自分はなんか、ちょっと他人と違うと思わされた51の春


あらすじ

首都圏近郊に住む私。51歳。
子供達も大人になり自分達の生活を謳歌し始めて、
少し育児というものからも手が離れ、
これからは少しのんびりしていいのかなと
考え始めて数年。

世間ではリタイヤにはまだ早いよと言われながらも、いやいやそこそこ濃密な私の人生だったから、ちょっとのんびりしたいよ…
なんて言ってて気がついたら、実は私の人生は、
なんか人とは違うようだと気づきました。

家族、仕事、趣味、人間関係
人とはとかく、長く生きればいろいろあるものなのですが、どうも、人と比べてみたら、何かが違う様子。そして戸惑うかと思ったら、そうでもなかった。

不惑の五十歳といわれて久しいですが、
惑うことはあれど、なぜか前向き。
惑うことはあれど、なぜか昔と変わらないその頭。

人と同じように生きたいと思いながらも、
なぜか違う道を歩んできてしまった、
私の51年をちょっと認(したた)めようと、スマホのメモを開き、執筆しはじめます。

誰かの参考になるとは微塵も思いませんが、
こんな51の親父がいてもいいじゃないか、
そんなつもりで、ここに細々と認めます。

フィクションなのかノンフィクションなのかは
お読みになるみなさん次第でご判断ください。

小説家になるつもりも随筆家になろうとも
ましてや文筆家なんて思いもしませんが、

まあでも、結局のところ、
私の文章を読んで
みなさんがいろいろな事を感じてくれたら
良いと思われます。

これも、私の人生なのですから。


第1章「私とコンピュータ」-1 <黎明期>

コンピュータ。

今の私には欠かせない、そして自分の人生を変えた道具。彩った道具。

そして、その道具自体が、この30年間で大きく変わったこと。


アナログから、デジタルへ。

そんな言葉も古く感じるかもしれないけども、

その時代を、私は泳ぐことになるわけです。


<黎明期>


私がコンピュータを手にしたのは18歳の夏。浪人したものの勉強にも身が入らず、就職して、時には隣の県の婆さんとボーリングに勤しんだあの頃。


なんで、コンピュータが欲しかったのかは、いまいち覚えてはいないけど、先輩が国産のパソコンで音楽の楽譜を作ってたり、パソコンのテレビ番組とか、友達とかでパソコンをできる奴がいたりして、「パソコン」なる言葉は覚えていたのです。

多分、きっかけはその辺。


世は1990年頃、日本はバブル全盛。

メディアでは、六本木でハネセン(羽扇子)持ってはしゃぐボディコン・ワンレン(ボディ・コンシャス=体の線の出やすいワンピース系の服、ワンレングス=長さが一定の女性のロングヘア)の女性たちの姿。メッシー、アッシーなんて言葉もあった時代。

お金持ちな先輩たちはこぞってマイカーを買い、なぜかニッサン・シルビアS13型が複数並ぶ光景も目にし、なんかすごい時代でしたねえ。


で、パソコンを近くの家電量販店に買いに行きましたよ。

色々並ぶパソコンの中から、私がときめいたのは、「新商品」と書かれたあるパソコン。


リンゴのマークの入った、ちょっと他と違う佇まい。

ガッチリした灰色のA4サイズの分厚いそのノートブックは、トラックボールが搭載されていて、なんとマウスのように操作が可能。

液晶は白黒の2色でパッシブマトリクス(簡単に言えば、そんな綺麗じゃない、角度によっては見にくい2色の液晶)。

そしてなんとメモリは4MB、ハードディスクは脅威の40MB!(単位に間違いはありません)

…なんて、スペックよりも、そのりんごの会社の「6色リンゴ」のロゴに憧れと未来を感じたんです。


そしてプリンタは、ちょっとした「縁」を感じていた初のH社のインクジェットプリンタ。なんとカラーにも対応、といっても、カラーのカートリッジをカラー印刷時にいちいち交換するというもので、デメリットといえば、黒を出力するのに「黒はすべての色を混ぜ合わせるので、黒っぽくない」という問題。


そんな2つの真新しいガジェットを、就職をしたことをいいことにローンを組んで買った値段は40万。

内訳は、ノートパソコン30万、プリンタ10万。

いやあ、ノートパソコンは、今とさほど変わらないか(特にリンゴマークは)。

プリンタは、高かったんだなあ。


でも、手に入れてみると、まあ、パソコンは嬉しかった。

なんつうか、マニュアルやOSのソフト(フロッピーディスク!で英語版…)などの同梱物の中に、6色リンゴのロゴマークのシールが入っているじゃないですか!

これは嬉しかったなあ。多分、探せば出てくるかもしれない。もったいなくて使えなかったから。


(ちなみに、当時の外車(フォルクスワーゲン・ビートル)やら、ベスパによくそのシールが貼ってあってですね、なんだろうなあって思っていたのが、その時やっと氷解したんですよねえ)


当時の私の給与は、正社員で経理に配属されていて、手取りは10万程度。ボーナスなんて、1桁万円です。

そんな私が一括でパソコンなんか買えるわけもなく。

今思い出すと、まあよくもローンまで組んでと思うし、ローンも通ったと思うけど、そっからがまた大変だったんです。


後に知ることになるけど、実は有名なパソコンにまつわる言葉、格言?というのがありまして、

「パソコンも、ソフトなければ ただの箱」

と、言われていましてね、そうなんです。ソフトがないと、パソコンというのは基本的に何も出来ないんです。


そして、そのソフトがまあまあ高い。1パッケージ2万くらいは最低するんですよ。

すぐ使いたかった私は、そのソフト、一番安かったクラリス・ワークス(今でいう、統合ソフト、オフィスみたいなもの)を書いましたね。

まあ、文字が打てる、表計算ができる、絵が描ける…なんてことだと驚いた記憶があります。たった2色しか表現できないディスプレイで…


でも、実はそのリンゴマークのノートブックには「ハイパーカード」なるソフトが付いていましてね、

それがなかなか優秀でした。

今で言うところの、データベース・オーサリングソフト(たくさんのデータを記録して、見やすく表示するソフト)にはなるんでしょうけど、「ハイパートーク」と言うプログラミング言語で動くんですよ。その「プログラミング」にどハマりしました。簡単でしたしね。

近所にある大きな書店で専門書を買うんですが、それもまた分厚くて、かつ数がまだないし、そして高い。でも、そんなにハマることができたのは、音楽以外では、生涯初めてのものでした。


後に書くとは思いますが、私は中学以降、吹奏楽というものに触れ、そのオタクと化してゆきます。

当時私は、地域の一般吹奏楽団に所属して、その楽譜蔵書データやら音源データをハイパーカードでシコシコ作りながら、プログラミングを覚えたものです。


そう、今思うと、

私のコンピューターの原風景は、その時になるのでしょうね。


その頃から数年で、日本、いや世界はITバブルに踊ることとなります。

外国では、「ドットコム・バブル」と呼ばれましたね。

私も、のちにそのITバブルを身をもって体験することになります。

とはいうものの、パソコンが今に至る自分に欠かせない道具になるとは、その時は知るよしもなかったわけですが。


あれから、約30年。

パソコンの6色リンゴマークは、単色になりました

パソコンを買ったあのお店は、今では100円ショップになりました

私のスマホの容量は、256GBになりました(当時から、6,400倍)。


そして、今でも私の手元には、形は変われども、リンゴマークのパソコンとスマホが大事な道具になっているのです。



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