不毛

反出生主義の理想を実現するためにはまず認知されないと始まらないので、かれらは育児のぼやきなんかに積極的に物申していく。初めて目にした時は、どうしてこんな酷いことが平気で言えるんだとただただ憤慨したものだ。

でもその「どうして?」への興味が強くなっていき、生への否定の価値観はどのような家庭環境のもと育っていったかを想像するようになった。たくさん考えたり人の意見を聞いて価値観への理解は初めより進んだと思う。それでもやっぱり他人の親に噛み付いていく行為を容認できる理由なんて見つからなかった。

反出生主義ではこの世に人が1人も生まれないことを望んでいるのだから、自分1人が子孫を残さなくたって焼け石に水なのだろう。だからどうしても他所の家庭に介入しなければならない。

しかし、価値観の違う他人が自分の思い通りに従うなんてまず有り得ない。
分からせて変えようとするなんて時間の無駄だし、言われた側も無数に傷つけられていくだけ。不毛と言えよう。そんなことに熱心になるより趣味とか美味しいもの食べるとか、楽しいことをしていたらいいのに。

反出生主義の主張がなぜ受け入れられないかについて1つ前の記事でも触れたが、またひとつ気付いたことがあるので記してみる。
今回は主張が受け入れられないことについての考察になるので、そもそも人を生むのが悪だという価値観を一旦置いておいて考えてほしい。

例えばだが、「自分の家が家畜である牛に農作業を助けられたから、牛に感謝し牛を大事にしていて食べない」人がいるとする。
自分が食べない人生を歩んでいるだけならいいが、他人が牛を食べているのも許せなかったらどうだろう。
牛肉美味しい♡と呟いただけなのに「牛を食べるなんて極悪非道!」とつっかかって来られたら迷惑でしかないはずだ。
どれだけ牛の命や役割が尊いか説いても、牛肉を食べるのが当たり前とされて育ってきた人が考えを改めることはまずないだろう。
それだけ、自分と違う環境で育った人間は価値観が違っていて、簡単に覆るものではないのだ。
それから先の生涯牛肉を食べて得られる幸せを、誰かに難癖つけられたくらいで手放してあげる義理はない。
しかも、牛を食べるな!と言ってきた側はそれまでと変わらない人生を送ることができるのに対して、こちらは我慢を強いられる。おまけに悪者扱いで責め立ててくる。そんな主張を押し付けられて折れてあげる人なんて現れる方が奇跡なくらいだ。

動物の命を例えに出すとややこしくなってしまうが、それくらい違う価値観で生きる人間を変えようとするのは難しい事だと理解して頂けただろうか。


他人を変えるより自分を変えた方が楽だとよく言われるが、まさにそれだ。
かといって楽ではない道を行くから偉いとか勘違いしないで頂きたい。

誰かの親を責め立てて回る行為は決して正義なんかではなく、今生きている人を苦しめて回っているだけだ。
それでもいい、親は子に生を強要した時点で罪人だから全ての親は苦しみを負うべき!と思うのなら、それは差別に当たるのでは?どんな家庭か、どんな子育てをしているか、子をどれだけ愛しているかをひとつも知りもせず、親というだけで悪であり攻撃対象だと断定するのは差別に他ならないのではないだろうか。


※念の為補足ですが、「ネット上で他人の親につっかかっていき、通知の行く形で意見する」行為への遠慮をお願いしています。決して言論の自由を奪おうとしているわけではないです。
でも言論の自由という権利を加害の免罪符にするのは許してはいけないと思うんです。
特定の対象に投げかけない範囲で自由な発言をする権利は当然尊重されるべきです。リプライ、引用リツイートではなくご自身のホームで自由気ままに呟いて頂きたいです。

私は反出生主義の考え方が人の救いになることもあると考えます。生きづらさや苦難を自分のせいと思い詰めるより、親のせいと理由づけることによって楽になる人もいるのではないでしょうか。どうか言葉を向ける先をきちんと見極めてください。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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