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本能寺の変 1582 光秀と信長 2 63 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀と信長 2 美濃立政寺 石高は、優に百万石を超えていた。 この頃は、まだ検地の前。 確かな数字は、わからない。 以下は、「当代記」の拠るものである。 したがって、もう少し後の時代のもの。 しかし、それ程、差はないと思われる。 参考にされたい。 信長の領国 美濃国 五十四万石 尾張国 五十七万石 計 百十一万石 そして、さらに伊勢国(五十六万石)に手を伸ばさんとしていた。 武田信玄・上杉謙信・朝倉義景との比較。 信
本能寺の変 1582 光秀と信長 3 70 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀と信長 3 上洛 摂津は、三好氏の根拠地である。 その本城は、芥川山城(高槻)。 城には、三好長逸(ながゆき)が立て籠もっていた。 長逸は、三好三人衆の頭目。 京兆家の当主細川昭元(19歳)を擁している。 信長は、山崎へ進出した。 狙いは、同城を手に入れること。 三好から、織田へ。 時代は、変わった。 そのことを、広く世に知らしめようとした。 晦日(二十八日の誤り)、山崎御着陣。 先陣は、天神の馬場に陣取る(大阪府高槻市天神町)。