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サマーデイズという曲

あらすじ

 芹沢祥平はフュージョン・バンド45RPMのギタリスト。
 一年前の友人の死で夢を失っていた。
 パーティ会場で魅力的な女、萩原貴美子と出会う。
 金持ちに対して反発を抱いていた翔平だったが、いつしか恋に落ちてしまう。
 プライベート・ビーチで貴美子と過ごす夏の日々。
 そんな夏の想い出が、翔平にそのメロデイを作らせた。
 「サマーデイズ」という曲。
 だけども貴美子の兄の反対によって、翔平はその恋をあきらめる。
 傷心の中で落ち込む翔平は、メジャーになるチャンスであるフェスへの参加へも不安を感じていた。
 フェスの舞台で、翔平はあのメロディを奏でる。
 サマーデイズという曲を。

ものがたり

 ドレスアップされた魅力的な女性の曲線美。タキシード姿の男たち。女たちは背中が大きく開いたドレスを身にまとい、ゴージャスな魅力を振り撒く。男たちは誰もが自信に満ちていて、身のこなしがスマートだ。
 プールサイドではジャズ・バンドがスタンダード・ナンバーを演奏し、それにあわせて優雅なダンスを踊る人々、そしてカクテルを片手に高貴な会話をかわしている人々がいる。彼らの姿にはプールに反射した光がきらきらと浴びせられ、神秘的な水の模様を映し出している。
 そこでは華やかなパーティが行われていた。セレブリティが集まり、僕とはまったくの無縁の世界が繰り広げられていた。

 僕は車のドライバーズ・シートに腰掛けて、木陰の間からそんな様子を眺めている。いつか僕も、あの世界に溶け込みたい。あの世界の中に加わりたい。そんな夢を僕は見ている。そんな空想を思い描いている。僕にとってそこは、夢の世界だった。
 僕はまるで、映画を観ているかのような気分だった。スクリーン越しに見えるその世界は別世界だ。僕は映画館のシートに座って、ただその別世界を眺めているだけなのだ。
 ポップコーンとコーラされあれば、それはもう完璧だった。

 僕は目を瞑り、想像する。高級なスーツを身にまとい、魅力的な女性たちと小粋な会話をかわすのだ。僕は何もかもを手に入れた成功者として、優雅な時間の中に存在する。
 僕は映画のスクリーンの中に吸い込まれてしまいたいと願う。
 そこには僕の失われてしまった世界がある。僕がもう少しで手に入れられるはずだった世界が、そこには存在している。今の僕は、まるで世の中から見捨てられてしまったかのような存在だ。僕には未来など存在しない。遥か彼方に存在する幻を、僕は恨めしく思うのだ。

 かつての僕だったら、この夏の兆しに胸が踊る気分なはずだったのに、僕の気持ちは沈んでいた。
 そう、季節は夏だ。何もかもがキラキラと輝く夏なのだ。それなのに僕は、暗闇の中に生きている。どうにも抜け出せない暗闇の中に生きている。それは永遠に続く地獄のように、僕には思えた。
 何も変わらない。どこにも光はない。だけどこんな僕のもとに、夏の物語は訪れるのだ。
 これは、僕の人生の中でもっともエキサイティングでドラマティックな、夏の物語だ。

 「ドスン」、という音とともに車体が大きく揺れて、僕は現実の世界に引き戻された。
 僕にはいったい何が起きたのか、まったく理解ができなかった。地震とか、そういったものではなかった。地面が揺れているという事実はまったくなく、あいかわらず豪邸では優雅なパーティが繰り広げられていた。
 「ドスン、ドスン」、と車は更に大きく揺れた。どうやら車のルーフの上に何かが落ちてきた様だ。しかもその物体は動いている。

 僕は恐る恐る上方を見上げてみた。しかし僕の真上には車のルーフしかなく、そのルーフの上の状態なんて、分かるはずがなかった。僕にはそれを想像する余地なんてまったく無かった。
 車は更に大きく揺れて、サイド・ガラスにその物体の一部が現れた。
 それは、ハイヒールを履いた女の足だった。

 赤いハイヒールにすらっとしたふくらはぎ。それは、まぎれもなく若くて細身の女性の足だった。
 その魅力的な足は直ぐに車の上部へと引っ込み、ルーフの上の女は必死に体制を立て直そうとしているかのようだった。車がぐらぐらと揺れる。僕は不安な気持ちでルーフを見上げている。
 女はしばらくもがいたすえにようやく車の上から飛び降り、よろめきながら着地した。
 着地成功、と僕は心の中でつぶやいた。

 僕の視界に女の後ろ姿の全貌が現れていた。背中の大きくあいた赤いワンピース姿。形のいいお尻をしていて、ウエストがきゅっとしまっている。僕はただぼんやりと、そんな魅力的な女の後ろ姿を眺めていた。
 それは映画の中のワンシーンのようであり、女の姿はスクリーンから飛び出して来たかのように、僕には思えた。
 女はドレスに付着した汚れを丁寧に振り払い、くるりと振り向いた。
 そして僕と女の目が合った。
 女は何かにおどろいた猫のように、体を硬直して静止した。それはまるで、ビデオの停止ボタンを押してビデオの再生を停止させてしまったようでもあった。
 そして僕も同じだ。
 二人ともストップモーションをかけられたかのように、静止していた。

「逃げるわよ」
 と女が言った。
 ビデオの再生が再開されたようだった。
 僕は何が起こっているのか事態が読み込めなかった。
 僕は映画の世界に迷い込んでしまったのか?

 女は僕の車の助手席に乗り込むと、シートベルトをした。
「早く」
 と女は続けた。
 僕は車をスタートさせた。

「誰かに追われているのか?」
 と僕は女に訊ねた。
「誰も追っては来ないと思う。誰も私になんて興味が無いのだから」
 と女は答えた。
「追われていないのに、逃げるのか?」
 僕は頭の中がクエスチョンマークでいっぱいの状態で女に訊ね続けた。
「そう。誰かが私を追っているのではないけれど、私は何もかもから逃げだしたいの。私はあのパーティという退屈な世界から抜け出して、自由になりたいの」
「この世界からの卒業?」
「何それ?」
 知らないのか、尾崎豊を。

「パーティが嫌いなのか?」
 と僕は質問を続けた。
「そうね、大嫌い」
「それで、どこに向かえばいいんだ?」
 と僕は女に訊ねた。
「どこでもいいの。とにかくここではないどこかに、私を連れて行って」
 と女は答えた。
 ここではないどこか、そこに希望があるとでも言うのだろうか?

 僕は車を走らせた。
 ここではないどこかに向かって。

「ところであなた、誰?」
 女は今更ながらに僕に訊ねた。
「僕は誰でもない。きっと僕は、君の脱走を手伝うために存在しているのだと思う」
 と僕は答えた。
「白いTシャツにダメージ・ジーンス。あなたのその飾らないところが気にいったわ」
 女は僕の頭からつま先までを舐めるように観察し、僕の服装を描写した。
「ありがとう。これしかないんだよ、着るものが」
「あなたフランス人?」
 なんのはなしですか、という気持ちで僕は彼女を見た。
「違うけど」
「そうよね。フランス人は10着しか服を持たない、って聞いたけど」
「10着も持っていないよ」
「あなた、私の家にどろぼうに入ろうとしていたんじゃないわよね?」
「私の家? あの豪邸は君の家なのか?」
「そうよ」
「君は自分の家から逃げようとしていたのか?」
「自分の家から逃げるようとしていたのではなくて、パーティから逃げだしたかったのよ」
「楽しそうなパーティに見えたけどな。僕もできれば参加したかったくらいだよ、着てゆく洋服があればのことだけどね」
「あんなパーティなんて、楽しくないわよ。誰も私の誕生日を祝う気なんてないんだから。ただお金持ちが集まって、見栄を張りあって、上っ面の笑顔を見せて、」
「え? ちょっと待ってよ。君の誕生パーティだったのか?」
「そうよ」
「なんてこった」
「ふふ。村上春樹みたいな言い方をするのね」
「村上春樹は「やれやれ」、僕は「なんてこった」」
「似たようなものね」
 そう言って女は笑った。

「それで、いったい何を盗もうとしていたの?」
 女は僕に訊ねた。
「何も盗むつもりなんてなかった。だけど、君を盗んだ」
 そう言って僕は女を見た。
 女は僕のほほをつねった。

 僕が乗っている車はプジョー205だ。それは死んだ僕の友人の形見のようなものだった。
 古い車だから何かと故障が多い。実際のところ、少しばかり車の調子が悪かったから、僕はあの豪邸の塀沿いに車を止めて、車を休ませていたのだ。
 フランス車なんて僕には似合わないと思っていたけれど、おかげでフランス人に間違われたっていうわけだ。違うけど。

 僕はケーキ・ショップに立ち寄り、ケーキを買った。なにしろバースディだ。
 バースディ・ケーキは無かったので、普通のケーキを買った。
 そして車を走らせて、そこに向かった。
 そこは僕だけの特別な場所だ。

 人通りのない脇道を抜けて、入り組んだ細い道を走らせた。対向車はない。ここは裏道マップに出ているような、あまり人が使わない道なのだ。
 暗いヘッドライトが夜道を照らし、僕らはミステリーゾーンへと向かっている。

 僕はひとけの無いコンクリートが打ちっ放しの廃屋の前に車を止めた。小さな街頭があるだけで、薄暗い。そんな状況に女は戸惑う。
「僕はよく、ここに来るんだ。静かで気持ちが落ち着く」
 そう言って、僕は車のエンジンを切った。静寂が僕らを包み、一気に夜の闇が僕らを襲う。
 女は不安に襲われた表情をしている。
 「私を殺すつもり?」と感じていることが、その表情からうかがわれた。

 僕は車のトランクからテーブルとキャンプ用のチェアーを二つ取り出して、車の前に設置した。
 テーブルの上にランタンとブルートゥースのスピーカー、ケーキとワイングラスを置いた。

「音楽を聴こう」
 僕はそう言ってブルートゥース・スピーカーの電源をオンし、スマホの音楽プレイヤーを操作する。
 スピーカーからはノラ・ジョーンズの歌声が流れ出した。
「お座りになりませんか?」
 そう言って、僕はキャンプ用のチェアーに座るように女に促した。女は恐る恐る車の外に出ると、キャンピング・チェアーに腰掛けた。
 僕はケーキのパッケージを開けて、ケーキの上にろうそくを立てて火をつけた。
「二十歳の誕生日、おめでとう」
 と僕は言った。
「ありがとう」
「さあ、火を消して」
 女はふうっと息を吹きかけてろうそくの火を消した。
「でも何でわかったの? 二十歳の誕生日だって」
 女は不思議そうな表情をして僕を見ている。
「何となく、そう思っただけ。パーティをやるくらいなんだから特別な日な訳だろう? だからそう思ったんだ」
 僕は答える。僕は名探偵になった気分だ。女はぎこちなく頷いた。
「でも、十九の時にもパーティをやったけど」
 女はつぶやいた。
「十八のときも」
 女は続けた。
 ふたりとも笑った。

 僕はワイン・グラスにワインを注いだ。
「私を酔わせてどうにかするつもりでしょう?」
 と女は怪しげな表情をして僕に訊ねた。
「ノンアルだけど」
 と僕は答えた。
「え?」
「車だし」
 僕らは笑った。
 そして僕らは乾杯した。

「僕は芹沢祥平。フュージョン・バンドでギターを弾いている。決して怪しいものではない」
 僕はそう言った。女はくすくすと笑う。
「高級車じゃなくて庶民的な車がいい、タキシードじゃなくてTシャツとジーンズがいい、ゴージャスなパーティじゃなくてさびれた場所がいい、バースディケーキじゃなくて普通のショートケーキがいい、アルコールじゃなくてノンアルがいい、ジャズじゃなくてフュージョンなところがいい。あなたは私にとっていいことずくめ。だから特別に私の名前を教えてあげます。私の名前は、カルメンでっす」
「え?」
「もちろんあだ名に、決まってまっす」
「ピンクレディ?」
「ふふふ。私の名前は萩原貴美子。学習院大学の二年生。どこにでもいる普通の女の子です」
 女は、貴美子は、そう言ってほほ笑んだ。
 くったくの無い貴美子の笑顔。だけども僕は疑問に思う。
 僕にとって貴美子は、とても普通の女の子には思えなかった。

 昨日降った雨のせいで、地面は濡れ、あちこちに水溜りができていた。その水溜りに光があたり、反射する。僕はそんな姿を見て、心が落ち着くのだ。
 アンドレイ・タルコフスキーの世界だ。

「よくここに来るの?」
 貴美子は辺りを見回しながら、僕に訊ねた。
「うん、ここは僕のお気に入りの場所なんだ」
 僕は答える。
「私も気に入った」
 貴美子は少し、この雰囲気に慣れてきたようだ。
「ここはすごく気持ちが落ち着くんだ。何も無いから。富も、名声も、欲望も、ここにはない」
 僕はそう言って、ワインを飲んだ。ノンアルだけど。
「ただただ現実の中にいる。未来も過去も無い。ただ、現実が存在するだけだ」
 僕はそう続けた。

 僕はとても楽しい気分だった。
 この世界の終わりのような廃墟は、今まで僕だけの孤独な世界だった。
 そこに華やかな花が咲いたようだった。
 貴美子の輝きが、この終わった世界を照らしているのだ。僕にはそう思えた。

「さっき、ギターを弾いているって言っていたけど」
 貴美子が思い出したかのようにそう僕に訊ねた。
「うん」
 僕はうなづいた。
「聴いてみたいなあ、弾いているところ」
「それはやめた方が良い。ひどいもんだから。もし僕が天才的なギタリストだったら、きっと君の誕生パーティに呼ばれているはずから」
 と僕はおどけてみせた。
「ジャズじゃないから、呼ばれなかっただけよ」
 と言って貴美子は笑った。

 僕がギタリストであることは事実だけれど、正直に言って僕には自信が無いのだ。
 僕がいつまでたっても食えなくて、どん底から這い上がれないのも、僕の技量に問題があるからだ。
 それが分かっていながら、僕にはどうすることもできない。僕はただ、もがいているだけなのだ。

「あなたがうらやましい」
 貴美子がつぶやいた。
「どうして?」
 寂しげな表情をしている貴美子の顔を、僕は覗き込んだ。
「自由に生きているっていう感じがする。私は、籠の鳥。何不自由なく育てられて、欲しいものは何でも手に入る。でもね、それは籠の中での話。大空を飛ぶことなんて、私にはできないのよ」
 貴美子はそう言って、夜空を見上げた。
「自由だけれど、金はない。やりたいことは何ひとつできないし、欲しいものも何ひとつ手に入らない」
 僕は答えた。
「お金がなくたって、自由があればいいじゃない。私はお金があっても、自由になれない」

 それはお金がある人の言うセリフだ。
 マリー・アントワネットと同じだ、と僕は思う。
 無い人の気持ちなんて、ある人にはわからない。
 それがどれほど切実なものなのか、知るよしもないのだ。

 自由って何だろう?
 貴美子が言うように、今の僕は自由なのだろうか?
 でも少なくとも、今の僕が幸せだとは思わない。金銭的に満たされていれば、それが幸せだということでもない。心が満たされること、それが幸せなのか? それは、簡単には手に入らないものなのか?
 僕はこの一年間、ずっと心を閉ざしてきた。僕の気持ちはどこにも行き場所が無く、この何も無い廃墟の中に吸い込まれていった。だけど今の僕の気持ちは、目の前にいる貴美子の中に受け止められている。そんな暖かさが、僕の心を和ませた。
 僕は貴美子の前で、正直な気持ちを語った。それはすごく開放された気分だった。僕はこの一年間、誰にも語ったことがない本当の自分を、語っていた。

 貴美子とは、もう会うことはないだろう。そんな気軽さが僕にはあったのだと思う。
 僕は夢を見ているのだ。明日に引きずるものは何もない。今という瞬間がここに存在するだけだ。
 今の僕には未来に対する責任も、現実もない。この心地よさが、僕を包んでいた。

 僕らは朝まで、たわいもない話を続けた。
 不思議なことに、話題が途切れることはなかった。
 違う世界に生きる二人が偶然に巡り会い、ひとときを過ごす。
 そして夜明けとともに、終わりは訪れるのだ。

 貴美子はこのはきだめのような世界から、ふかふかなベッドの中へと、戻ってゆくのだ。

 まだ薄暗い夜明けの道路を、僕は車を走らせた。助手席には貴美子がいる。
「これで終りなの?」
 と貴美子が僕に訊ねた。
「うん、君を家に送り届けて、僕のやるべきことは終了する」
 どろぼうが盗んだものを元の場所に戻すように、僕は何もなかったかのように貴美子を豪邸に送り返すのだ。
 貴美子は寂しそうな表情をして、僕を見ている。
「もう会うことはできないの?」
 僕はまっすぐに前を見ていた。
「僕たちは、違う世界に生きる人間だ。お互いに自分にはない世界を求めているけれど、その先には何もないように思えるんだ。夢を見たって、それは夢でしかない。目を覚まして、現実の世界に生きてゆくしかないんだ」
 僕は自分自身に言い聞かせるようにして、そう言った。貴美子はもう、何も言わなかった。

 車が屋敷の前に到着する。当然のことだが、パーティはもう終わっている。煌びやかな夜が終りを告げ、静かな朝がそこにはあった。
 貴美子は車を降り、黙って僕を見ていた。僕は彼女に向かって軽く手を振ってから、車をスタートさせた。
 バックミラーの中で、貴美子が小さくなってゆく。
 映画のラストシーンとしては、とてもよくできている。

 時計は六時十五分を示すと同時にけたたましく鳴りはじめる。
 僕は毎朝、このベルの音で目を覚ますのだ。
 寝起きが悪い僕はベッドの上で起きあがると、しぼらくはぼうっとしている。
 そしてゆっくりと、現実の世界へと自分をなじませてゆく。
 僕の頭の中からもやっとした感覚が消え去ると、僕はベッドの中から抜け出してシャワーを浴びる。またいつもの僕の、一週間の始まりだ。

 僕は月曜日から金曜日までの五日間、町工場で働いている。作業内容は単純なもので、毎日毎日同じ事の繰り返しだ。
 僕はマシーンと化して、正確に作業を繰り返す。しかし僕はこうして働くしかない。夢を失った僕は、こうして働くしかないのだ。
 シャワーから出ると、ドライヤーをかけ、歯を磨き、髭を剃るというありきたりの動作を行う。そしてコップ一杯のミルクと、圧切りのトーストを食べる。
 ラジオのスイッチを入れる。J‐WAVEにチューニングされたラジオからは、聞き慣れたDJの声と音楽が流れだした。僕はそれを聞きながら、洗いたての作業服に着替える。毎日毎日同じ事の繰り返しだ。気が遠くなる程やりきれない気持ちに陥る。とにかくまた一週間の始まりだ。作業着姿の僕は、アパートを後にした。

 自転車に乗って二十分ほどで、職場には到着する。従業員は僕を入れて六人。いつもの顔。「おはようございます」と明るく挨拶をする。皆、良い人ばかりだ。それなのに、どうして僕はここが不満だというのだろうか?

 午前中は、まだ夢から冷め切らない気分だ。現実という世界に置かれた自分は、自分ではないような気分だが、そのリアリズムはまさしく現実であり、淡々と時間は過ぎてゆく。
 機械加工のマシンを操作し、正確に金属の加工を行う。こんな時代遅れのような手作業が、ハイテクノロジーの現代社会においも必要とされている。
 僕はずっと、夢を追い求めてきた。僕はギターを弾き、バンドはそれなりに人気があった。生活のために続けている今の仕事は、いつかは終わりが来るはずだった。だけど相変わらずそれは続いている。このまま永遠にそれは続いてゆくのだろうか? このまま永遠にそれは続いてゆくのだろうか?

 昼休みのチャイムが鳴り、僕は工場の外の汚い路地に腰を下ろす。茶色の紙袋に入ったパンとコーヒー牛乳を取り出して、それをかじる。これが僕には似合っている。今の僕にはそれが似合っている。
 午後の仕事を終えると、仕事仲間に飲みにゆこうと誘われる。僕はそれを断り、アパートへと帰る。
 アパートの部屋で、ベッドに横になりながら、考え事をする。希望の無い生活は、何とも惨めなものだと思う。僕は孤独の中にいる。

 土曜日がやってきた。
 クロックワークな一週間の仕事が終わり、僕の僕だけの時間が戻ってくる。
 午前中はだらだらと過ごす。やがて穏やかな一人の時間が訪れる。

 ギタースタンドに立てかけられたフェンダーのストラトキャスターを手に取り、僕はギター・アンプのスイッチを入れた。
 ベッドの上に座りながらデタラメに思いついたメロディーを弾く。
 気に入ったメロディーが思いついたときには、それを譜面に書きとめておく。気が向いた時にそれらを参考にして、一つの曲を作り上げる。
 だけどこの一年間、ろくな曲なんてできなかった。僕の中から湧き出てくるものなんて、何も無かった。
 僕は終わっていた。一年前のあのできごとで、僕は終わってしまったのだ。
 いや、実際には何も始まってはいなかった。始まりも終わりもない。僕はずっと、何でもない存在だったのだ。

 ライブハウス「マリブ」は、トロピカル調でカフェバーの様な雰囲気のある店だ。
 天井にはフライ・ファンが回り、店のあちこちには南方を思わせる観葉植物が置かれている。
 店内は広く、たくさんの丸いテーブルが置かれている。
 ウエイトレスはアロハシャツにジーンズと言う姿で様々なカクテルを客に運ぶ。客層は若者中心であり、トロピカルな店の雰囲気の中で愛を語り合ったり、友情を深めたりしているわけだ。

 僕の所属するフュージョン・バンド「45RPM」は、土曜日の七時から八時半までの一時間半、ここで演奏をしている。客のほとんどが「45RPM」の演奏をBGMとして聞き流し、それぞれの会話を楽しみ、それぞれの愛を育んでいた。
 その日の僕等の演奏も大した盛り上がりも無く、ごく普通のものだった。
 ありきたりの演奏。ありきたりの時間。もう一年ぐらいこういった演奏が毎週行われている。
 淡々と、淡々と、時間が流れている。ただそれだけのことだった。

 一年前のあのできごとで、僕らは変わってしまった。
 一年前、僕らは失ってしまったのだ、大切なものを。

 楽屋に戻り、僕が帰り支度をしていると、立花佐和子が僕に話しかけた。
「たまにはコーヒーでも飲みませんか?」
 僕は首を横に振って、誘いを断る。
 そう、僕は一年間、ずっと佐和子の誘いを断り続けている。

 佐和子は一年前から僕らのバンドのキーボード・プレイヤーとして参加している。
 元々は僕らのバンドのファンだったのだ。それが一年前からメンバーとして加わっている。

 佐和子とは、一度だけ寝た。ちょうどあのできごとがあった前の日だ。
 その頃の僕らのバンドは絶頂期だった。ライブはいつも満員だったし、メジャー・デビューも決まっていた。
 だけどもあのできごとのせいで、すべてが終わってしまった。
 僕には佐和子のことを幸せにすることができない。だから僕は佐和子を避けるようになってしまったのかもしれない。
 彼女のせいじゃない。だから僕は、佐和子の顔を見るのが辛いのだ。

 僕はプジョー205に乗り、いつものあの場所に向かった。
 コンクリートが打ちっ放しの廃屋。僕だけの空間。
 心が乾いていた。僕は心の渇きを癒すために、あの場所へと向かうのだ。

 薄暗いいつもの場所に、人影があった。
 車のライトに照らされて、その姿が浮かび上がった。
 そこにいたのは、萩原貴美子だった。
 貴美子はキャンプ用のチェアーに腰掛けていて、その横には真っ赤なスポーツカーが止まっていた。

 僕は車を止めて、貴美子の座っているところまで歩いた。
 貴美子は僕の顔を眺めながら、にっこりと笑っていた。

「パーティはもう始まっているわよ」
 貴美子はそう言って、ワイングラスを持ち上げて僕にウィンクをした。
「パーティは嫌いなんじゃなかったのか?」
 と僕は貴美子に訊ねた。
「ここは別。あなたと二人だけのパーティはウェルカムよ」
 と貴美子は答えた。

 僕は貴美子の主宰したパーティに招かれたのだ。
 貴美子が用意していたキャンプ用のチェアーに座り、貴美子が空のワイン・グラスにワインを注いだ。
 ノンアルだけど。
 僕らはノンアルのワインで乾杯をした。

「物語は、あれで終わりのはずだった」
 僕はそう言った。
「好評につき、続編となったのです」
 貴美子が答えた。
「俺たちに明日はない、ボニー&クライドには続編は無いよ」
「作ればいいのに」
「二人とも死んでしまったのに?」
「私たちは死んでない」

 僕は苦笑いをして、ノンアルのワインを飲んだ。
「怒った?」
 貴美子が心配そうな表情をして僕を見た。
「いや、素敵なサプライズだ」
 僕がそう言うと、貴美子はちょっと苦笑いをして、僕のほほをつねった。
 どうやら僕が照れ臭いことを言うと、貴美子は僕のほほをつねるようだ。

 どうして貴美子と一緒にいると、リラックスができるのだろうか?
 僕はこの一年間、ずっと肩に力が入っていた。そんな硬直した体が、ふっと軽くなるような気がする。
 それは僕がそれを、幻と割り切っているからなのかもしれない。

「ミステリアスでエキサイティング」
 と貴美子が言った。
「え?」
「ここのこと。そう感じるの」
「少なくともロマンチックじゃない」
「たしかに」
「アンドレイ・タルコフスキーって知ってる?」
 僕の質問に、貴美子は首をかしげる。
「ロシアの映画監督なんだけど、『惑星ソラリス』とかを撮った」
「ジョージ・クルーニーの?」
「いや、それはスティーブン・ゾダーバーグ監督のリメイク版。その映画にはオリジナル版があったんだ」
「ふうん」
「そのアンドレイ・タルコフスキーの映画の世界を、ここに感じるんだ。すごく詩的な映像を撮る監督でね。寂しさや、孤独、廃墟、水。そんなものが描かれているんだ」
「ふうん」
「何かさ、落ち着くんだよ。ここに来ると」
「寂しさが、落ち着くの?」
「うん」
「なんとなく、わかる」
 貴美子はうなづいた。

「ねえ、僕のアパートに来てみないか?」
 僕はふと、貴美子のことをアパートに誘ってみた。
「僕のことをもっと知って欲しいんだ」
 と僕は続けた。
「まだそういう関係じゃないと思うけど」
 貴美子は戸惑っていた。
「そういう意味じゃないんだ。僕の現実を、見て欲しいんだ」

 僕はプジョー205に乗り、貴美子は赤いポルシェに乗って、僕の後をついてきた。
 貴美子の車は近くの駐車場に止めて、そこからは僕の車でアパートへと向かった。

 僕は貴美子をアパートの部屋へと招く。貴美子はこれといって緊張した様子も無く、部屋のクッションの上に座った。
 どうだい、これが貧乏生活っていうものだよ、君の知らない。と僕は心の中でつぶやいた。

 僕はコーヒーをいれる。
 コーヒーミルでコーヒー豆を挽き、ドリッパーにお湯を注いでドリップする。
 コーヒーだけはこうやって入れる。ささやかな僕のぜいたくだ。

 貴美子は僕の部屋の様子を見回す。
「ギター」
 貴美子が言う。
 ギタースタンドにフェンダーのストラト・キャスターが立てかけてある。
「うん」
 僕はうなずく。
「聴かせて」
 と貴美子がせがんだ。

 僕はストラト・キャスターを手にとり、ギター・アンプのスイッチを入れた。そしてベッドの上に座り、ギターを奏でた。
 僕は無意識に指を動かす。ふわっとした感覚が僕を包んだ。
 何だろう? この感じは。
 指が軽い。
 いつもとは違う感覚が、僕を包んだ。
 先週とは明らかに違う。
 いや、これは僕がこの一年、感じることのできなかった感覚だ。

 僕は貴美子を見た。
 貴美子は僕にほほ笑んでいる。

 そうか、僕は恋をしているんだ。
 これは、恋をしている感覚だ。
 こんな気持ち、僕はずっと感じることがなかった。

 僕を縛り付けていた心の呪縛から、僕の心は解き放たれたかのようだった。
 でもどうして?
 僕が恋をするわけがない。
 
 僕は混乱した。
 これは錯覚だ。
 きっと錯覚だ。
 僕が恋をするわけがない。

 でも僕は、貴美子の魅力にすっかりと魅了されていた。
 透き通るような貴美子の瞳。
 世の中の汚いものなんて、何一つ見てこなかったかのような澄んだ貴美子の瞳。
 僕の心の中の毒が、溶けてなくなってしまいそうだった。
 貴美子の澄んだ瞳で、僕の心が浄化されてゆくようだった。

 気がつくと、僕は貴美子にキスをしていた。
 僕は、貴美子を抱きしめていた。

「痛い」
 と貴美子が言った。

 僕は、ギターを抱えたまま、貴美子を抱きしめていた。
 でも僕は、抱いていたかった。
 僕の愛するギターと、貴美子のことを。

 また、いつもの一週間が始まる。
 僕の日常が、始まる。

 僕はいつものように町工場で機械加工のマシンを操作して、金属の加工を行う。
 みな同じようでいて、ひとつひとつがすこしづつ違っている。みんな同じであれば、人が手作業で作る必要なんてないんだ。オートマチックの機械を使って、大量生産をすればいい。ここではみな同じようでいて、違うものを作るのだ。そう、人はそれぞれが同じようでいて違うように、一つ一つが違ったものなのだ。

 僕は感情のない世界で生きていた。
 淡々と、淡々と、物事は進んでいた。
 何の意味もない。
 何の意味もなく、世界は動いていた。

 僕の心の中には、なんだかもやもやとしたものがずっと存在していた。
 それはまるで自分のようで自分では無い、なんともしっくりとこない感情だった。
 今までと何も変わりのない生活が、まったく違ったもののように感じられる瞬間があった。

 僕は変化している。
 僕は変化している。
 僕の変化に、僕は自分でもついてゆけていない。

 僕は何だ?
 僕は生きているのか?
 僕はまるで、何かに取り憑かれてしまったかのようだった。
 現実が現実には思えず、僕の心は体の中には無かった。

 仕事が終わり、アパートの部屋に戻る。
 簡単な食事をして、ギターを握ると、それはまた襲ってきた。
 僕はまるで意識を失ってしまったかのようにギターの音色に陶酔した。
 僕はトリップしていた。

 次から次へと新しいメロディが頭の中に浮かび、僕の指はそれを再現した。
 僕はギターを抱き、快楽の中にいた。

 僕は美しいメロディを奏でていた。
 美しいメロディに包まれていた。
 僕はギターを抱きしめているような気持ちで、ギターを弾いた。
 僕は貴美子を抱きしめているような気持ちで、ギターを弾いた。

 僕は愛に包まれている。
 僕は愛に包まれている。

 僕のその一週間は、とても奇妙なものだった。
 僕は僕ではない僕で、町工場で働き、アパートでギターを弾いていた。

 ストレンジ・デイズ。

 ふわふわとした気分の内に、週末になり、僕はライブハウス「マリブ」のステージに立っていた。
 僕の目の前には今までと違う光景が広がっていた。
 同じものを見ているはずなのに、僕にはそれがまったく違うものに見えていた。

 そしてバンド「45RPM」の演奏が始まった途端に、僕は完全にトリップした。
 僕は楽園の中にいた。
 僕は一瞬にして楽園の中にとびこんでいた。

 晴れ渡る空、青い海、僕は駆け抜ける。
 風の中を走り抜ける。

 僕の指は魔法をかけられたかのようにメロディーを奏でた。
 僕の体の中から、とてつもないエネルギーが湧きだしていた。
 僕はがむしゃらにギターを弾いていた。

 バンドのメンバーは僕の演奏に合わてくれていた。
 そもそも僕らのバンドのスタイルはこうなのだ。
 勇次がキーボードで弾きまくる演奏に、僕らは完全に合わせてゆく。
 僕らはバックバンドのようなものだったのだ。
 僕らはあの頃の感覚を取り戻している。
 僕らはあの頃の感覚を取り戻している。

 何が何だかわからないうちに、ステージは終了していた。
 気が付くとライブハウスの客がみな、僕らに向かって拍手をしていた。
 誰に対して拍手をしているのだろう、と僕はまるで他人事だった。

 だけどこれは僕たちに対する拍手だ。
 そうだ、みなが僕らの演奏に拍手をしているのだ。
 僕にはその光景が、現実とは思えなかった。
 あいつがいないのに。
 あいつがいないのに。
 あいつがいない僕らのバンドの演奏なんて、誰も聴きやしなかったのに。

 僕は夜の街を歩きながら、勇次の事を考えていた。
 あいつの事が、頭から離れない。

 一年前、「45RPM」はキーボード中心のフュージョン・バンドだった。誰も彼の才能についてゆけず、ただ、勇次の後ろで演奏する僕たちは、バックバンドのようなものだった。
 アマチュアだったけれど、勇次の才能のお陰でファンも出来た。佐和子もその中の一人だった。最も彼女の興味はその内に僕のほうへと移っていってしまったのだが。
 そんな時にプロとしてデビューをする話が持ち上がった。そう言えば勇次はあまり乗り気では無かった。あれ程の才能があって、どうして迷うのか、その頃の僕らには理解ができなかった。

「僕は演奏が楽しめれば、それでいいんだ」
 と勇次は言っていた。
 そんなわけない。みなに認められてこそ、自分の価値が証明できるのだ。それこそが、僕らの求めているものなんじゃないのか。
 勇次を除いたメンバー全員が大乗り気で、つかの間の夢に舞い上がった。
 僕らは金持ちになれる。僕らには贅沢三昧の生活が待っている。僕らは何もかもを手に入れることができるのだ。
 そして、レコーディングの最初の日、あいつはレコーディングに来なかった。

 勇次はビルから転落し、死亡していた。
 状況から言って、それは自殺にしか思えなかった。
 だけども遺書は見つからなかった。

「僕は空を飛べるんだ」
 と勇次が僕に言ったことがある。
「僕には羽があって、空を飛べるんだよ。僕は自由だ。鳥のように」
 と勇次は空を見上げながら僕にそう言った。

 僕は勇次が空を飛んだんだと思った。
 きっと勇次は、自由になりたかったんだ。
 だけど、何から彼は逃れたかったというのだろうか。

 僕は貴美子に誘われて、伊豆のシークレット・ビーチに行くことになった。
 大学が休みになったから、僕と海に行きたいというのだ。
 別荘にシークレット・ビーチ。僕にはとうてい縁が無い夢のような世界だ。
 僕は町工場の休みを取って、バカンスと決め込んだ。
 
 貴美子が赤いポルシェに乗って、僕を迎えに来た。僕は小さなバッグと、ギター、小型のギターアンプを車のトランクに積んだ。
 何はなくても、僕の愛するギターはかかせない。僕はいつだってギターと旅をする。

「運転してくれるんでしょう?」
 と言って貴美子は僕にドライバーズ・シートのドアを開けた。
「もちろん」
 と僕は答えた。
「また、村上春樹のまねしてる」
 と言って貴美子が笑った。
 僕は「また君に恋してる」と心の中でつぶやいた。僕は空想の中で貴美子にほほをつねられる。

 ポルシェを運転して、僕らは伊豆へと向かう。
 僕はもう現実なんて忘れていた。僕はもう、何もかもを手に入れてしまったかのような気分だった。
 僕はバンドで成功して、富と名声を手に入れて、大金持ちになったのだ。そんな錯覚の中に僕はいた。
 夢でいいんだ。だけど、この夢は覚めないで欲しい。

 夏の青空がどこまでも続いていて、空には真っ白な雲がいくつも浮かんでいる。僕は夏の風の中に吸い込まれるかのように、ポルシェを走らせた。僕は夏の匂いを感じている。
 海岸沿いの通りに出ると、潮の香りが漂ってきた。青い海が視界に広がり、僕らは楽園に向かっている。
 しばらくすると貴美子の別荘が見えてきた。それは木造のロッジ風で、とてもスタイリッシュな建物であった。

 別荘に着き、僕らは車から荷物を下ろし、一息をついた。
「お疲れ様」
 と言って貴美子がテーブルの上にクリームソーダを置いた。
 グラスに青い液体が満たされ、アイスクリームが上に乗っている。

「ブルーハワイみたいでしょう?」
 と貴美子が言った。
「うん、エルビス・プレスリーだ」
 そう言って僕は、エルビス・プレスリーの「ブルーハワイ」を歌った。
 エルビスの低くて甘い声を僕は模倣する。
 クリームソーダの青が、空の色、海の色、に交じって、夏を感じていた。

 貴美子の友達がクルーザーを持っているから、それでクルージングをすることになっていた。
 僕らはクルーザーがあるマリーナまで車で出かけた。

 マリーナでは男が待っていた。
 僕と貴美子はその男のクルーザーで海に出た。

 貴美子はクルーザーの後尾でスクリューが巻き起こす波を一人で見ていた。
 男はコックピットで運転をしていて、僕は隣でそれを見ていた。

「君の眼はギラギラとしていて、まるで人殺しでもしてしまいそうに見える。貴美子はそんな君の危険な香りに魅力を感じたんだと思う」
 と男は僕に言った。

 僕はいつか観た映画「太陽がいっぱい」を思い出していた。
 映画の中でアラン・ドロンは金持ちの友人を殺し、その男になりすますのだ。
 僕はそんな主人公になってしまうことを想像した。僕は目の前の男を殺し、彼に入れ替わり、大金持ちになるのだ。僕は彼のサインをトレースし、彼のサインをマスターし、彼のクレジットカードを使って豪遊する。

「クルージングって楽しい!」
 と海を眺めていた貴美子が僕らに聞こえるように大声で言った。

「クルージングが楽しいんじゃなくて、好きな人といられることが楽しいんだよ。彼女のことを何度もクルージングに誘ったけれど、誘いにのったのはこれが初めてだ」
 男は遠くを眺めながら、そうつぶやいた。僕は黙って男の顔を見ていた。
「僕も、楽しいよ!」
 と男は叫んだ。

 男は親切だった。僕らのためにランチを用意してくれていた。いや、それは貴美子のためだ。
 男がいとおしそうに貴美子を見る目。その目はとうてい人を殺しそうには見えなかった。
 そう、この男の目も透き通っていた。きっとこの男も世の中の汚いもなんて、何も見ていないのだろう。
 不安も、怒りも、孤独も、ネガティブなものは何もない。
 欲しいものは何でも手に入るのだろう。
 だけども目の前にある欲しいものだけは、手に入らないのだ。

 ずいぶんと沖の方まで行き、マリーナに戻ってきたときには夕方になっていた。
 クルーザーをマリーナに預け、僕らはマリーナのレストランで一緒に食事をした。
 夕暮れのサンセット・ビーチを眺めながら、僕らは古くからの友人のようにディナーを楽しんだ。

 僕らは別荘にもどって、くつろいだ。
 バルコニーのデッキチェアに腰掛けて、夜の海を眺めていた。
 波の音と風の音だけ。
 僕らは夏の夜を自然のままに、のんびりと過ごした。

 別荘には温泉がひかれていて、僕らは交代で温泉に入った。
 今日は少しばかり疲れた。
 僕たちは別々のベッドで眠った。
 僕らの間には、まだ距離があった。
 

 朝起きると、キッチンからいい香りが漂っていた。
 僕がダイニング・キッチンに行くと、貴美子が料理を作っていた。

「フレンチトーストを作っているの。コーヒーはあなたが入れてくれる?」
 貴美子が僕にそう言った。
「オッケイ」
 と僕は言うと、僕はコーヒー豆をコーヒーミルで挽いた。
 このキッチンにはドリッパーがあったから、僕はいつものようにコーヒーをドリップした。

 僕らはバルコニーに移動して、朝食を食べた。
「何か、うれしい」
 と貴美子が言った。
「モーニング・コーヒーをあなたと飲めるなんて、このうえもない喜びなのです」
 と貴美子は続けた。
 それは一夜をともに過ごしたときに使う言葉ではないのか、と僕は疑問に思った。
 まあいいさ。こんなモーニング・コーヒーも、悪くない。
「僕もうれしいよ」
 と僕は答えた。

 僕と貴美子はビーチに出かけた。
 別荘の前に広がるビーチは、貴美子の言ったとおり誰もいない静かなシークレット・ビーチだった。

 僕にとっての海のイメージは、たくさんの人でごったがえしていて、浜辺にはぎっしりとレジャーシートやパラソルが並んでいて、海にもたくさんの人がいて、浮き輪やビーチボールがたくさんあって、浜辺でビーチバレーをしているグループがいたり、ナンパをしている男がいたり、ナンパを待っている女がいたり、海の家でやきそばやカレーを食べて、かき氷もいいねえなんて言いながら過ごす、そういうものだった。庶民的で、それが僕にとっての夏の日であり、レジャーであるのだ。
 このビーチには誰もいない。二人だけだ。
 僕は南の島にバカンスにでも来ているような気分になった。
 ここがほんとうに日本なのか、と僕は信じられない気持ちだった。

 浜辺にサマー・ベッドとビーチ・パラソルを設置した。僕は黒いスイムパンツを着ていて、貴美子は黄色いビキニだ。
 僕らはサマー・ベッドに寝転んで海を眺める。
「気持ちいいね」
 と貴美子が言った。
「うん、気持ちがいい」
 と僕は答えた。

 ビーチにはほんとうに僕と貴美子の二人しかいない。
 目の前には海があって、隣には貴美子がいる。
 僕たちはこの太陽と海を、二人だけで独占している。
 僕は貴美子を、独り占めしている。
 ぎらぎらと照り付ける太陽の下で、僕らは完全に自由だった。

「この空のかなたに飛んで行ってしまいたい」
 と貴美子がつぶやいた。
「君がダイヤモンドを持って、空を飛んでいる」
 と僕は言った。
「私はルーシー?」
「そう。君はルーシー。ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」
 僕はビートルズが好きだ。

 僕たちは波に向かって走った。
 足元で海水が跳ねた。
 ざぶんと海に飛び込み、青い海と青い空に向かって泳ぐ。
 貴美子はとてもきれいなフォームで泳いでゆく。僕はそんな貴美子の隣を泳ぐ。
 僕たちは広い海の真っただ中まで泳いだ。
 僕たちは自由の中にいた。

 ひとしきり海を楽しんだ後、僕らは浜辺に戻った。
 ビーチ・パラソルの中に逃げ込み、僕らは潮風を浴びた。
 アップルタイザーを飲んで、くつろぐ。
 夏の時間はゆっくりと流れてゆく。
 僕らは恋する気持ちで満たされていた。

「カメラを持ってきたの」
 と言って貴美子がバッグからカメラを取り出した。
「フィルム・カメラ?」
 と僕は訊ねた。
 貴美子が取り出したカメラは、モニター画面がついていない一眼レフのカメラだった。
「そうよ。誕生日に父からもらったの」
 と貴美子は自慢した。
 そういえば僕は、貴美子に誕生日プレゼントをあげていなかった。
 どうせ僕には気の利いたプレゼントを用意することなんてできるはずがないのだし、なんだか照れくさいし、僕はそのことを考えるのをやめることにした。
「コダックのリバーサル・フィルムだから、すごくいい写真が撮れるの。一緒に撮りましょう」
 そう言って貴美子はサマー・ベッドの前に三脚を立てた。
 僕らはカメラに向かってほほ笑んだ。

 
 ランチには一度別荘に戻って、スパゲッティを茹でた。
 そして午後もビーチで過ごした。

 夕方、天気が怪しくなってきたので僕らは別荘に戻った。
 予感は的中した。すぐに雨が降り出した。スコールだった。
 だけども激しい雨は短時間でやみ、空には再び青空が広がった。
 僕らはバルコニーで海を見ていた。
 空には虹がかかっていた。

「雨が上がったときの空が好き。そこには虹がかかるから」
 と貴美子が言った。
「あなたは何が好き?」
 そう言って貴美子は僕の顔をのぞきこんだ。
「僕は、貴美子のことが好き」
 と僕は言った。
 貴美子は僕のほほをつねった。

 僕らは二人きりのバーベキューを楽しみ、別々に温泉に入り、バルコニーでくつろいだ。
 僕たちはずっと一緒だ。お風呂に入るとき以外、と僕は思う。
 僕は貴美子と一緒に温泉に浸かることを想像する。
 くつろぎの時間、それも貴美子と一緒に過ごしたい。
 ずっと一緒にいたい、いつでも一緒にいたい、と僕は思う。
 そんなことを思いながら、貴美子の顔を見ていた。

「何?」
 と貴美子が僕に訊ねた。
「何でもない」
 と僕は答えた。
「嘘」
 と言って貴美子は食い下がった。
「君とずっと一緒にいられて、僕はうれしい」
 と僕は言った。
「私も」
 と貴美子が答えた。

 僕はふと、ギターが弾きたいと思った。
 僕の頭の中にはずっと、ギターのメロディーが流れていた。
 それは、夏のメロディだ。
 それは、恋のメロディだ。

「ずっと、僕の頭の中で流れているメロディがあるんだ。これは、僕と君のメロデイだ」
 僕はそう言うとギター・ケースからギターを取り出した。
 そしてギターのストラップを肩からかけて、ギター・アンプを右手に持ってバルコニーへと移動した。
 デッキ・チェアに腰掛けてチューニングをする。
 ペグを回すことでギターの弦の音があってゆく。
 波の音をバックに、僕は弦をはじく。
 チューニングが終わり、僕はギターを奏でる。

「ちょっと待って」
 と貴美子が言った。
 貴美子は僕に向かってスマートフォンを構えた。
 そしてOKマークを手で作って僕に合図した。

 僕はギターを弾く。
 僕のギターは甘い夏のメロディを奏でる。
 それは、スローなバラッドだった。
 僕は貴美子に向かってほほ笑む。
 甘いメロディが夏のやさしい風にのって流れてゆく。
 僕はすごくしあわせな気持ちだった。
 いつまでもいつまでもこれが続いて欲しい。
 この夏のメロディ。

 その日の夜、僕たちは一緒のベッドで眠った。
 僕は貴美子の手を握った。
 軽いくちづけをかわした。
 僕たちの距離は、少しづつ縮まっている。

 次の日も、僕たちはビーチに出かけた。
 ずっとこの時間が続けばいい、と僕は思っていた。
 だけどもそれは、長くは続かなかった。

 午後に町工場から電話がかかってきた。
 突然の受注が入って、人手が足りなくなったと言うのだ。
 僕は工場に戻ることにした。
 僕たちのバケーションは、突然に終わった。

 町工場での金属加工作業に明け暮れることで、僕は現実に戻った。
 僕は夢の世界から現実の世界に戻ったのだ。
 だけども夢は冷めきれない状態だ。いつもの作業がうれしくもあり楽しくもあった。

 僕は気分が高揚した状態のまま、週末を迎えた。
 僕はライブ・ハウス「マリブ」に向かった。

 ライブ・ハウス「マリブ」は、いつに無く賑わっていた。
 先週の僕らのライブの評判を聞きつけて、たくさんの観客が集まったとのことだった。
 今までの僕らの演奏は単なるBGMでしかなかったというのに、それを目的として人が集まっているだなんて、僕らにはとても信じられなかった。

 一年前、まだ勇次が生きていた頃は、いつもこんな感じだったことを思い出す。
 勇次がいなくなった今、僕らは生まれ変わった。いや、僕が生まれ変わったのだ。
 僕はまだ、自分ではない自分になじんでいない。
 だけども一旦ライブが始まってしまえば、僕はただ自然にまかせてなすがまま、僕の指が無意識のままにギターを奏でるがままにすればいいだけだ。何も考えなくていい。僕はただ、流れに身を任せるだけなのだ。

 僕は一時間半、トリップして、ライブは終わる。
 僕たちは観客の暖かい拍手を背にして、ステージを降りた。

 ステージから楽屋に戻ると、見覚えのある男が僕らを待ち受けていた。
 それはちょうど一年前、僕らにメジャー・デビューの約束をしたレコード会社ムーンライト・ミュージックのプロデューサーである竹田だった。
 勇次が死んで、僕らのデビューの話はなくなっていた。

「調子がいじゃないか、翔平」
 と竹田は軽い口調で僕に話しかけた。
「何の用です?」
 と僕はそっけなく答えた。
 どの面下げて僕らの前に顔を出せるのだ、と僕は思うのだ。勇次がいなくなった途端に僕らを見限ってあっさりといなくなったくせに。

「つれないんだな。僕が持ってくる話と言ったら、良い話に決まっているじゃないか」
 と竹田はとても機嫌がよさそうに言った。僕のふてくされた態度など、まるでお構いなしだ。
「調子がいいんですね。勇次が死んだらすぐにいなくなってしまったくせに」
 と僕ははっきりと言った。
「それは君の調子が良くなかったからなんじゃないのか? 僕の問題じゃないよ。君の問題だ。僕は期待していたんだぜ、君に。期待を裏切ったのは君の方だ」
 竹田は正論を述べた。
「もう騙されませんよ。僕らは僕らでやってゆきますから」
 と僕は会話を終わらせようとした。
「まあ、そう言うなよ。悪い話じゃない。来月フュージョン・ミュージックのフェスがあるのを知っているだろう?」
「ええ、逗子マリーナのやつですよね」
「それに出てみないか? 今の君たちだったら、絶対にうけるよ」

「フェスに出れるんですか!」
 近くで話を聞いていたバンドのメンバーの亮介が、身を乗り出して歩み寄ってきた。
「出ます、出ます、絶対出ます!」
 と亮介が竹田の手を握った。
 竹田は冷静に僕のことだけを見ていた。
 バンドのメンバーが僕に注目した。

「断るわけないでしょう? 僕は調子がいいんで」
 と僕は言った。

 僕たちはフェスの準備のためにスタジオを借りて練習をすることになった。
 フェスで演奏する曲は二曲だ。
 一曲は既に決まっていた。勇次が作った僕らのバンドの代表曲だ。キーボードがメインの曲だったけれど、こんどは僕のギターをメインで作り直す。
 そしてもう一曲は、僕があの日に貴美子の前で演奏をした新曲にしたいと思った。
 僕はバンドのメンバーのグループ・チャットに、貴美子が撮影したビデオを送った。スタジオに集まる前に、バンドのメンバーに曲のイメージをつかんでもらうためだ。

 次の週末、僕らはスタジオに入った。
 そして僕は新曲を演奏した。
 あの夏の日を思い出して。

 僕は希望で満ちていた。
 バンドは順調で、貴美子との関係も悪くない。
 僕は調子に乗っていた。
 調子に乗りすぎていた。

 町工場での仕事も楽しかった。
 だけどもこうして油まみれになって仕事をするのは、もう終わりになるのだ。
 僕は一年前に失った夢を、再び取り戻すことができるのだ。
 僕の未来は、薔薇色なのだ。

 何もかもが順調に思えた。
 だけども世の中はそれほど甘くなんてない。
 僕はそんなことを思い知らされる。

 アパートのチャイムが鳴り、僕がドアを開けると、そこにはスーツ姿の男が立っていた。
 男は上着の内側に手を入れた。
 刑事か?と僕は一瞬思ったが、それは違っていた。男は名刺を取り出した。

「萩原コンチェルン 代表取締役 萩原朔太郎」
 そう名刺には書いてあった。
 男は僕の部屋の中を覗き込んだ。
「汚いな、外で話そう」
 と男は言った。

 僕のアパートの前にはリムジンが止まっていた。
 運転手が後部座席のドアを開け、僕らはそこから車の中に乗り込んだ。
 車がスタートする。

 男は僕にウィスキーのロックを手渡した。
 僕はそれを受け取ったが、飲みはしなかった。
 男は自分のグラスに口をつけた。

「妹にはもう会わないでくれるかな」
 と男は僕に言った。
「妹にはボディガードをつけている」
 と男は続けた。
 この男は一体何を言ってるのだ、と僕は思った。
「貴美子は、君にはふさわしくない」
 と男は続けた。

 妹、貴美子。
 この男は貴美子の兄だということなのか。

「妹を危険な目に合わせないで欲しい。君は危険すぎる。それに貧乏だ」
 男はそう言った。最後のは余計だろう、と僕は思った。
「君に貴美子はふさわしくない」
 と男は同じことを二度言った。

 男は分厚い封筒を僕の目の前にさし出した。
 どう見てもそれの中身は札束だ。

「考えてみろ。町工場で働くような男とは生きる世界が違うのだよ。今のうちに手を切っておいた方がお互いのためだ。アパートを引き払って、どこかに消えてくれ。そうしないと、君が消えることになる」
 男の目は笑っていなかった。本気の目をしていた。
 たとえ殺されなくても、それを断れば、とんでもないことが起きるだろうことは容易に想像ができた。

 僕は封筒を受け取った。
 車は僕のアパートの前まで戻ってきた。
 僕は車を降りた。

「汚いシャツ来た奴だな」
 男は吐き捨てるようにそう言った。

十一

 僕はアパートを引き払い、町工場の仮眠所にしばらくは泊めてもらうことにした。
 車の中に積めるものだけを詰めて、それ以外は捨てた。
 僕は、逃げた。

 僕は日常に戻ったのだ。
 僕の夏の恋は終わったのだ。
 僕の恋は、幻だったのだ。
 それは、真夏の通り雨だったのだ。

 僕は町工場で働きながら、フェスのことを思った。
 まだ僕はすべてを失ったわけじゃない。僕にはバンドがある。僕にはギターがある。

 
 週末、スタジオで演奏をした。
 どうやら僕の心は、相当にこたえているようだった。
 思うように演奏ができない。
 僕の心の中の大切なものが、失われてしまっている。
 僕の原動力は、貴美子の存在だったのだ。
 僕は大切なものを、失ってしまったのだ。

 僕はこのまま音楽までも失ってしまうのか?
 僕には何も残らないのか?

 練習を終えて、僕はひとり帰途についた。
 スタジオから少し歩いたところで、僕は佐和子に呼び止められた。

「大丈夫ですか?」
 佐和子の言葉に僕は振り向く。
「うん」
 と僕は答えた。
「コーヒーでも飲もうか」
 と僕は言った。
 佐和子はうなづいた。

 僕は公園の自動販売機で缶コーヒーを二本買った。そして近くのベンチに佐和子とふたりで座った。

「アパート、引き払ったんですか?」
 と佐和子が僕に訊ねた。
 僕は「どうして?」と言う表情をして佐和子の顔を見た。佐和子にはそれを言っていないはずだ。
「昨日、アパートに行ったんです。そしたら空き家になっていたから」
 と佐和子は言った。
 僕のアパートに来たのか、と僕は心の中で動揺していた。
「うん、色々あってね、今は町工場の仮眠所にいる」
 と僕は答えた。
「そうなんですか」
 と言って佐和子は寂しそうな表情をした。

「あの曲、良い曲ですよね。グループ・チャットで送られてきたビデオを見て、私、うれしかったんです。だってこの一年、あんなにうれしそうな表情をしている翔平さんの顔、見たことがなかったから」
 と佐和子は言った。
 そうだ。僕は勇次が死んでから、あんなにうれしい気持ちになったことは無かった。友達も、夢も、僕は同時に失ってしまったのだから。
「私には翔平さんを、あれほどの笑顔にすることができなかった。いっくらがんばってもできなかった。そう思ったら、何だか自分が情けなくなっちゃって、何だか哀しくなっちゃって」
 そう言うと、佐和子の目から涙がこぼれた。
「ごめんなさい、私、何で泣くんだろう」
 と佐和子は言った。
 佐和子は必死に涙をこらえようとしていた。
 だけども涙は止まることはなく、どんどんどんどん溢れていった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんさい」
 佐和子はごめんなさいを繰り返し、泣き続けた。
 呪文のように「ごめんなさい」を繰り返した。
 「ごめんなさい」という呪文を唱えれば、まるで涙が止まるとでも思っているかのようだった。
 だけども涙は止まることなく、とめどもなく流れていった。

「君は悪くない」
 僕は佐和子にそう言った。
「知ってる」
 と佐和子はつくり笑顔をして答えた。

 そう、悪いのは僕だ。

十二

 その夜、僕は夢を見た。
 勇次が空を飛んでいた。

「翔平、おまえも一緒に飛ぼう」
 と勇次は僕に言った。
「自由になるんだ。鳥のように。すべてから解放されて、僕らは飛ぶんだ」
 貴美子も空を飛んでいた。
「さあ、ルーシーも飛んでいるぜ。一緒に飛ぼう」
 勇次は僕を誘った。
「悪いけど、僕は飛ばない」
 と僕は答えた。
「おまえは臆病ものだな。自分から逃げているんだ。おまえはルーザーだ。負け犬だ。負け犬は地獄に落ちろ」
 勇次がそう言うと、僕の足元に穴が開いて、僕はその穴の中へと落ちて行った。

 僕はベッドから落ちて、目を覚ました。

十三

 僕が町工場で働いていると、誰かが僕を訪ねてきたとのことだった。
 僕を訪ねるやつなどいるものなのかと疑問を持ちながら行ってみると、そこにはクルーザーの男がいた。

「貴美子が君に会いたがっている」
 と男は僕に言った。
「僕は金を受け取って、終わりにしたんだ」
 と僕は答えた。
「僕は君のことが気に入っていたんだけどな。君は僕らの身の回りにいる奴らと違っている。僕の周りにいる連中はみな欲にまみれてパーティを楽しむような奴らさ。貴美子はそんな世界から抜け出したかったんだ。君がそこから救い出してくれるって信じていたんだ」
 男は僕のことをじっと見ていた。
「僕は臆病者だ。僕は逃げだしたんだ」
 僕は男から視線をそらした。
「残念だよ。君が希望だったのに」
 男はずっと僕を見ている。
「君が貴美子を救いだせばいいじゃないか」
 と僕は答えた。
「僕には無理だよ。同じ穴のムジナだからな」
そう言って男は笑った。

「そういえば、これを渡してくれって頼まれていたんだった」
 男はふと思い出したかのように鞄から封筒を取り出してそう言った。
「封筒を受け取るのは、得意なんだろう?」
 と言って男はその封筒を僕に手渡した。
 中味は何だろうか、と僕は思ったが、僕は何も聞かずにそれを受け取った。

「なあ、僕らは友達だよな。またクルージングをしよう」
 と男が言った。
「それはやめた方がいい。僕はきっと君を殺して、君と入れ替わってしまおうとする」
 僕はそう答えた。
「まあ、それもありだな。君らしいよ」
 男は笑顔を浮かべて、去っていった。
 

十四

「翔平はさあ、何で音楽を続けているんだ?」
 と僕らのバンドでドラムをやっている亮介が僕に訊ねた。
 ライブの前に呼び出されて、僕は亮介と会っている。

「俺は今も別れた彼女のことが忘れられないんだ。ひどい別れ方をしたっていうのに、思い出されることは楽しかったことばかりなんだ。そんな彼女との思い出の中で、俺は演奏をしている。それで幸せなんだ。俺たちには音楽がある。おまえはギターを愛しているんだろう? 俺もドラムを愛している。それでいいんじゃないのか?」
 亮介はそう僕に語った。
「思い出に変わるまでには、時間がかかる」
 と僕は答えた。
「時間なんか、飛び越えてしまえよ。こんなチャンス、もう二度と来ないかもしれないぜ。フェスはまじかに迫っているんだよ。まじかよ、って思えるくらい、もうすぐそこまで来ているんだ」
 そう、亮介の言う通り時間はどんどんと過ぎてゆく。フェスはそこまで近づいている。
「人の気持ちはそう簡単じゃない。僕は勇次の死を一年以上ずっと引きずっている。僕の中でいまだに気持ちの整理がつかない。言葉ではわかっていても、どうにもできない」
 僕は混乱している。
 僕は混沌の中にいる。

「ともかく、フェスのステージには立てよな。どんな状態であっても、それが今のおまえであり、俺たちのバンドだ」
 と亮介は言った。

 僕らは時間になったので、ライブハウス「マリブ」に向かった。
 そして、僕らは演奏をした。
 やはり僕は気分が乗らなかった。
 僕はまた、以前の僕に戻ってしまった。
 僕の心の中には、喪失感しかなかった。

十五

 フェスの前日、僕は勇次が飛び降りたビルの屋上に来ていた。
 僕は空を見上げた。
 あの日、勇次が見たこの空を、今、僕は見ている。

 勇次はどんな気持ちでここに立っていたのだろうか?
 あの日、勇次はレコーディングには行かず、ここに立っていた。
 僕も同じだ。
 未来への扉を開けるのが怖いのだ。
 とてつもなく大きなプレッシャーが降りかかっている。
 勇次のバックで演奏をしているうちは、気楽で良かった。気ままだった。何も考えず、ただ演奏を楽しんでいればよかった。
 だけどもプロとしてバンドをリードしてゆくには、それなりのプレッシャーがかかる。
 きっとそれが怖かったのだと思う。
 僕はやっと、勇次の気持ちがわかったような気がしていた。

「なあ、翔平、一緒に空を飛ぼうぜ」
 勇次がそう言っているような気がした。
「ルーシーもいるよ。さあ、一緒に空を飛ぼう。自由になろう」

 そうだな、勇次。
 僕も空を飛べるかもしれない。
 僕はそう思った。

 風が吹いた。
 新聞紙の切れ端が、風に乗って空に舞った。

 僕はふと、ポケットに入っている封筒の存在を思い出した。
 僕はその封筒をポケットから取り出した。
 それは、クルーザーの男からもらった封筒だった。
 僕はそれを開けてみた。

 そこには写真が入っていた。
 あの夏の日、シークレット・ビーチで貴美子が撮った写真だった。
 写真の中で、僕と貴美子がほほ笑んでいた。
 色鮮やかな天然色だった。
 フィルムの色はこんなにも鮮やかなのか、と僕は思った。
 僕にはそれが、遠い過去の出来事であるかのように思えた。
 フィルムの質感が、デジタルではないやわらかさを持っていた。

 風が吹いて、その写真は飛んで行った。
 僕が飛んだ。
 貴美子が飛んだ。
 僕たちは、空を飛んでいる。
 僕たちは、自由だ。

十六

 たくさんのヤシの木が植えられたパーム・ストリート、近くにはヨットハーバーがある。
 僕は逗子マリーナに来ている。

 フェス会場にはたくさんの観客が集まっていた。
 何組ものフュージョン・バンドがこのフェスで演奏をするが、僕らのバンドは他のバンドに比べると期待をされていない存在だった。
 もちろん勇次がいたころの僕らを知っている人もいるだろうが、勇次がいなくなってから、世間での僕らはもう終わっているバンドなのだ。

 僕らの出番が来る。僕は緊張していた。
 佐和子が僕の手を握った。
「大丈夫」
 佐和子はそう言って、僕にほほ笑んだ。

 僕はまだ、落ち着かなかった。
 僕は体が震えていた。
 がたがたと震えていた。
 あれから僕は、一度もうまく弾けたことがない。
 僕はうまく弾けるのだろうか?

 突然、佐和子が僕に抱き着いた。
 僕の胸の中で、佐和子は顔をあげて僕を見た。
「仲間のハグを、受け止めて。あなたはひとりじゃない」
 佐和子はそう言ってほほえんだ。

 僕らはステージに上がった。ステージから見る光景は、圧巻だった。
 僕が今までに見たことがない、たくさんの観客が僕の目の前にいた。

 僕は佐和子を振り返った。
 佐和子の唇が「大丈夫」と動くのがわかった。
 僕はドラムの亮介に目で合図をした。
 演奏がスタートした。

 演奏が始まると、僕は一気にトリップした。
 ここは別世界だ。
 僕が今までに見たことがない世界だ。
 過去も未来もない。
 ここにはただ、今があるだけだ。
 僕は、ただ今を生きているだけなのだ。
 
 演奏している曲は、勇次が作ったキーボードを中心とした曲だ。
 それを今、僕がギターで弾いている。
 パワフルに、僕はギターを弾きまくる。
 僕は空を飛んでいる。
 いや、僕が飛んでいるのは空じゃない。僕はこの観客の心の中を飛んでいるのだ。

 そうした興奮のうちに曲が終わって、僕は観客席を見渡した。
 大きな声援が飛び交っていた。
 
 僕は何ものでもない。
 僕は僕だ。
 僕は今ここで、生きている。
 僕は今ここで、生きているのだ。
 僕はそうした充実感に、包まれていた。

 僕は呼吸を整えて、次の曲の演奏の準備をする。
 僕の心の中に、あの夏の日がよみがえる。

 僕は観衆の中に、何かを見つけた。
 夏らしいカラフルな洋服を身につけた人々の中に、それを見つけた。
 それは真っ赤な一凛の薔薇の花のように僕には思えた。
 それは、赤いワンピースを着た女の姿だった。

 その薔薇の花は、僕の目の前でどんどんと広がってゆくかのように僕には感じられた。
 僕の妄想の中で、観客席はたちまちたくさんの薔薇の花でいっぱいになった。

 僕には薔薇色の未来がある。
 僕は未来に向かってつき進む。

 僕はあの曲を演奏する。
 夏のあの日の思い出がいっぱいに詰まったあの曲。
 僕の恋があふれる甘いメロディ。

 サマーデイズ、という曲。

おわり。



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