学問における調和と統合性

先日、「科学・技術と社会倫理」をテキストに読書会を行った。この読書会は、「日本の最終講義」を課題本として取り上げる企画のプレ企画としてのものだ。
ここ最近考えているのは、社会の中にある問題は極めて多層的かつ複雑な様相を呈している。その中では、専門化、細分化された学問体系や知識体系ではそれらを本当に捉えることはできないのではないか?ということだ。
例えば、理系や文系という学問の区分けは一般的に行われるものの、そのような区分けは本当に有効なものなのだろうか。むしろ、そのような区分けこそが本質を見えにくくしているとも思えないだろうか。そして、この区分けとはその裏側に文系を低くみ、理系学問をその上に置くような優越、特権意識のようなものがある。
本書において、「トランス・サイエンス」との言葉が出てくるが、これは科学単独では問題に対処できない状態のことを指すという。
その好例として、3.11の原子力発電所事故を取り上げることができる。原子力発電は科学技術によって開発、管理されてきたものであるが、それが社会の中に存在をし、事故を起こしたならばそれはもはや科学技術の問題だけでなくなる。汚染地域の洗浄や都市計画の再考や再開発、人工移動など社会的文脈で捉えるならば原子力から見える地平は大きく変わる。そして、倫理的観点から見れば、半減期が何万年とも言われている物質を用いて発電を行うことは、次世代へも大きなリスクを負わせることになり、それは許されることなのだろうか、との疑問も出てくる。こうしたことに、科学技術はこれまで向き合ってきたのか、あるいは向き合うような思考体系をその内部に築いてきたのか疑問だ。
ここに科学とそのほかの学問、あるいはこれまで殆ど一顧だにされてこなかった倫理というものとの接触、交錯が求められるのではないか。
また興味深い意見として、中絶における水子供養を代表とする宗教的側面、その「おどろおどろしさ」というものについて、そのように扱うからそれは陰なものとして遮蔽をされる、というものが出た。これについても、中絶を個人的体験の悲劇的側面として強調するなら、その「おどろおどろしさ」というものも不自然ではないし、それは当然なこととして受け止められる。だが、社会的文脈からも中絶の問題は考察されうる。10代の中絶は社会的文脈の側面が意識されるのではないだろうか。社会的文脈で捉えるならば、過剰な宗教的取り扱いはむしろ多様な中絶の持つ側面を遮蔽し、個人的な問題としてこれを矮小化してしまうきらいがある。

もう一つの視点として、本当に現代は「多様性のある」ものなのか、という点だ。学問の学際性、多様性とその交錯を問う前に、私たちの時代というものについて振り返ってみるべきではないか?
現代というものは多様性とは言うものの、多極化した時代という方が実際に近く、いわばその「極同士」の断片化した集まりに過ぎないのではないか。そして、このことは「違和感」を表明し辛い社会ともしていないだろうか。
このことについて思い出すのは、アメリカにおける「BLM」や「LGBT」などへの「違和感」の表明し辛さにも共通する。あくまで一つの例に過ぎないが、両者は社会的弱者として長い間抑圧をされ差別をされてきた。そのことに異論はない。多様性の象徴としての両者への理解は「当たり前のこと」として存在をしている。ここでは一連の運動の中にある暴力性などへの「違和」を表明することは憚られる。本当に社会が多様なものであり、寛容であるならば、「違和」といったものも、等しく寛容な反応を持って社会の中に存在をして良いと思う。この違和感は差別意識や排除からくるものではなく、素朴な疑問や反応としての違和感であり、人が異なるバックグラウンドを持つ他者と出会った時に抱く、素朴な驚きと一体になったものだ。
そうした違和感の受容というものがなされているのか、これは微妙なところであると思う。

両立と調和という言葉があるが、本書において目指されるのは学問同士の「調和」かつ「統合的展望」である。学問の中における対立と優越の意識を乗り越え、社会課題あるいは学問そのものが抱える構造的問題に対処することは今後ますます求められてくる。
交響楽はオーケストラの様々な楽器が演奏をするが、それは不協和音にならずシンフォニーとなって心地よい音楽を作っていく。このようなことを、学問においても統合的に作り出していく必要があると思う。

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