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お父さんのブログから

今は亡きお父さんのブログから甘酸っぱい大人の青春を発見したので勝手に転載。天国で苦い顔をしてるかな。

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小学生になったばかりの頃、米軍基地のクラブでバンドをやっていた親父のライブを見に行った時に初めてエルヴィスを聴いた。その日から音楽が興味の全てを支配した。
ウルトラセブンのモヒカンではなくエディー・コクランやジーン・ヴィンセントのリーゼントに憧れた。
キャンディーズやピンクレディーの煌びやかなドレスではなくスージー・クアトロやジョーン・ジェットの革ジャンにときめいた。
そんな彼らに憧れて自分も音楽を始めた。

高校生ぐらいの頃からだったろうか、授業もそこそこにポマードでリーゼントを固めてライダーズを背負ってオールディーズのクラブに入り浸っては古き良き時代のロックンロールやポップスを奏でるバンドの御機嫌なリズムでツイストを踊った。
数多い趣味の中でも胸を張ってライフスタイルと呼べる一番の趣味だったんだけど説明するのがどうも難しいので人に話した事はほとんどない。
今は歳も取って、リーゼントにする為の髪の毛も滅びゆく熱帯雨林のようにすっかり抜け落ちて、一昨年の骨折以降足が思うように動かなくなってしまいツイストも踊れなくなったけど、関西で暮らしていた時は毎日のように通っていた。
どの街のクラブも演ってる音楽が古いのでお客さんの年齢層が高く、社会の歯車になり切れないまま人生の後半を迎えた叔父さんやご婦人方の社交場になっていて、店で知り合ったどこぞのマダムのお尻をさすりながらチークを踊っているお父さんの奥さんが乗り込んできてジャックダニエルのボトルでシバきまわして大騒ぎとか、ちょっとヤサぐれた感じの雰囲気も好きだった。
そんな人達は若かった俺に様々な生き様を見せて影響を与えてくれた。それが良かったのか悪かったのかは今もわからない。
東京に住み始めてからは当然馴染みの店などあるはずもなくクラブシーンからは長らく遠ざかっていたけど、米軍基地の夜からもう40年以上経つというのにロックンロールの呪縛から今も抜けられないままでいる。
俺が愛した音楽やギターは思いがけずも全て娘が受け継いで俺よりももっと深い愛情を注いでいる。それはすごく嬉しいが俺より遥かにギターも上手くなってしまって少し寂しくなる時もあるけど。


仕事が夕方で終わって、まっすぐ帰るのもつまらないし、あまり訪れる街でもないのでどこかで飯でもと考えていて、ふとこの街にオールディーズクラブがあった事を思い出して探して行ってみた。

多くのクラブがそうであるようにそのクラブも昭和中期のまま時間が止まっていた。
場所柄のせいもあるかとは思うけど、客席には既に他の店で散々飲んで居眠りしにきたようなサラリーマンが何人かウトウトしているだけ。

食事が運ばれてきた頃に場内が暗転してショータイムになった。
ただ食い扶持を稼ぐだけの為に、来る日も来る日も同じレパートリーやたまに入るリクエストを演奏しているのであろうバンドが気だるくチューニングを始めてもお客さんは夢の続き。
華やかさとは程遠い澱んだ雰囲気のせいか、小さく瞬くアンプのインジケーターもどこか淋しげで、命が終わりかけている蛍の灯りのように見える。

やがて、シンガーの女性がステージに上がってきた。
場内が薄明るくなり、オープニングナンバーのイントロがスタートして、彼女が顔を上げた瞬間、驚きで呼吸が一瞬止まってしまいパスタを口に運ぼうとしていたフォークを落としてしまった。
甲高い金属音に吊られてこちらを見た彼女も同じように呼吸が止まった面持ちでマイクを落とした。
スピーカーを通してマイクは鈍い音を立てたけどお客さんは船を漕いだままで、バンドも何ら興味は示さず淡々と演奏を続けた。

彼女に会うのは十数年振りだった。

クラブに通っていた当時は、全国に今よりもっと沢山のクラブが存在し、それぞれのクラブに何人も看板シンガーがいた。
再会したその人もそんな中の一人で、地方都市のクラブで歌っていたシンガーだった。突出して実力が高いという訳ではなかったけど、テクニックに頼らない素直で伸びやかで心地良い歌唱が持ち味のシンガーだった。
彼女の歌を聴きたくてかなり離れた街まで足繁く通った。
遠過ぎて夜の内に帰れないので、ステージが終わった後は、長距離バスの始発までいつもその街の海岸で一緒に過ごしてくれた。
好きな音楽が同じだったり、音楽以外の嗜好も悉く一致していたり、親に苦労させられっばなしな境遇が似ていたりしたせいもあって話は尽きず、水平線が朝焼けで淡い薔薇色に霞む時間まで穏やかで優しい時間を過ごした。
侘しい繁華街のカビ臭い映画館で二人で観たナチュラル・ボーン・キラーズという映画に、主人公のカップルがナイフで切った互いの手の平を重ねて高い橋の上から夕焼けに輝く川に血を流して誓いを立てるとても美しいシーンがあって、俺達もそれに倣って砂浜に落ちていた貝殻の破片で互いに相手の手の平を切って重ね合わせて、傷が染みるのを痩せ我慢しながら流れる血を海に浸して、自分達は幾つ歳を取っても死ぬまでロックンローラーであり続けようなどと青臭い約束をしたのが昨日の事のように思い出されて懐かしかった。
後にも先にも二人の間に甘酸っぱいロマンスは一切無かったけど、とても大切な人だった。
青春という言葉は決してティーンエイジャーの特権ではないという人もいる。それが正しいのかどうかはわからないけど、その意見を敢えて擁護するなら、あの頃あの街で過ごした捨てられるものが何一つ無かった日々は青春そのものだった。

ある日、家庭の事情で故郷へ帰るので、明日が今歌っているクラブでの最後のステージになるから必ず来てくれとメールが来ていた。
だけど行かなかった。
何故行かなかったのか今となっては思い出せない。
アドレスの入った携帯も壊れてしまい彼女とは音信不通になった。


ステージがハネて誰もいなくなった店で久しぶりに彼女と話した。
新聞配達やビルの掃除などで細々と食い繋ぎながら休暇を取っているシンガーや辞めてしまったシンガーの一時的な穴埋めなどで現在も歌っているらしい。

私は三流のプロのままで終わるんだろうね、と彼女は苦味を含んだ寂しい笑顔で俯いたまま呟いた。
家庭の事情というのは病弱のご両親が原因だと当時人づてに聞いていたけれど今も状況は変わっていないのかもしれない。
不遇とは言え本人が三流だと言うんだから、誰がどう思おうが彼女はそれ以上でもそれ以下でもない三流のプロなのだろう。
朝を待っていた浜辺で波に足を浸しながらよく歌ってくれたコニーフランシスのナンバーを今夜も歌ってくれたけど、白髪が混じり始めている髪とは対照的に歌声はほんのわずかも色褪せていなかった。
一流のアマチュアでも三流のプロには勝てない。
喉を酷使し続けた為に、シンガーとしての余命は既に幾許も無い彼女に特に気の利いた言葉もかけられないまま、憂いを纏った横顔に苦笑いを返した。

帰り際に昔一緒に撮った写真を出してきて見せてくれた。
まだそんな物を持っていてくれたのがとても嬉しかったけど、写真を差し出した手の平には松葉のような薄い傷痕が残っていて、そんなに力を入れて切ってしまってたのかという申し訳なさと共に、変わらず歌い続けている彼女とは違い、あらゆる事に妥協ばかりして生きている自分を少し恥じた。

一生好きでいられる音楽に出会えた人生でほんとに良かったなと思える夜だった。
音楽に励まされたり元気をもらったりっていうのが理想論や絵空事ではないんだという事実を静かに噛み締めながら、冷気と湿気を孕んだままで不快なはずのコンクリートの林の中を、春の陽だまりに佇んでいるような気分で駅に向かった。

彼女と過ごした海の匂いだったのか、彼女の髪の香りだったのか、そんな懐かしい香りが地下鉄のエアコンの風に微かに舞っているような気がした。

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