密なる法網 江戸以前

「なんぞ、法網の密なるや

―史料集成『言論・表現の自由』受難史」(江戸期以前)

=はじめに=

 およそ人間の集団・組織・社会が生まれると、そこにはコミュニケーションを維持するため、構成員の相互の「意思表示」が必要・不可欠となる。即ち「表現(言論)行為」である。これは、人間にとって、極めて自然発生的な営みであり、本能の一つとさえ言える。従って、その行為は「自由」であるはずだし、そうあるべきと言える。

 ところが、集団・組織・社会には必ず「権力構造」が発生する。否、それなくしては、成立し得ない。そして、「支配勢力」とって「自由な表現行為」は権力維持には厄介者になる。そこで、これに縛りをかける、その息の根を止める、という衝動に駆られるようになる。すると、「表現(言論)の自由」が音を上げることになる。

 我々にとって、自分達の歴史は、とりもなおさず「表現(言論)の自由」の受難史そのものと言って過言ではない。そこで、有史以来の様々な形態や内容の「表現(言論)の弾圧」の歴史を残された史料から落穂拾いをしようというのが、本稿の目的である。

 なお。タイトルの「なんぞ、法網の密なるや」は、中国北宋の初代皇帝、趙匡胤(在位960年2月~976年11月、廟号・宋太祖)の言葉。太祖は、軍人の力をそぐことに腐心し、文治主義を確立、歴代皇帝の中でも評価が高い。晩年は読書にふけり、「書経」を読んで嘆いて言ったのが「何<近代>法網密邪」(今の世の中はなんと細かな法律が多いことであろう)であったと言う。「言論・表現の自由」の歴史も、「密なる法網」の産物であったと言える。

本稿はもちろん不完全、不正確は承知の上で、多くのご批判、ご指摘に曝すこととしたものです。

 

=江戸期以前=

702年(大宝2)

2月、「大宝律令」

「落書」登場の歴史は古い。庶民の表現行為、なかんずく諷刺、誹謗、批判の手段としては、最も原初

的なものに思える。従って、抑圧の対象にもされてきた。

「日本人の風刺精神」の紀田順一郎によると、落書禁令の嚆矢は大宝律令で、「匿名の書を投じて人の罪を告げる者は徒二年、書を得たものは焼くべし、官司に送れば杖一百、告げられる者は無罪という制度」が設けられた。

749年(天平勝宝21)

2月21日、「匿名投書」禁止

続日本紀の749年(天平勝宝1)2月21日に、「以朝庭路頭屢々投匿名書、下詔教誡百官大学生徒以禁将来」とある。「朝廷の近くの道のほとりに、たびたび匿名の書を投ずる者があったので、詔を下して百官および大学生徒らを教え戒め、この先このようなことがないように禁じた」のだという。(鈴木秀三郎「本邦新聞の起源」p23)

これが日本の文献で、「落書(らくしょ)」が現れた最初だといわれる。「落書禁令」の第1号とされているが、だとすれば、わが国の「表現」行為に対するご法度のハシリでもある。

810~820年(大同5~弘仁11)

?「小野篁、落書判読事件」

嵯峨天皇(809~823年=大同4~弘仁14)のころ、「無悪善」という天皇に対する「無悪善」と書いた落書が、内裏に立てられた。天皇が当時「文才、天下無双」と称された漢詩人・歌人、小野篁篁に判読を命じたところ、篁が「さが(嵯峨)なくばよからん」の意味だと判読した。藤原氏の閨閥が勢を振るうのを妬んだものの仕業であったと見られたが、天皇は気色を害し、篁に疑いを抱き処罰しようとした。篁が「それでは、学問の道まさに絶ゆるべし」と抗弁したため、天皇は学才を試さんと、ある漢詩の訳を命じたところ、見事に一首の和歌にして詠ったことで、篁への疑いを解いたという。(宮武外骨「筆禍史」成文館、1929・1・15、双川喜文「言論の弾圧」法政大学出版局、1959・11・10)

 

篁には後日談がある。834年(承和1)1月19日、約30年ぶりに遣唐使の派遣が決まり、参議右大弁・藤原常嗣が大使に、弾正少弼・篁が副使に任命された。836年(同3)に出発したが、暴風の為途中で難破して一旦帰国。翌年の再出発に際して、「(遣唐使の乗用船につきて、藤原常嗣と争いたる時)篁忿恚して曰く、朝議定まらず、其言を二三にするやと、遂に病篤しと称して復た船に乗らず、西道謡を作りて遣唐使のことをそしり、多く忌諱を犯す、嵯峨上皇之を見て大いに怒り、其罪を論ぜしむ、仁明帝因って其官職を免じて庶人となし隠岐へ流鼠す」(「筆禍史」宮武外骨)とある。838年(同5)12月15日のことである。配流の途次に詠んだ「タク(言の滴)行吟七十韻」は、文章を知る者で吟唱しないものはなかったと伝えられるが、今は伝わらない。この配流事件は、「筆禍史」の冒頭に出てくるもので、これが「筆禍第一号」かもしれない。

古今集に「隠岐の国へながされけるとき、船に乗り出でたつとて、京なる人のもとにつかわしける」と詞書して、「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟」という歌を残した。840年(同7)2月14日召還された後、陸奥守、東宮学士、蔵人頭などを経て参議(847年)、従3位に至る。清貧にして孝養、友情に厚い反面、けん介不羈で「野狂」とも称され、卓越した詩才や博識、能書は多くの逸話を生んだ。「令義解」の編述に参加。「野相公集」5巻は散逸した。「経国集」「扶桑集」などの漢詩句23首、「本朝文粋」に文章4編所収。「古今和歌集」に6首入集している。「篁物語」(作者不詳、平安中期か鎌倉以降まで諸説あり)に主人公。(小学館「日本歴史大事典」)

のち参議などを歴任。846年(承和12)の法隆寺僧の訴訟事件では、当代の明法博士と対立、自説を押し通して、認められた。「令義解」(833年=天長10=完成)の編纂に関与、公布、養老令の条文解釈のよりどころとされた(自由国民社「読める年表日本史」)。自らも「野相公集」5巻を遺した。

 

小野篁=852年(仁寿2)12月22日没、51歳。平安前期の漢詩人、歌人・小野岑守の子。小野道風の祖父。野相公とも称される。文章生(822年)出身で、大内記、式部少丞、大宰少二を経て、834年(承和元年)遣唐副使になるも、乗船の変更に憤り渡唐を拒否(838年)、詩「西道謡」で風刺したため、嵯峨上皇の勘気に触れ、隠岐に配流。

少年の日、弓馬を事とし、嵯峨天皇が文人岑守の子にしてなお弓馬の士となれるかと嘆じられたのに発憤して学に志す。のち空海と併せて当代の二絶と称せられた。その性硬直にして理非を正し、自ら説を曲げなかったが、友誼に厚く、公俸を友に施して自身は清貧に甘んじたといわれる。一方、文才に長じ、「当時文章、天下無双」と称され、唐人と詩賦を唱和し、唐人がその才に感服したとも伝えられている。

<落書禁制>

・702年(大宝2)、「大宝律令」、落書禁令第1号

「日本人の風刺精神」の紀田順一郎によると、落書禁令の嚆矢は大宝律令(大宝2年=702)で、「匿名の書を投じて人の罪を告げる者は徒二年、書を得たものは焼くべし、官司に送れば杖一百、告げられる者は無罪という制度」が設けられた。

・749年(天平勝宝1)2月21日、匿名投書禁止

続日本紀の天平勝宝1年(749)2月21日に、「以朝庭路頭屢々投匿名書、下詔教誡百官大学生徒以禁将来」とある。「朝廷の近くの道のほとりに、たびたび匿名の書を投ずる者があったので、詔を下して百官および大学生徒らを教え戒め、この先このようなことがないように禁じた」のだという。これが日本の文献で、「落書(らくしょ)」が現れた最初だといわれる。「落書禁令」の第1号とされているが、だとすれば、わが国の「表現」行為に対するご法度のハシリでもある。

・1232年(貞永1)、「貞永式目」

鎌倉時代に入ると、貞永式目に謀書罪科が規定され、これは武家法の基本として戦国時代の地方的支配者にも踏襲された。

・1707年(宝永4)4月、「私娼・雑説・落書・捨文などを禁止」

1707年(宝永4)2月、前年就任した柳沢吉保大老が、ますます盛んになる落書の禁止を5代将軍綱吉に進言。庶民の反感を買った「生類憐み令」の“犬公方”綱吉だったが、「落書は却って当局諸司への訓戒となるから禁止すべきでない」と、これを受け入れなかった。しかし、4月には、「雑説、流言、捨て文其の他の落書等を厳禁する」とのお触れが出された。それほど、落書が抑えられない状態になっていたのだろう。

幕府は1693年(元禄6)、流言調査のため、江戸町人35万3千余人に人別口書を提出させているほどである。

綱吉が死去(1709年1月=宝永6)、政権交代期であった家宣治世は、新井白石の政界進出などで政界の風向きが大きく変転する中、落書・落首が急増して市中にあふれ、「うつつの寝言」「東叡山通夜物語」「日光邯鄲枕」などといった政治批判書本が流行、禁書となった。風刺され批判に曝されたのは、綱吉とその側近たちだった。書本は印刷物と違って、筆者を確かめにくく、法網を逃れやすい。勢い政治批判も極めて露骨であった。

「前代に跋扈せし柳沢吉保等にかかる落書いと多かりしかば、老中等是を禁止せむと公に請う」た。弾圧を進言された家宣は、「其れも一理あるが、上の悪事は下より指しつけて言いにくいものである。落書は思うさまのことを憚りなく言えるもの、善不善ともに下情が上に通じればよい。いうなれば落書には省警の益あり。支配者の理性が曇るわけでもあるまい。捨ておけ」と返答。困った側近は期限を切って落書を”公認“したという。「前任者の徹底的な失墜は、つねに後任者に有利であり、これが江戸全期を通ずる落書”黙認“の支配的動機なのだが、彼らは自分なりの下意上達の細いパイプを維持しようとする倫理的姿勢も見られぬわけではなかった」(「落書というメディア」)

・1736年(元文1)、「江戸城中、落書・雑説などの政治批判禁止」

・1742年(寛保2)、「御定書百箇条」

御定書百箇条で「意恨をもって火を付くべき旨、張札または捨文いたし候者、死罪。同じく火の悪事など偽りの儀をしたため、張札又捨文いたし候者、中追放」となった。謀書は、主として官僚同士の出世妨害手段として利用されたが、所領没収、所領がない者は顔に「火印」を押されるという厳罰。

・1875年(明治8)6月、「讒謗律」「新聞条例」「集会条例」など

これらによる弾圧で、多数の記者や民権運動家が投獄され、新聞雑誌の発禁が頻発した。しかし、「これらの弾圧令が、民権宣伝歌、講談、さては出版物における諷刺の技巧を洗練させる結果となり、換言すれば弾圧によって落書中興が行われた」とも言われる。

「明治期に入って10年、匿名批評は何一つ新しい形式を生み出せなかったし、以後の諷刺ジャーナリズムの隆盛も、つまるところ旧形式の踏襲に過ぎなかった。擬制の言論自由体制の下に乱立した新聞雑誌は、何よりも権威ある正論を掲げることによって読者を啓蒙し、支配者と対決する機関であって、落書保存のメデイアたりえないことは明白だった。民権運動の敗退と士族・豪農民権論者の転向は、これら近代落書の内的生命をも破壊してしまったといえる。彼らが落書に対して加害者から被害者の立場に転じたとき、民衆レベルの純一な正義感から決定的に乖離した。あらゆる諷刺の根底は社会正義感、何らかの倫理体系だ。これらの体系が崩壊すると同時に諷刺の破壊力は失われ、単なる悪戯や自嘲と化していく。諷刺作家がなにをもって正とし、なにを邪とするか、われわれの社会をどうするかという問題に無関心となるとき、その作物は閑人の道楽と選ぶところがない。近代的な諷刺の成立には、市民的自由に発する市民的正義が要請されたに相違ないが、それは強権によってあえなく抹殺されたのである」と、「日本人の諷刺精神」は分析する。

後に取り上げる太平洋戦争期にも、流言飛語の一つとして、落書が横行し、不敬・不穏・反戦などの廉で、多くの「声なき声」の民が摘発された。

 

<落書事件>

・1334年(建武1)8月、「二条河原落書」事件

京都二条河原に掲げられた落書。

「此比都にはやる物、夜討強盗謀綸旨」で始められ、平安末期に流行した今様の物づくし歌によりつつ、七五調を基本にした歌謡の形式を継承し、建武政権下の揺れ動く不穏な世相を冷徹な眼で把握し、鋭く風刺した。都に流行したものの筆頭に、夜討と強盗があげられているのは、京都に民衆にとって、治安の維持が最大の願望であったからだろう。後醍醐天皇の綸旨万能主義を批判し、朝令暮改の政治と恩賞の不公平さを歎き、武家に追従する公家たちを揶揄している。「天下一統しめつらしや」と「都童の口すさみ」に托して、下克上と自由狼藉の世界の到来、建武政権の崩壊とを予告して終っている。作者は建武政権と一定の距離を保ち、政権に批判的な知識人集団であろう。(「日本歴史大事典」)

「新政権の施政の無方針とそれによって混乱した世相をかなり詳しく、巧みな語調でつづったもの。

当時の新政権は、天皇親政とはいっても、公家と武家の寄合世帯で、にわか大名になった武士が得意顔に宮中に出入りしたり、さまざまの成り上がり者が追従をこととして、女官たちに取り入ったりしていた。しかも政治といえば、公家本位の恩賞が第1であったから、それを不満として、所領安堵を求める地方武士たちは続々証拠の文書を持って入京し、右往左往していた。落書はそのような混乱ぶりをかなり的確に捉え、その語調はきわめて冷笑的であり、政権に対する不信が溢れていた。作者は不明であるが、没落貴族か商人のように傍観者的地位にあって、かなり批判的な目を持っていた人であろう。本文は「建武年間記」(「群書類従」所収)に載せられている。(「世界大百科事典」)

・1569年(永禄12)12月4日、「虚空無一左衛門」事件

将軍義昭が織田信長の助力で三好一党を退け、相国寺から二条の新御所に移った夜、南門に「なきあとのしるしの石をとり集め、はかなく見へし御所のていかな」という落書がされた。密告があり、無一左衛門は捕えられ、御所に引き出された。義昭、信長大いに憤り、四条河原で釜煎にせんと宣ふ。しかし、江州の佐々木義秀が「白状もしない、証拠もない、讒言かもしれぬ」と取り成し諌めたため、助命となって、落着した。(「筆禍史」)

・1865年(元治2)1月、「側面幕末史」発禁

ペリー来航後江戸明け渡しまでに起きた種々の事件に関する落書を集録。

ペリー来航、江戸大地震、安政大獄、桜田門事件、佐幕・勤皇攘夷の対立などの混乱期を迎え、江戸、京都で瓦版や落書氾濫した。「側面幕末史」(桜井章)は、ペリー来航後江戸明け渡しまでに起きた種々の事件に関する落書を集録したもの。「茲に又地震後いまだ市中おだやかならざるうち諸方よりさまざまなる一枚摺錦絵少本(時事に関する俗謡の綴本)等凡そ其の数三百二十余りにおよべり。草双紙店又は辻々にて商うものもあり。皆何れも人こぞりてこれを求む。しばらくして公より御禁制の品柄故のこりなく絶板せさしむ。しかはあれど大江戸繁華広大なれば絶板の後もまたあまれるものさまざまなり」(仮名垣魯文「安政見聞誌」付録)と述べ、動乱の中ニュースを伝える瓦版や絵草紙が禁止されながらも出回り続けた様を記している。

 ・1868年(慶応4)4月、「諷歌新聞」発禁

「欧歌新聞」は落書的出版物で、明治新政府による最初の言論弾圧を蒙った。政府は不利な反政府報道を恐れ、この種の時局画は一切厳禁した。第1号で廃刊。

 

<落書>

 匿名の投書・掲示のこと。時の政情や社会風潮を風刺したり、個人についての密告・攻撃などを目的にして作られ、人目につくところに落としておいたり、門や壁に書付け、あるいは貼り付けるなどの方法で、公の場に曝された文書をいう。

「落書」は、匿名による社会・政治・人物・世相批判、しかも風刺的批判である。「言論の自由のなかった時代のアングラ批判の手段として行われた」。「匿名の投書・掲示。時の政情や社会風潮を風刺したり、個人についての密告・攻撃などを目的にして作られ、人目につくところに落としておいたり、門や壁に書付け、あるいは貼り付けるなどの方法で、公の場に曝された文書をいう」。「落書は、われわれの遠い祖先が定型をかたちづくり、その継承者によって近い過去まで保存されてきた文芸的テクニックで、時事風刺、権力罵倒の意図を当意即妙〈寸鉄人を刺す〉エスプリに集約した匿名批評の一種」。「政治に対する風刺的批判、権力者に対する寓意的言行批判を込めた句。古代にあっては、正面切って政治批判や上流階級の批評もできにくかったので、風刺的言説を以って辛うじて、その鬱憤を晴らした」。

その形体などによって、多くの呼称がある。「世界百科大事典」(平凡社)をみると詳しい説明がある。かい摘むと、「上代の『わざうた』は声の『らくがき』である。漢字が伝わって文字で書かれたものが

『落し文』。公然とはいえないことを、名を隠して書いて路傍に落としたり、人の屋敷に投入したり門塀に張ったりした。この匿名の書は政治評論が多く、厳禁された。『落書』の一形体に『略頌(りゃくじゅ、りゃくしょう)』あり、略は大略、頌は美徳を形容し風刺する文章体である。『落書』は室町時代から『らくがき』と重箱読みとなって、音楽の『楽書』と区別された。和歌の発達につれて、狂歌体の『落首』が用いられた。中世の投書による起請文も落書形態であった。江戸時代には、落首が全盛」とある。このほか、「張紙」「張札」「捨て文」などさまざまだ。詩歌の形式を取ったものを落首、脅迫を伴った密告書を意味する落文も落書の一種。

日本での落書の起源は、日本書紀の崇神天皇即位10年(紀元前88)の『四道将軍』の項で詠まれた「童謡(わざうた)」(神為歌=わざうた)だという。中国でも日本でもまず「童謡」が横行した。いわば流行歌謡である。たくらむところのある作者が、子供の口を借りて歌いひろめさせたものと考えられるが、文字の読めない人がほとんどの時代にはもっとも効果的な方法であった。名君は常に巷の童謡に関心をもち反省に心がけるべきだといわれた、という。「落書は、文献に見る限り『平家物語』『十訓抄』(いずれも鎌倉時代)が早い例だが、平安末期から登場したものか、あるいはもっと早くからあったものかは、よくわからない」といわれる。

童謡についで、落首、落書が現れ、中世にはすこぶる多かった。「平治物語」などの戦記文学系の物語にはしばしば見られる。このころの投書による起請文も落書の形態であった。犯罪人検挙の手段として、土地の居住者などに、めいめい想定する犯人の名を匿名で起請文に書いて投票させ、所定票数に達したものを検挙する方法で、『落書起請』『雨落書』などともいわれた。

「平安時代初頭から、貴族たちの間でしばしば政争の具として用いられていたが、中世には文字文化の広がりに対応して、落書の用途も広範な階層に広がり、世情の風刺や支配層に対する揶揄を意図したものが見られるようになった。建武政権期には二条河原落書のような傑作も生まれた。

こうした落書は近世にはさらに盛んとなり、時の為政者や役人を評判したものや、世間の関心を集めた重大事件に対する世評を記したものなどが多く作られた。これらの落書は、それぞれの時代相を民衆の視点から描写したものであり、歴史研究にとり貴重な資料である。

「こうした落書は近世にはさらに盛んとなり、時の為政者や役人を評判したものや、世間の関心を集めた重大事件に対する世評を記したものなどが多く作られた。一方、匿名で他人の罪状を告発する落書は、かなり早い時期から、寺院内部などで用いられていたが、中世に入ると、荘園領主が荘園内の秩序維持にこれを積極的に利用するようになった。住民の自発的な告発を待つほかに、一定範囲内の住民、一律に落書の提出を求めることがしばしば行われた。また、神仏の罰をかけて、偽証のないことを誓わせた落書起請の形をとって、告発を強制した場合もある。こうした落書は次第に制度化され、領民統制の重要な手段としての意味を持つようになった」(「日本歴史大事典」)と言われる。

江戸時代には、落首が全盛で、寛政・天保の改革や黒船来航などに際しては、痛烈な時代風刺を行った落首があり、町人文学の隆盛とともにしきりに作られ、狂歌、川柳に連なる。

「落書は古くからあるものだけれど、徳川時代となり大変盛んになった」といわれ、「江戸時代落書類聚」(矢島隆教、1915年編纂、東京堂出版、1984)は、「抑、落書は古くよりあれど、徳川の時代となりて一層盛んに行われしものなり。畢竟、今日の如く新聞雑誌にて政事のよしあしを批判し、社会の腐敗を罵詈する如き言論の自由を許されざりしかば、人民の不平は訴うる所なく、為に幕吏の任免賞罰、天災地変其他の事件起こるに及び、誰が為るともなく落書を作りて、鬱積せる不平を洩らしたり」と記している。徳川時代は、「言論の自由」が保障されていなかったから、不平のやり場として落書が作られ、量産された。江戸時代は、こうした作品を印刷して配布することは原則禁じられていた。そこで人々は写本によって情報のやり取りする方法を考え出した」と記している。統制が確立された徳川時代においては、言論の排け口として落書が一層流行するに至り、内容は主として政治的批判的となった。

「日本人の風刺精神」紀田順一郎は、「戦国乱世にあっては、“匹夫下郎”の荒々しい諧謔、言論不自由な幕藩体制下においては庶民の鬱積の解放手段であり、維新動乱期には世論の喚起と索引に大きな役割を果たす煽動の技術でもあった。さらに、明治前半期の言論闘争においては、匿名性はやや薄れるが、定型はそのまま引き継がれ、反権力思想の普及に大きな役割を果たした。(略)落書は外国にも例のないことではないが、わが国の場合のように長い間にわたって複雑な発展とげ、独自の効果を発揮しながら、しかも一朝にして滅びてしまったというのは全く類例のないことだといえましょう」

明治新政府による最初の言論弾圧を蒙ったのが、落書的出版物『諷歌新聞』(1864年4月=慶

応4、第1号で廃刊)で、政府は不利な反政府報道を恐れ、この種の時局画は一切厳禁した。讒謗律(1875年6月=明治8)、新聞条例、集会条例などの弾圧により、多数の記者や民権運動家が投獄され、新聞雑誌の発禁が頻発した。しかし、「これらの弾圧令が、民権宣伝歌、講談、さては出版物における諷刺の技巧を洗練させる結果となり、換言すれば弾圧によって落書中興が行われた」とも言われる。

「明治期に入って10年、匿名批評は何一つ新しい形式を生み出せなかったし、以後の諷刺ジャーナリズムの隆盛も、つまるところ旧形式の踏襲に過ぎなかった。擬制の言論自由体制の下に乱立した新聞雑誌は、何よりも権威ある正論を掲げることによって読者を啓蒙し、支配者と対決する機関であって、落書保存のメデイアたりえないことは明白だった。民権運動の敗退と士族・豪農民権論者の転向は、これら近代落書の内的生命をも破壊してしまったといえる。彼らが落書に対して加害者から被害者の立場に転じたとき、民衆レベルの純一な正義感から決定的に乖離した。あらゆる諷刺の根底は社会正義感、何らかの倫理体系だ。これらの体系が崩壊すると同時に諷刺の破壊力は失われ、単なる悪戯や自嘲と化していく。諷刺作家がなにをもって正とし、なにを邪とするか、われわれの社会をどうするかという問題に無関心となるとき、その作物は閑人の道楽と選ぶところがない。近代的な諷刺の成立には、市民的自由に発する市民的正義が要請されたに相違ないが、それは強権によってあえなく抹殺されたのである」と、「日本人の諷刺精神」は分析する。

後に取り上げる太平洋戦争期にも、流言飛語の一つとして、落書が横行し、不敬・不穏・反戦などの廉で、多くの「声なき声」の民が摘発された。

 

<落書類の記録・文献>

時の為政者や役人を評判したものや、世間の関心を集めた重大事件に対する世評を記したものなどが多いため、これらの落書は、それぞれの時代相を民衆の視点から描写したものであり、歴史研究にとって貴重な資料であり、「されば落書の歴史の裏面を観察するに必要のもの」とされている。

落書類の記録、文献は、数多く残っている。その一つ「建武中興記」が伝える「二条河原落書」(1334年=建武1)は有名。落書史のピークは、天保時代(1830~1843年)への前奏曲といえる文政時代(1818~1829年)の落書は、形式・数量とも豊富で、表現も自由闊達。

「天言筆記」(後藤由蔵という人物が、1825年=文政8から1868年=慶応4までの43年間1日も漏らさず世上の風聞を記録)によると、落書類の頻度は、1825年(文政8)~1830年(同13)44、1830年(天保1)~1836年(同7)47、1837年(同8)~1843年(同14)260、1844年(弘化1)~1868年(慶応4)142、計493。先の「江戸時代落書類聚」(矢島隆教)には、1614年(慶長19)から1868年(明治1)まで、大阪冬の陣に始まり幕府瓦解で終わる約320が収集されている。

時の為政者や役人を評判したものや、世間の関心を集めた重大事件に対する世評を記したものなどが多いため、これらの落書は、それぞれの時代相を民衆の視点から描写したものであり、歴史研究にとって貴重な資料であり、「されば落書の歴史の裏面を観察するに必要のもの」とされている。

 

*引用文献*

「続日本紀 全現代語訳」宇治谷孟▽「本邦新聞の起源」鈴木秀三郎▽「日本人の諷刺精神」紀田順一郎▽「江戸時代落書類聚」1915年編纂、矢島隆教。1984年刊、矢野隆明編、鈴木棠三、岡田哲校訂▽「日本歴史大事典」小学館▽「世界百科大事典」平凡社▽「落書というメディアー江戸民衆の怒りとユーモア」吉原健一郎▽「筆禍史」宮武外骨▽「言論の弾圧」双川喜文

 

984年(永観2)

「源信事件」

恵心僧都こと源信が、著「往生要集」で地獄の状態という記述をなし、無稽の変相を描出したとして、圓融天皇の咎めを受けた、とされるが、真否は不明。(「筆禍史」)

往生要集=浄土教の最も重要な著述のひとつとされ、多くの経典などによって、地獄・極楽のありさまを描き、ついで極楽往生を遂げる手段として、念仏を勧めている。のち、中国・宋にも伝えられ、大きな反響があった。

平安中期の天台浄土教の理論書。984年に書き始め、翌年完成、3巻。厭離穢土、欣求浄土、極楽証拠、正修念仏、助念方法、別時念仏、念仏利益、念仏証拠、往生諸行、問答料簡の10問からなり、浄土教の体系的理論化を図っている。有名な地獄の描写は、厭離穢土門の6道を説く中に見える。本書は仏教界だけでなく、文学・美術など一般社会にも大きな影響を与え、商人に託して、宋にまで送られ、天台山にも収められた。

源信=天台宗の学僧。恵心僧都。学才の誉れ高く、名利を嫌って隠棲し、修行・勉学と著述に専念した。

1004年(寛弘1)権少僧都に任じられたが、翌年辞退。その学問は因明・倶舎学から天台教まで幅広く、浄土信仰をもって知られる。源信は1017年(寛仁1)6月10日没、76歳。名利を求めえず叡山の横川に隠棲。(「読める年表日本歴史」)(「日本歴史大事典」)(「日本思想大系 源信」、岩波書店)

1159年(平治1)

12月4日、「藤原通憲(信西)斬首獄門」事件

唐安禄山の事実2巻を後白河天皇に進覧、これが当時の近衛大将たらんとする藤原信頼を安禄山に比した諷奏だとして斬首獄門の刑に処せられた(「筆禍史」)

平治の乱=1159年(平治1)に起きた内乱。保元の乱に勝った後白河天皇は1158年(保元3)に退位して院政をはじめるが,その間に院近臣武士のあいだに権力争いがはげしくなっていた。院権臣の信西(藤原通憲)と藤原信頼とは互いに権勢を競って対抗し,とくに信西が信頼の近衛大将の就任を阻止したことによってその抗争は深刻なものとなった。

藤原通憲=平安後期の宮廷政治家、学者。「保元の乱」に際しては、後白河天皇側の総帥として、乱を勝利に導き、乱後の政治を主導し、論功行賞を行うとともに、崇徳上皇を讃岐に配流、死刑を復活、条項が他の多くの武士を処刑した。新制を発布して、荘園生理、寺社統制、京都市中法整備などを推進、しかし、後白河の寵愛を受けた藤原信頼と対立、平治の乱(平治1年=1159)で、京を脱したが、捕らえられ、斬首。(「日本歴史大事典」)12月13日、自殺説(河出書房新社「日本史年表」)も

1180年(治承4)

5月23日、「木曽大夫房覚明事件」

覚明は俗名を道広といい、勧学院儒学を学び、蔵人などを務めたが、発意あって出家し、最乗房信救と名乗った。最初は比叡山に入り、南都にも行き来していたという。

1180年(治承4)の以仁王の挙兵に際し、以仁王令旨によって南都寺社勢力に決起を促されると、覚明は令旨に対する南都の返書を執筆し、文中で平清盛に対し「清盛は平氏の糟糠、武家の塵芥」」と激しく罵倒して清盛を激怒させた。平氏政権によって身柄の探索を受けた覚明は南都から亡命。「延慶本」等では,漆を身に浴び,癩病人に変装して東国に落ちのびた。その過程で源義仲の右腕となって大夫房覚明と名乗る。その後義仲の上洛に同道し、比叡山との交渉で牒状を執筆するなど参謀として活躍した。「吾妻鏡」によると、1190年(建久1)5月3日、源頼朝北条政子夫妻列席の下、頼朝の同母妹である坊門姫の追善供養を行い、足利義兼を施主とする一切経両界曼荼羅供にも参加している。しかし1195年(建久6)条に、頼朝により箱根神社への蟄居が命じられたことが記録されており、何らかの忌避に触れたものと見られる。

文学的才能に長け、箱根神社の縁起を起草し、「和漢朗詠集私注」を著している。「沙石集」では、その文才と舌鋒の鋭さによって各所で筆禍事件を起こしている様子が記されている。

覚明については謎と伝承に彩られており、その後についても、義仲の遺児にまつわる覚明神社(広島県尾道市向島)の落人伝説や、海野幸長と同一人物とする説、西仏と名乗って親鸞法然に帰依したとの説もあるが、伝承の域を出ない。1241年(仁治2)85歳没とする寺伝もあるが、確証はない。

「平家物語」に覚明著とされる願文などが複数収められている事から、物語成立への関与も指摘されている。

1207年(建永2)

2月27日、「法然上人」流罪

「信教・信仰の自由」を説くまでもなく、宗教の教義への弾圧は、「表現」行為の抹殺である。後記の

日蓮流刑と共に、2大法難。

 

法然上人(釈源空)は、一切の行を捨てて、ただ称名念仏に専念する浄土宗を開宗、弘布。当時、もっとも低劣な行と考えられていた称名念仏を唯一絶対的に往生行と位置づけ、それ以外の一切の善行を無価値であるとした法然の主張は、当時の価値体系を根底から覆すものであった。また「年貢を納めれば極楽往生できる」「領主に背けば地獄に堕ちる」という領主の民衆支配の論理を無意味化するものでもあった。

しかし、後白河法皇や関白九条兼実の帰依を得て、貴顕の帰依と多数の英才も集まり、念仏に帰するものは日に日に増加。この勢いは、南都、北嶺の僧たちの反感とねたみを買った。1198年(建久9)に「選択集」を刊行、世に流伝するや、延暦寺僧徒がこれを見て、自分の宗門を誹謗するのみならず、人心惑乱する異端の書だとして、延暦寺が1204年(元久1)、興福寺が翌年、専修念仏禁止を上奏。 

朝廷は当初、念仏と専修念仏の違いが分からず、法然らに自粛を求めるだけで処罰はしなかった。しかし、この易行の念仏が都鄙道俗に浸透していくにつれて、法然門下にややもすれば戒を破り道を逸脱するものが現れるようになり、正法紊乱、他教軽視、念仏者の素行などの問題が起き、旧仏教側が諸行往生を否定する専修念仏を偏執の教えと指弾、善行を妨げ、念仏義を誤る悪魔の使いと非難、専修念仏停止の叫びは深刻の度を加えて行った。

ところが、1206年(建永1)暮れ、美男・美声で人気を集めていた法然の高弟・安楽と住蓮が京都で開いた念仏会に、後鳥羽上皇の寵愛を受けていた伊賀局など女官数人が無断出家していたことが発覚、伊賀局らが安楽、住蓮と密通したというスキャンダルとなった。この醜聞が、後鳥羽上皇の耳に届いた。

1207年(同2)2月、専修念仏禁止令が出され、法然が土佐へ流罪、大講堂破損、板木没収、焼却。法然の罪科は、僧尼令第五条「凡そ僧尼、寺の院に在るに非ずして、別に道場を立て、衆を聚めて教化し、併せて妄りに罪福を説き、及び長宿を殴ち撃てらば、皆還俗」せしめるという条項に触れるとされたらしい。たしかに上人は東山に道場を建てて、集い来る貴賎男女に教えを説いていた。

親鸞ら弟子4人も死刑や讃岐、越後などに流罪(建永法難)となった。(「筆禍史」)

法然は12月、恩赦で赦免され、1211年(建暦1)11月帰洛を許され、1212年「一枚起請文」を残して80歳で没した。(「日本歴史大事典」

法然=浄土宗の開祖。15歳で比叡山に登り、天台三大部を学び、1172年(承安2)、凡夫でも称名念仏で往生できると確信し、浄土宗を開いた。1186年(文治2)、「大原問答」で広く名を知られるようになり、1190年(建久1)、東大寺の講説で、称名念仏が弥陀に選択された唯一の往生行であるという、選択本願念仏説を初めて披露、「選択本願念仏集」を撰述、選択本願念仏説を体系化し、これを唯一の真の浄土教と主張。しかし、当時、もっとも低劣な行と考えられていた称名念仏を唯一絶対的に往生行と位置づけ、それ以外の一切の善行を無価値であるとした法然の主張は、当時の価値体系を根底から覆すものであった。また「年貢を納めれば極楽往生できる」「領主に背けば地獄に堕ちる」という領主の民衆支配の論理を無意味化するものでもあった。そのため、法然は、治承・寿永の内乱後の社会的激流の渦の中に巻き込まれていくことになる。旧仏教は、諸行往生を否定する専修念仏を偏執の教えと指弾し、善行を妨げ、念仏義を誤る悪魔の使いと非難した。(「法然」田村円澄、吉川弘文館、1959年)

1221年(承久3)

5月15日、「藤原光親事件」

後鳥羽上皇が北條義時を追討しようとした際(「承久の乱」、5月15日討伐の宣旨)、それを諌め、挙兵に反対したが、結局北条義時追討の討伐の院宣の奉者となった。そのため、乱の張本人として幕府(北條側)に捕らえられ、駿州加古阪で斬首された。(「筆禍史」「日本歴史大事典」)

1261年(弘長1)

5月、日蓮、配流

法然の教義を否定した日蓮宗の開祖・日蓮も法難に遭う。南無妙法蓮華経を唱えるとともに、念仏・禅などすべて法華経に帰一すべきを説いた。1257年(正嘉1)から1260年(文応1)にかけて、地震・暴風・洪水・疫病・飢饉が続出し、日蓮は宗教的立場からこの原因を考え、1259年(正元1)に「守護国家論」、翌年に「立正安国論」を執筆。人々が邪法である法然の浄土教に帰依して法華信仰を捨てたことが災害続出の原因であり、浄土教徒の布施禁止と法華信仰への回帰を果たさなければ、経典が説く「自界叛逆難(内乱)」「他国侵逼難(侵略)」が起こると警告。

日蓮は「立正安国論」を執権北条時頼に送り、建白したところ、対立する浄土教徒ら数千人に襲撃され、松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされた(松葉ヶ谷法難)。この時は難を逃れたが、時頼の怒りを買って捕らえられ、鎌倉幕府により、1261年(弘長1)5月、伊豆伊東に配流(伊豆法難)された。1263年(弘長3)赦免。(「筆禍史」)

 

日蓮はこの後にも、度々法難に遭う。

小松原法難(1264年=文永1)=安房国小松原(現在の千葉県鴨川市)で、布教中に念仏信仰者の地頭東条景信に襲われ、左腕と額を負傷、脱出したが、門下の工藤吉隆と鏡忍房日暁が殺された。

龍ノ口法難(1271年=文永8=7月)= 極楽寺良観の祈雨対決の敗北を指摘。9月 良観・念阿弥陀仏等が連名で幕府に日蓮を訴える。 平頼綱により幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕らえられ、腰越龍ノ口刑場(現在の神奈川県藤沢市片瀬龍口寺)にて処刑されかけるが、処刑を免れる。このとき四条金吾がお供をし、刑が執行されたならば自害する覚悟であったと記録されている。

10月 評定の結果佐渡へ流罪。流罪中の3年間に「開目抄」、「観心本尊抄」などを著述。また法華曼荼羅を完成させた。日蓮の教学や人生はこれ以前(佐前)と以後(佐後)で大きく変わることから、日蓮の研究者はこの佐渡流罪を重要な契機としてその人生を二分して考えることが一般的である。

1272年、北条時輔の乱が起こり、自界叛逆難の実現と意識され、1274年(文永11)春に赦免となった。幕府評定所へ呼び出され、頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれるが、日蓮は「よも今年はすごし候はじ」(「撰時抄」)と答え、執権北条時宗に、真言密教重用の不可を進言したが受け入れられず、5月7日には身延一帯の地頭である南部(波木井)実長の招きに応じて波木井郷(身延入)へ配流。身延山を寄進され身延山久遠寺を開山。漂泊の身となり、身延で晩年を過ごす。(「日本歴史大事典」)

 

日蓮=一連の受難の中で、日蓮は、法華信仰弘通(布教)者受難を予言した仏の言葉の体現者としての自覚と、仏の言葉の実証者としての自負とを「法華経の行者日蓮」と表現していく。1268年服属か交戦かを迫るモンゴルの国書が到来、「立正安国論」の「他国侵逼難(侵略)」の現実化が自他共に意識され、信奉者が増大。日蓮と門弟たちの言動も、「是一非諸」(法華経のみを選択し諸経、諸行を否定する)といわれるようにラジカルになって行った。これを幕府は当時の反社会的行動をする「悪党」(「御成敗式目」12条を適用)と判断して、1271年の弾圧(文永8年の法難)を行った。

 

1338年( 暦応1)

「釈円月」事件 (要精査)?

「日本書」という国史を著し、呉の泰伯をもってわが国神となした。朝議其公刊を禁じ、圓月を藤谷に、禁錮した。圓月は曽て入元し、大国の制度学術に眩惑され、所謂恐元病にかかり、支那崇拝の極泰伯説を採り、其朝譴を得るや、罪を糾されんことを恐れ、船で支那へ出んとした。(留守友信著「穪呼弁正」)(「筆禍史」)

 

1434年(永享6)

 5月4日、「世阿弥、佐渡島遠流」

能の大成者として将軍義満の寵愛を受け、世のときめいた世阿弥だが、その晩年は実に不運であった。その一番の原因は、将軍義教に疎んじられたこと。義教は世阿弥の甥音阿弥の華やかな芸風を愛して重用し、世阿弥とその一座(観世座)は上演の機会さえ奪われた。まもなく長男が死去し、観世太夫の地位も、音阿弥にゆずらねばならなかった。

世阿弥最大の不運は佐渡島流罪。義教がなぜこのような処置をとったのか、はっきりしない。推測するに、義教が世阿弥の下にある、芸道上の秘事伝書を音阿弥に譲るよう命令したのを、世阿弥が拒否したためではないかとされている。

世阿弥は5月4日京都を出発、配所の旅の途についた。5月下旬佐渡島到着。72歳の高齢。以後、世阿弥の足跡は不明。通説では、義教死後、罪を許されて、大和の越智に隠棲したといわれる。(「読める年表日本史」)

 

<世阿弥流罪考>

それにしても、いったいかなる罪だったのか。 佐渡流罪は謎のままになっている。世阿弥が京都を発ったのは1434年(永享6)5月4日。若狭街道か、もしくは琵琶湖の船便で越後小浜に行き、ここで船待ちし、五月末に佐渡大田浦に着いている。

大田に一泊した翌日、世阿弥は小佐渡の峠を超え、山越道を下って長谷寺に詣でる。 そして、そこから、満福寺へと落魄の重たい脚を引きずっていったのである。老いた世阿弥は国の守の代官の監視下におかれたのだろう。三カ月して、近くで合戦が起こり、やむなく泉に移る。
 
 室町時代にはさまざまな風流(ふりゅう)が取り入れた芸能が勃興している。当時の田楽、猿楽の芸能集団は寺社の祭礼を求めて、旅から旅の興行を業としていた。 その観世座を率いる世阿弥の父観阿弥が、京都今熊野で『翁』を演じたのは1372年(応安5)のこと。 観阿弥は、大和猿楽の写実を衷心とした能を、風流と歌舞の要素を取り入れていくのが特徴で、これをきっかけに、京都に観阿弥の名が高まり、やがて絢爛の室町文化の高揚と倦怠をあわせもつ足利義満に、観世父子は絶大な評価を得るようになる。才気あふれる年若のめくるめく日々だった。
 12歳の世阿弥は摂政二条良基に初参して、藤若の名を賜る。有力大名を容赦なく切り落し、絶対幕府の統率に邁進する一方で、将軍義満は室町文化の高揚と倦怠に明け暮れていたのだが、この美とデカダンの祭主にはべりつつ、世阿弥は連歌を詠み、蹴鞠に堪能し、祇園会を見物する。紅したたる卑しき少年は、将軍に人目もはばからず寵愛されていったのである。
 これを傍らから見ていた押小路公忠は憤然として、「カクノ如キ散楽ハ乞食ノ所業ナリ」と記す(『後愚味記)。その散楽が声聞師(しょもじ)の配下のおかれた漂白の白拍子や神子(みこ)、鉢叩、歩き横行、猿気など下層の賎民の職とされ、その出自を問われたとて、もはやいったい何であったろう。世阿弥は土俗の闇をかかえた漂白芸能者の新しい劇的構想を練り上げていった。ひとえに観衆の心をとらえ、自分の演技をみがき、幽玄の境地に徹していくことに己のすべてを賭ける。
 それは、西行にはじまる美と幽玄の伝統の滔々たる流れを正等に受け止めるということであった。舞台幽玄を本体とする世阿弥の能は、「何と見るも花やかな為手、これ幽玄なり」(『花伝書』)であらねばならない。いってみれば、それは本来の田楽や猿楽の持つ欲望のダイナミズムに充満した大衆芸能から、能を至高の芸術に纏め上げることである。
 その幽玄無上の美学こそ、絢爛の室町幕府の絶対強化をはかる将軍義満の挑発的な戦略の一環でなくて何であただろう。乱世を生きる芸能者の<花>のよすがとして、宿命的な時代の思想を反映していたのだともいえる。
 1399年(応永6)、京都の一条竹ケ鼻(現上京区滝ケ鼻町)で勧進能が演じられ、連日、管領や四職の武将が桟敷の用意をし、そこで将軍が観世の能を見ている。
 世阿弥三十六歳、絶頂期であった。
 しかし、ここから、世阿弥は下降期に入ったといわれる。近江猿楽の犬王が将軍の道号を賜り、道阿弥を名乗って、評判になってゆくにしたがい、第一戦から退くことになる。つまり、世阿弥は当時の芸能の激しい競争原理から、脱落していったのだ。

まもなく世阿弥のパトロンであった義満が没し、その跡を継いだ将軍義持はもっぱら田楽を贔屓にし、増阿弥の演能にたびたび臨席するというありさまだった。それは、次の将軍義教の時代にいたっても同じことであった。
 恐怖政治を断行した義教は、意に染まぬ公卿、僧侶、武家の首を情け容赦なく刎ね、南朝皇胤の断絶をはかり、また敵対する関東鎌倉の殲滅に大軍を派遣する。世に一揆が起り、土蔵が襲撃され、不作続きで人々が死に、地震や火事で町は荒れた。京の都には流民であふれかえる。加茂川には人々の死屍が幾万と折り重なった。
 悪御所とよばれた義教は、連歌、猿楽、酒宴にふけった。
 将軍第では、もっぱら世阿弥の甥の音阿弥が重用されるようになっていた。音阿弥はそれに応えて伏見勧進能を催し、満都の喝采を博した。当然、世阿弥の長男である元重は無視されることになる。
 後援者を失った世阿弥は第一人者ではなく、いまや流行遅れの一介の申楽者にすぎない。しかも、不幸が重なる。世阿弥父子は、それまでのすべての権勢から外されていく。
 1429年(永享1)5月。世阿弥父子の仙洞御所演能が禁止となる。あろうことか、音阿弥が醍醐清滝宮楽頭に就任。観世太夫の長男元重は、京都将軍家と対立する南朝吉野方と何かと親しくしていたところからくる幕府の叛意を被っていたともいわれる。
 また、次男の元能が世阿弥の芸談を筆録した「申楽談義」を残して出家。そして、4年後の1432年(永享4)8月、世阿弥自らの芸道のすべてを託した元雅が四十に満たずして、伊勢安濃津で客死したのである。
 これにより、晴れの糺河原勧進猿楽の観世太夫は、音阿弥が就任披露することになる。世阿弥という一世の統率者、演出家としての面目は、もはや、どこにもない。しかも、こうした一連の悲劇は、なぜか、将軍義教時代の6年間に集中して起っている。
 佐渡配流の世阿弥は、ときに72歳。
 なぜ、「罪なくして配所の月を見る事」になったのか。
 諸説があるが、確実な史料はない。ただ、配流中、金春が妻の面倒をみていると同時に、佐渡の世阿弥のもとには何かと送り届けて、その生活はさほど不便でなかったものらしい。
 その頃、京の街は戦乱に荒れ狂っていた。
 うたかたの<花>などにかまっていられない。血の地獄の真っ只中に漂流しながら、すでに世阿弥は遠い過去の人間だったのであろう。佐渡配流については、上流階層をはじめ誰もまったく関心を示していない。
 老残を晒す申楽師の流罪など、何であるというのか。当時の夥しく残された諸記録のいずれにも、その消息の片鱗さえうかがえないのである。
 1441年(嘉吉1)6月、将軍義教が暗殺される。 家臣赤松邸で念願の関東制圧を果たした祝いの席に招かれ、能を見ている最中、刺客に襲われた。世にいう嘉吉の乱である。
 この年、世阿弥は何かの符号のように佐渡流罪を許されている。それは一休禅師のはからいによるものだともいわれるが、帰洛して女婿の金春禅竹のもとに剥落の身を寄せたのか。それとも、ひとり島に残ったまま、81歳の天寿を完うしたともいわれるが定かでない。(「世阿彌流罪考」より)
1436年(永享8)

 5月24日、「僧侶の女猿楽観覧」禁止

 幕府が、京都桂河原での勧進女猿楽、僧の観覧を禁止。女猿楽は、室町時代から江戸初期にかけて、女性を中心とする座によって演じられた猿楽。猿楽の座は男性の役者のみで構成されるのがふつうだったが、京都地方には女性を中心とする座もいくつか存在したらしい。「看聞日記」永享4年(1432年)10月10日の条に見える鳥羽での西国の女猿楽の勧進能は、将軍足利義教の前で能三番を演じ、多くの褒美を貰った。能を舞ったのは女性だったが、囃子や狂言は男性役者が担当しており、女性役者の演技は観世にも劣らぬほどだったという。此以後も女猿楽の活動については、1617年(元和3)まで数度の記録がある。(「日本歴史大事典」)

 

 *引用文献*

 「世界大百科事典」平凡社▽「日本歴史大事典」小学館▽「法然」講談社▽「法然」田村円澄、吉川弘文館▽「日蓮とその門弟」 高木豊、弘文堂


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