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カッコ悪いはカッコ良く、カッコつけるとカッコ悪い

 これ本当に不思議なんですよね。カッコ悪いのはカッコ良くて、カッコつけるとカッコ悪い。カッコ悪いのはカッコ良くて、カッコつけるとカッコ悪い。大切なので2回言いました笑

その真意はどこに?

 僕が実際した体験を書きます。GCストーリーでは「内省」とか「自分に向き合う」とか「志」みたいな話が好きです。僕は人事をやっているのですが、実際この辺の話をすることが非常に多い。

 正直、事業は手段であって自分たちが成長していくこと、幸せになるために本気で必要だと思っている事が、世の中一般に言う『きれいごと』だと僕らは思っていて、『きれいごとをしようじゃないか。』という採用スローガンまであります。

 今回のカッコ悪いのはカッコ良くて、カッコつけるとカッコ悪いは、その人の【視点】が関係しているんじゃないかと思います。

視点

どの視点でモノを見ているのか

 自分が何か行動するときを考えて見ましょう。例えば、電車でお年寄りや妊婦さんに席を譲ろうとする時、誰しも「恥ずかしい」とか「断られたらどうしよう」と考えてしまう事があると思います。これは『自分視点』で物事を考えているからです。
 100%その人の立場になって考える事が出来れば(100%は難しいけど)、そんな事微塵も考えずに行動できるはずです。気付くのが遅かろうが『譲る』という行動はその人のためになると思える。しかし、「恥ずかしい」とか「断られたらどうしよう」と思い始めると時間は経っていくし、時間が経つと「今更譲る?」みたいな葛藤が更に出てきてしまうので、更に譲りにくくなってしまう。

 この自分の中の葛藤は置いておいて、客観的に席を譲る人を目の当たりにしたときにどうだろう。例えその人が断られる事になったとして、「ダサ」って思うか?
 僕は素直に、上記葛藤が自分の中に芽生えたり、実際、譲れない時もあるからこそ『かっこいいな』って思うし、人を想い行動することって美しいなって思う。

着飾る

周りから見られる自分を意識しすぎる事

 別に席譲らない事がカッコ悪いというつもりはない(そもそもそんなこと考えなくても座っていてたい時だってある)。でも自分の中でそんな葛藤があるって事を考えた時に、「やったらいいだけなのにできない」という時が有る。
 自分がやりたい事が周りからどう評価されるのか、失敗したら恥ずかしいとか考えてると社会は自分のやりたい事ができない場所になってしまう。

 でも、いやだからこそ、自分がカッコ悪いかもと思う事や泥臭い事、目の前の誰でもできるような事を、愚直に真剣に本気でやっている人は皆カッコ良く見えるのではないか。影響の広さや社会的に地位が有るかなんて関係ない。

カッコ良く生きるとはそういう事だと思う。

最後までお読みいただき有難うございました。

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