語るを「語る」

私は学生の頃から、アンダーグラウンドなもの、障害や精神疾患、同性愛といったものに興味があった。そのうちやがて、私の興味とは障害や精神疾患そのものというよりも、そういったものを通して見える社会の実相というものに一番興味を惹かれているということに気がついた。
社会の規定する人間の在り方は、異常である/普通ではない、とされる現象を通して見ると、むしろグロテスクなものに思えてくることが不思議だった。そうした視点で眺めてみると、疾患や障害、特異な性愛というものは人間の抑圧された生身の声そのものであると私には思えてならない。だからこそ、面白いのだ。
近年では、こうした人間の側面に焦点を当てる動きが様々な領域で出てきている。その中で私が好きなのは、医学面でのパラダイムシフトだ。

「一つの真実から、複数の仮説へ」

これは社会構成主義(social constructivism)と呼ばれる考え方の一つを端的に表したものだ。私はこの分野の第一人者であるガーゲンの著作が大好きだ。これは、その彼の著作の一節である。全てのものは、「今のところ上手くいっている仮説にすぎない」。こうした考えは従来の医学(evidence based)とは対極にあるものだ。むしろ、構成主義とは医学それ自体をも「一つの仮説」という次元で考える。
エビデンスというものは、それを「客観的であり根拠あるもの」であるとする集団の了解のもとではじめて「リアル」に存在することができるものである。こうした考えのもとに、構成主義は立つ。それは同時に、固有の語りというそれまでエビデンスの埒外へと追いやられていたものを同じ土俵に乗せることも可能にした。

「人が行為を決定するのは、世界がどのように存在しているかではなく、どのように見えるかということに基づいている」

そして、この「見える」ということには科学性というよりも、他者性あるいは自己性というものがある。そして、「見える」ことは意識を作り、意識は言葉を作る。そして、言葉とは誰かに向けて語られるものである。そして、この言葉の問題こそ障害や疾患といったものを理解する上で最も重要なものの一つである。より詳しく言えば、言葉のさらに奥にある意識、意思の問題がここにあると私は思う。
ガーゲンは「問題は言葉の中に宿り、その意味が引き出されて来る物語の文脈に固有のものである」と書く。
人の語る言葉は、物語である。特に重要な語りとは、社会が規定外に置く人たちの「語り」である。そうした語りを徹底的に聞こうとすることは、従前の科学的な在り方とは全く異なるものである。
語りとはナラティヴとも表現されるが、ナラティヴの持つ固有性と個人性に私は興味を惹かれる。なぜなら、全き個人性の極みであるナラティヴは、ある瞬間から人間社会に共通する病理の発露として出現するからである。だがナラティヴとは、必ずしも言葉を伴うものとは限らない。
「医療におけるナラティブとエビデンス 対立から調和へ」において、斎藤清二は「ナラティヴとは、ことばの向こう側にある「語り得ないもの」をも含んで成立しており、そうした次元をも含めて語りを交錯させていくことが重要なものである」という。ゆえに、勘違いしてはならないのは、ナラティヴは必ずしも「語られる」ものではない、というパラドキシカルな事実である。
ガーゲンもこの点について、「……クライエントには何か話すべきことがあり、そして、この何かは物語としての整合性を持ち、語られるストーリーの文脈の中でそれ自身の真実を主張しているということである。クライエントのストーリーやその構成要素のもつ意義にセラピストが反応してゆくことは、語られたことのナンセンスさや病理生に反応する従来の治療姿勢と正反対に位置する。……治療的会話とは、セラピストの無知の姿勢と好奇心に刺激されて、ゆっくり進化を遂げてゆく具体的かつ詳細なクライエントのライフ・ストーリーに他ならない」と述べている。斎藤はさらに、エビデンスそのものについて重要な指摘をする。

「エビデンスといえば『客観的なもの』の典型のように感じられるが、元々は、臨床判断という極めて主観的なプロセスに客観的情報を利用するためには、客観的な情報を解釈するという主観的な作業が必要となる。したがって、『エビデンスの質』という概念は、客観性の保証という観点からは、かなりあやしいものなのである」

そして、医学における新たな在り方の一つ「ナラティヴ・ベイスド・メディスン(NBM)」について、斎藤は端的に以下のように書く。

「……NBMを『患者が主観的に体験する物語を全面的に尊重し、医療者と患者との対話を通じて、新しい物語を共同構成していくことを重視する医療』であると考えている。もう少し詳しく表現すると、『病いを、患者の人生という大きな物語の中で展開する一つの物語であるとみなし、患者を物語を語る主体として尊重する一方で、医学的な疾患概念や治療法もあくまでも一つの医療者側の物語と捉え、さらに治療とは両者の物語をすり合わせる中から新たな物語を創り出していくプロセスである、と考えるような医療』ということになる」

ナラティヴとは、個人を出発点とする語りでもあるが、それは同時に関係性あるいは集団の中において発展をしていくものである。ナラティヴは前提として、語られる存在という他者性がなければならない。そのためには、やはりガーゲンの言うような構成主義の在り方がなければそれは固有の物語として受け止められない。従来のエビデンス・ベイスドという次元では、特に精神疾患を患っている人の語りは、そのまま妄言として診断され処理されかねない。
だが、それは妄言と言えるのだろうか?
こうした視点は人間を多面的な存在であるとするならば、やはり必要なものであると思う。だが、ナラティヴとは脆く儚いものである。それは関係性の中で発露されるが、そうであるがゆえの脆弱性を持つ。
先述の斎藤は、「そもそもあなたが、患者の物語を完全に正確に聴き取ることなど、実は不可能なのだ。厳密にいうならば、あなたは、あなたが聴き取っていると思う患者の物語を、自分で創り上げてきたのである。あなたが理解したと思っている物語は、『患者の物語についてのあなたの物語』なのだ。……『物語を聴き取るということはそんなに脆いものなのか』とあなたは思うかもしれない。……対話をするのは、そういうことなのである。物語とは、すでにできあがったものを患者が診察室に運んできて、あなたに手渡すのではない。聴き手であるあなたも患者の物語の共同執筆者なのだ」と書く。
ここに、ナラティヴの持つものの本質が表されていると思う。
ナラティヴとは固有性を持つ個人の語りである。だがそれは必ずしも言葉を伴うものではない。それは言葉がなくとも、関係性の中で暗に表されることもあり、それがナラティヴの持つ象徴的な在り方の一つでもある。そして、ナラティヴは他者との共同的な創作でもある。ナラティヴを全て語り切るということは本人にもできない。その「埋まらないページ」は他者との共同執筆によって、意味と価値を与えられてゆく。
ここに、従来の科学中心主義とは異なる視座が見て取れる。人間の多面的な理解と、その在り方というものは突き詰めれば哲学的宗教的な領域に立ち入らざるを得ない。科学の癒せない人間の領域というものはあると私は思う。そこにどう分け入り、癒していくのか。ナラティヴはその完全に人の痛みを癒すことはできないが、その可能性は大いに持っていると思う。


参考・引用:「医療におけるナラティブとエビデンス 対立から調和へ」斎藤清二

「ナラティヴ・セラピー 社会構成主義の実践」
S.マクナミー K.J.ガーゲン

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