素人性を持つということ
社会の近代化の指標の一つには、家庭内で行われていた諸々の行為がサービス化され、専門化されていることが挙げられる。代表的なのは、子育て、教育、介護であろうと思う。この三者は保育、学校教育、社会福祉の領域でそれぞれ専門家が担い、サービス化されている。
とはいえ、元は家庭内で行われていたものであり、その主たる担い手は女性であった。主たる担い手が女性であることの文脈は他に譲るとして、これらを担う人々に向けられる眼差しについて今回は考えてみたい。
ひと昔前までは教員は「聖職者」と呼ばれていた。保育士や介護士などに向けられる眼差しにも似たようなものがある。それらの眼差しが前提とする人間観や職業観の「人間らしさ」のなさというものに違和感を憶えている。
どんなことをされても怒らず、優しく対象に接することが当然のことのように、社会では扱われている。
無条件に求められる聖人性、善人性とでも言えばよいだろうか?
典型的なのは、例えば福祉現場における介護職から利用者に対する虐待は問題とされるが、利用者から介護職への暴力暴言は「我慢すべきこと」と過小に扱われていることである。高齢であることや障害があることが免罪符のように罷り通ることは、福祉現場ではよくあることで、むしろそういったものを「こなす」ことができなければ一人前でないかのような無言の雰囲気がある。この辺りのことは渡辺琢の「障害者の傷、介助者の痛み」に詳しく書かれている。
障害者が無垢な存在であるかのような喧伝は、某テレビ局の影響も大きいところだが、彼らも当然人間であり、当たり前ながら怒りや妬み嫉みその他諸々の感情を持っている。そして、その矛先は様々な対象へと向かうわけだが、こと介護職へ向けられるものには人間としての本質を見るような思いがするのも度々である。
渡辺の著書には「車椅子で足をわざと轢いてやった」と語る障害者が出てくるが、これらの行為は「ごく当たり前」のこととして、飲み込まれている。飲み込まざるを得ないような空気が両者の間にあると言えばいいだろうか。もう少し詳しく述べるならば、障害者と介護職とのそうした関係性は、障害者自身がこれまで味わってきた関係性の再演のようなものであり、問題の本質は個々の関係性や、介護技術云々という表層的なものではない、と渡辺は書く。これには私もそういった面はあると思うのだが、何か釈然としないものが残るのはなぜだろうかと考えていた。
社会福祉は、それ自体がなにか「善人」「聖人」でなければならないような、宗教に近い感覚が残る領域だと思う。私自身も社会福祉の現場で働いていると、そのような感覚は陰に陽に感じる。
常に笑顔で優しく、理不尽なことにも顔色一つ変えず対処しなければならない。
共感と傾聴はこの業界の合言葉のようなもの(個人的には呪いに近いものだとも思う)だが、やはり人間としてどうにも共感や傾聴できない、したくない出来事というものはある。無理にそれらを押し込めることが、社会福祉の領域で働く人間にとって求められることであり当然であるかのような空気感が私には非常におかしく思え、矛盾しているようにも感じている。むしろ、怒るべき時に怒りを表すことは未熟なレッテルを貼られかねないのである。それは車椅子で足をわざと踏まれた時に、怒りを露わにするというような場合でも、である。
疾患や障害、高齢を理由に言うべきことを控え我慢することを、寄り添いや共感、傾聴といった言葉に擬態をさせていないか、と私はこの国の社会福祉に対して常に疑問を持っている。そして、そのような姿勢は疾患や障害というものに対する差別を再生産することにも繋がりかねない。
「だから障害者って差別されるんだよ」
これは職場の先輩が吐き捨てるように言った言葉だが、私はこの言葉の真意がよく分かる。障害をどのように見るのか、扱うのかは実は極めて難しい問題である。当事者主体、権利擁護、合理的配慮という言葉と、それによって実践される諸々の行為が、ケアする側とされる側の関係性にいかなる影響を与えているのだろうか。これは未だ体系的理解をされ、批判的に考察が十分になされているとはいえない。そして、その最中に専従しているケアワーカーですら、そうした思考には到底辿り着けてはいない。
そこで最近考えているのは、そういったいわゆる専門的な感覚とは真逆の、素人性とでも言うような(よりカッコよく言うなら市民性)所から湧き上がってくる感情は、極力捨てないということだ。
人間であるならば、他者の言動や価値観に共感できないこと、したくないこと、傾聴したくないこと、できないことは絶対にある。それはそれとして受け止め、大切にすること。その行為は相手を拒絶し拒否することではない。むしろ、人としてより深い理解やエンパシーを生むためには必要なプロセスでもあると最近は特に感じている。
これは専門的な文脈においては望ましいことではないかもしれない。だが自らの素人性・市民性を殺さず、温存し、専門職の前に1人の人間として向き合うことは、むしろ「ケア」の本来の意味合いに近いのではないかとも思うのだ。子育てにしろ、介護にしろ、人が人をケアする/されるという行為は、綺麗事では済まない領域がある。ここを覆い隠して、ケアする側・される側への聖人性や善人性を押し付けるような社会のあり方は極めて不健全であると私は思っている。それは一方でケアされる側の弱者性を反比例して強調することにもなり、これを渡辺は「憐れみ福祉観」という言葉で的確に突いている。
素人性・市民性の何が重要なのかと言えば、そこには「人間としての素朴な疑問/気づき」があるからだ。この素朴さ、素人臭さこそが重要であると思う。
自らが感情を持った「人間であることの自覚」はやはりケアを実践するに当たって、極めて重要な要素であると思う。確かに聖人である方が良いし、善人である方が良い。だが、人間というものをより深く見るならば、合理的な存在ではないし、曖昧であり矛盾した時に愚かであり、賢くもある存在である。自分もそうであるし、隣人もまた同じである。これは当たり前のことなのだが、高度に専門職化されて社会の中ではむしろこうした感覚は当然のように抑圧をされている。
今の私の当面の課題とは、こうした抑圧に向き合いながら、「人間であることの自覚」とそこから湧き上がる感情をなるべく殺さずに温存をしていくことである。
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