Aさんの話し

20220406


 ちょうど10年前に亡くなったAさんの話。

 当時東京の西の方のスナックで働いていて、Aさんは月に1、2回お会いするかな?という常連さんだった。当時50代後半の、上機嫌の時もあれば口数少ない時もある、けれど基本的に優しい、ちょっと気難しい印象の方。他の常連さんと口論になってしまった時もあった。スマートで、みんなに一目置かれていたような気がする。

 あんなにお会いしていたのに、なんのお仕事をされていたのかも知らない。けれど亡くなる1年ほど前、私が写真を志していると知っていたAさんが、明らかに写真で仕事をちょっとでもしている人でないと持っていないような機材をいる?と言ってくださったことがあった。なんであの時いろいろ話さなかったのか、けれど常にお金のなかった私はともかくいただいた。その後ライカという写真をしている人なら誰もが憧れるM4という素晴らしいカメラをなんの流れだったかいちどスナックに持ってきてくれて、触らせてもらい、初めて触るそのカメラの感触を味わって、その感動を伝え、「あげないよ。笑」「いやそらそうでしょ!」的なやりとりをした。そもそも非常に高額だし、思い入れが強い人が多いカメラだと思う。けれどさらにその一ヶ月も経たないうちだったと思うけれど、Aさんがお店にきて、ちょっと飲んだ後だったかすぐだったか覚えてないがちょっと真剣な顔で「もらって。」と例のカメラを差し出して言って、私は嬉しいのと驚きといろいろで泣いた。その時の自分が憎い。


 当時もう20代後半だったのに、何もかもふわふわとしていた。今でも周りに迷惑をかけてばかりだけど、当時は東京で受ける刺激に変に揺さぶられて、何もともなっていなかった。


 いただいたライカで、高知にいる祖母を撮り始めた私は鼻息荒くAさんに報告したら「そんなに力むな!」と笑いながら言った。

 


 亡くなる1、2週間前だったか、ふいに確かまだ明るかった時間にお店にきたAさんは、ドアを開けて席にも座らず、「ミッツの顔見てほっとした」と言って、私はばかみたいに「よかったです~」とヘラヘラして、そのままAさんは飲まずに行ってしまった。それが最後で、聞けばいろんな関わりのあった人たちに、同じように「挨拶」をしていたらしい。そして8月のある日、Aさんと認知症を患っていたAさんのお母様と2人で住んでいたマンションの8階の部屋から、飛んで行った。


 同じく常連さんがパトカーやら救急車でざわつく駅周辺を見て、もしやと聞いて、やはりそうでママに連絡が行って、ママが、Aさんと口論になったこともあった常連Oさんに「Aさん飛び降りた」とメモ書きのようなものを渡すのを、Oさんにいただたたビールを飲みながら接客していた私が見て知った。あまり驚かなかったような気がするし、ママが慌ただしく出て行った後もきっと亡くなってはいないと思っていた。死なないはず。ちょっとずつ、経験したことのない悲しみが身体中に染みてきた。Oさんも泣いていた。Oさんはいろんな常連さんと喧嘩するけど基本優しいおじちゃんで、スナックでの接客に慣れていなくて「一杯いただいてもいいですか?」がなかなか言えず、めっちゃ勇気振り絞って最初に言えた人で、軽く「いいよ」と言ってくれた人だ。


 夜になってやがてママが帰ってきて、亡くなったことを知った。あまり損傷もないきれいな顔で、安置されていたと。それからちょっと覚えていない。しばらく、亡くなった人に対して悼んでも悔やんでも、本当に何一つその人に対してできることはないんだと思わされる日々だった。手を合わせてもお墓参りして献杯して泣いても、もう彼に届くことは一つもなかった。全部生きている自分らが、折り合いをつけるための何かでしかないように思えた。

 

 ちょっと経ってから相変わらずそのお店でいただいたお酒を飲んでいて、ある常連さんが「今でも死ぬことはなかったのにと思うよ」と言って、ほんとそうだと思った。死ぬことはなかったんじゃないですか。10年経って今でも、思うと苦しくて悲しい。遠くの宇宙の彼方でいろんなものから解放されていてほしい。という祈りも自分のためでしかない。もう死んでしまった人にできることはない。

 

 

 

 

 

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