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本能寺の変 1582 光秀と細川藤孝 2 43 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀と細川藤孝 2 上洛不発 藤孝は、信長に入れ込んだ。 生年も同じ。 波長も合う。 だが、やはり、信長自身の姿勢がそうだったのだろう。 その時までは、・・・・・。 結果、家中に二つ流れが生じた。 すなわち、斯くの如し。 一、越後の上杉。 大覚寺義俊がこれを推した。 謂わば、保守派。 一、尾張の織田。 これには、細川藤孝・和田惟政。 となれば、こちらは革新派となる。 微妙な空気が流れ始めた。 藤孝は、尾張に踏みとどまった。
本能寺の変 1582 光秀と細川藤孝 2 50 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀と細川藤孝 2 上洛不発 信長は、嘲笑の的となった。 斎藤氏にとっては、痛快この上なきこと。 織上、天下の嘲弄、過ぐべからず候、 かくの如きの間、 竜興、 公儀に対し奉り、疎意あらざる段も、 詮無き成り行きに候事、 信長は、再び、美濃を攻めた。 同二十九日。 和睦など、出来ようはずはない。 突如、越境。 美濃に、攻め入った。 一、去月廿九日、織上、当国境目へ出張候、 その時分、以っての外、水迫り候て、河表