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愛シテル

「私、彼を愛さないようにしているのよ」
 と真奈美は唐突に言った。
 僕は缶コーヒーのプルタグを開けた。
「どうして?」
 僕は缶コーヒーを一口飲んでから彼女の顔を見た。
 僕らは公園のベンチに腰かけている。

 休日の公園で、僕は真奈美の姿を見かけた。
 真奈美は僕が今付き合っている彼女の友人だ。彼女とは何度か顔を合わせた事はあったが、これと言って直接言葉を交わした事が無いし、お互いの事をあまり知らない。しかしながら公園のベンチに座って空を眺めている彼女の姿を見つけて、僕は声をかけずにはいられなかった。
 僕は近くにあった自動販売機で缶コーヒーを二本買い、彼女のとなりに座ったのだ。

「人を深く愛すると、その人がどうしようもなく憎くなるからよ」
 真奈美はそう言って僕の顔を見た。
「私、彼のことを憎みたくなんて無いのよ。だって愛しているから。愛している人を憎みたくなんて無いでしょ? だから私、彼のことを愛さないようにしているの」
 僕は彼女の言葉に対してどう答えたら良いものかを考えた。
 正直言って、彼女の言っていることは、僕にはさっぱりわからなかった。だいたい彼女は僕に対して話をしてなんかいなかった。彼女は僕に対して、何の答えも求めてはいなかった。

「でもいくら愛さないように努力したって、愛してしまうものなんじゃないのか?」
「そうね、それがとても困ったものなのよ」
 彼女はそう言って、缶コーヒーのプルタブを開けた。

「あなた、誰かを愛したことある?」
 彼女はコーヒーを一口飲むと、そう言った。
「僕は香津子を愛している」
 香津子は僕が今付き合っている彼女の名前だ。
「ふうん」
 彼女は空を見上げる。空はとても青く、大きな雲がいくつも浮かんでいた。

「私、死ぬのよ」
 彼女は雲を眺めながらそう言った。
「え?」
 僕は彼女の顔を覗きこんだ。
「私、死ぬのよ。人を殺したくなんてないから」
 彼女は空を見上げたままだ。
「人を殺さなくたって、生きては行けるよ」
 僕がそう言うと、彼女は視線を僕に向けた。
「馬鹿ね。そんなの生きているなんて言えないわよ」
 彼女はそう言って力のない微笑を浮かべた。

 僕は真奈美と別れて、アパートへと歩いた。僕は心の中で、彼女の言葉を繰り返した。「そんなの生きているなんて言えないわよ」、そう彼女は言った。
 もしかして彼女は自殺をしてしまうかもしれない、そんな気がした。だけど、僕に彼女を止める事はできない。生きているという事の意味が、僕にはよくわからないからだ。

 アパートに戻ると、香津子がラジオを聞きながら雑誌を眺めていた。
「さっき、真奈美に会ったよ」
 僕はキッチン・テーブルの前の椅子に腰かけながらそう言った。
「真奈美に? 彼女、何か言っていた?」
 香津子は雑誌からは視線を離さずに、答えた。僕はため息をつき、席を立つと、キッチンのケトルに水を入れ、コンロの上に乗せてスイッチを入れた。赤い炎が湧きあがった。
「彼を愛さないようにしているんだそうだ」
 僕はそう言うと、香津子を見た。
「何よそれ?」
 香津子は雑誌から顔を上げて僕を見る。
「わからないよ。だけど、そう言っていた」
 香津子は「そう」、とだけ言うと、また雑誌に視線を戻した。僕はマンデリンの豆をコーヒー・ミルで轢き、コーヒーを入れた。
 僕は真奈美が「死ぬ」と言っていた事を香津子に話すのはやめた。それを話す事は、何だか無意味に思えたからだ。

 僕は香津子と二人でこのアパートに暮らしている。僕らは二人とも仕事を持ち、お互いを尊重して生活している。彼女は自分の仕事に生きがいを感じているようだが、僕はそうではない。夢なんてもう遠い昔に失ってしまったし、僕にとって仕事と生きがいとはまったく異質のものである。
 僕らは長い間、セックスをしていない。付き合い出した頃は毎日のようにセックスをした。だけどそのうちに、彼女が僕を受け入れないようになった。世の中にはセックスをしないカップルが珍しくないそうだが、僕にはその訳がわからない。
 僕にはわからない事だらけだ。

 僕らはワインを飲みながらパスタで夕食をとり、シャワーを浴びてベッドに入った。香津子は直ぐに眠ってしまったが、僕は眠れなかった。
 香津子の寝顔を眺めながら、僕は真奈美の言葉を思い出す。僕は生きていると言えるのだろうか。僕の心の中はまったくの空白で、その空白はいったいどこからきたのだろうか。僕は人を愛する事も、憎む事も、殺す事も、ないのかもしれない。これで生きていると言えるのだろうか。僕はいつの間にか自分自身を押し殺して生きて来たのではないか。僕は生きると言う感覚を失ってしまったのではないか。僕はいったい何のために生きているのだろうか。

 僕はどうしても眠れなかったし、眠りたくなかった。そして僕は、自分がここに居る事に違和感を感じていた。僕にはここでこうしている事が、とてつもなく居心地の悪いものに感じられた。
 僕はベッドから起き上がると、洋服を身につけた。そして車に乗り、エンジンをかけた。

 目的は無かった。ただ、僕は車を走らせ、南に向かった。南に向かうべきだと思った。

 僕は夜通し車を走らせた。そして僕は夜明けの海岸に、車を止めた。
 浜辺に腰を下ろし、僕は海を見つめた。長い間、僕は海を眺めていた。

「東京の人でしょう?」
 ハタチくらいの女の子が、僕に話しかけた。
「うん」
「だと思った」
 そう言うと、彼女は僕の隣に腰かけた。
「ここ、私の場所なの」
「え?」
「ここ、私の場所なのよ。いつもココに座って、海を眺めるの」
「そう」
 僕は立ちあがって、ズボンのおしりについた砂をはらった。
「良いのよ、追い出すつもりなんてないんだから」
 彼女は僕を見上げてそう言った。
「一緒に海を眺めましょう」

 彼女は微笑みながらそう言うと、僕の座っていたあたりの砂の上をたたいて、僕にそこに座るように促した。彼女の素朴な笑顔は、僕の気持ちをほっとさせるものだった。
 僕は黙って頷くと、その場に座った。
「幸せな人は、海を眺めたりなんてしないのよ」
 彼女はそう言って笑った。
「なるほどね」
 僕もそう言って笑った。

 僕らは長い間、黙って海を眺めていた。二人とも、まったく違った事を考えているのに、僕らには不思議と一体感があった。

「ねえ、セックスしないか?」
 僕は長い間海を眺めた後に、そう言ってみた。
「いいわよ」
 彼女が答えた。

 僕らは海辺のシーフード・レストランで食事をし、海が見渡せるホテルの最上階の部屋にチェックインした。
 僕らはシャワーを浴び、セックスをした。

 彼女とのセックスで、僕は長い間感じていなかった、満たされた気持ちになった。心が開放された気分だった。僕のペニスは彼女のヴァギナの中にあり、僕の唇は彼女の唇とあわさっている。

「愛シテル」
 僕は思わずつぶやいた。
「誰を?」
 彼女が僕の目を見つめた。
「君を、君を愛シテル」
 僕はそう言った。

 彼女が「ふふっ」と笑った。

つづく。

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