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きみ、こじ開けるコミュニケーションをしているよ。それって最終手段だよね。

彼のような事例はもう見たくない。私ができる限りの再発防止策をしたい。

多分、一人で抱えすぎてしまったのだと思う。掬いきれなかった。
救い切れなかった。もっと話して、もっとこじ開けていればよかった、
もっと一緒に居たかった。今の心はとても痛かった。まだ、全然赦せていない自分の存在に気がついた。赦せているとしても1割くらいだろうか。

私は、どうも待ち受け型のコミュニケーションが苦手で、かつ、相手との距離感を踏み間違えてしまうことが多い。「どうしてこの人はそんなに急に距離を縮めてくるのだろう」と不安に思われるのは致しかない。ので、なるべく言葉に変換したいと思う。

自然と話したいと思って、自発的な意識でコミュニケーションが始まるのが一般的である。話したくないと思ったら、ちょっと今は忙しいので、とか誤魔化すのが普通だと思う。相手の反応をうかがって、ちょっとずつ、ちょっとずつ信頼・信用を積み上げていくのが普通だと思う。いきなり土足で、心の奥底に踏み込まれたら、抵抗感があるのが普通だと思う。なんでこの人にそんな話をしないといけないのだろうか、と不快に思われることだろう。

私のコミュニケーションは、完全に後者の、猪突猛進タイプである。一番、地雷を踏みやすい。ちょっとそれは、、と困った反応をされるのが想定内である。でも、時々、ホームランをかっ飛ばすような、爆発性も生まれたりする。ある種、捨て身にも近い。10人中、9人に無視されても構わない。一人のソウルメイトと出会えたらいいな、と淡い心構えでいる。

表題は、坂爪さんに一昨日言われたことである。ああ、確かに、ととても腑に落ちた気持ちになった。私の行動がラベル付されて、見える化したような感覚があった。

どうしてそんなコミュニケーションの仕方をしているのだろうか、と振り返った。私の20代は基本的に人とのコミュニケーションが苦手で、人を避けるように、典型的な人見知りと言って良いほどであった。

そこから、どうしてこうも、真逆に、オープンに、突撃する方向にチェンジしてしまったのだろうか。

冒頭の痛みと赦しの記事とリンクしている。もっと、相手の内心に踏み込んで、こじ開けていれば、救える命もあったのではないか、と後悔しているからだと思った。踏み込まないで、自然体でいるだけでは、相手のことが分からないこともきっとたくさんあると思った。

誰しも人には言えないことを抱えていると思うけど、困っているなら分け合っていこうよ、本心を見せて欲しいよ、という意味で、こじ開けに行っているような感覚が今ある。

また、こじ開ける、は自分にも矢印が向いていて、今まで自分が表現できていなかった感情や思いに蓋を開けていて、こじ開けた自分をシェアしたい、ある事象があって私はこう思うけど、みんなはどう思うかな、というキャッチボールがしたいのだと思った。

20代の自分はこじ開けないコミュニケーションを徹底してきた、今、その反発性で、こじ開けるコミュニケーションに特化してしまっていることに気がついた。

こじ開けないコミュニケーション、こじ開けるコミュニケーション
そのバランス感覚の中で、いま、ゆらゆらしている。

きっと次の記事に続く。