になった会社で立ち上げた医療系メディアがあって、一時期僕も記事を寄稿していたのだが、この事業が先日のGoogleアップデートで壊滅的な打撃を受けた。

症状や疾患名などの検索ワードに対応した記事を網羅的にそろえることで、検索エンジンからの流入を確保していたサイトだった。医師の監修が入った質の高い記事は評判が良く、アクセス数は右肩上がりだったが、アップデートの晩を境に激減した。同様のサイトはいくつかあったが、みんなだめになった。生き残ったのは、Yahooへの記事提供が軌道にのっていた1社だけだった。

つまり問題は、Google依存なのだった。

検索エンジンとしてYahooを使っているユーザーなんて周りで1人も知らない。圧倒的に大差のついた2番手だ。そんなYahooと組んだ企業だけが、結果的にGoogle依存から脱し、Googleの変化を経てもなお生き残った。

今後はもう、Google依存度下げていこうと思って。Googleの気分次第で上がり下がりしてちゃたまらないよ。社長はそんな風に言っていた。
これも、依存ということの意味である。


スマホ依存、というのはちょっと難しい。

特定のサービスに依存している状態はわかりやすいけれども、無数のサービスが詰め込まれた多用途のデバイスに依存するという状態は、わかるようでよくわからない。
角度を変えてみる。この多用途のデバイスで、毎日いったい何をしているか。交流。知覚。検索。記憶。思考。それらの複合。その外部化。すこし飛躍すると、これはつまり、身体が外部にあるということである。

アプリケーションと臓器はよく似ている。

Google mapで移動経路を検索する。バックグラウンドでどのような処理が行われているのか知らないまま、その結果をさしあたり採用する。要するに思考その他の外部化である。

本来自分の身体の内側で処理されるべきプロセスが、身体の外側でブラックボックス的に処理されること。これは一種の「再魔法化」なのだが、しかし考えてみれば身体の内側では意識に登らないまま処理されていることは山ほどあるのであって、つまり自律して機能する我々の臓器とは、まさしく魔法に他ならないのだった。

スマートフォンは連関する多臓器によく似ている。

臓器のなかでも大事なやつとそうでもないやつがあって、大事なやつが障害されると身体は機能不全に陥る。一人暮らしを始めたころ、自宅にインターネット環境を導入するのをケチってスマートフォンのテザリング一本で頑張っていた時期があって、月末になるといつも速度制限がかかっていたのだが、そんな時はいつも、まるで突然耳か目をふさがれたかのように全身が機能不全に陥るような感覚に襲われて、発狂しそうになっていた。

スマホ依存とはつまるところ、「最近の人はスマホばっかりいじって」などというような呑気な話では全然なくて、このデバイスがずぶずぶに身体と絡みあい、生命活動の一部を担っているということだ。それが健全でないのだとしたら、身体機能の大部分がたったひとつのデバイスに集約されてしまっているということ、ただその一点に尽きる。


依存とは一種の機能集約のことである。だとすると、その解決策は分散することにほかならない。

いろんな方法を試してみようと思って、noteでこういう風に書いてみることにした。飽きたらやめる。

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