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弱さを表現し、向き合う

『「くぐり抜け」の哲学』という本を日々なんとなくめくっています。

通して読んではいるのですが、「くぐり抜け」を考え方のベースにしていきたいと感じながらも、分かったような分からないような、このまま考えているのも悪くないような気持ちでめくっています。

「くぐり抜け」とは、共感や自分の経験を通して対象を理解しようとするのとは違い、自分も対象もいちど解体してより対象に近づき、理解しようとすることなんだろうと、今のところ理解しています。

この本の3章では、男性を中心に動かされてきた社会での様々な現象を、男性性をくぐり抜けることで近づいてみることを試みています。

男性性について、私の仕事でも考えることがあります。

私は仕事柄、個人宅に伺うことが多いです。対応してくださるのはほぼ女性で、30〜40代の方が多いです。

定期的に通うにつれ、男性性が強く現れてくる女性に出会うことがあります。始めの頃は親切丁寧だったのに、徐々に高圧的になり、こちらからの連絡はないがしろ、気に入らなければダメ出しをする、というように変わっていきます。

もちろん、こちらもハッキリした応対はしますが、手に負えない場合は契約解除することもあります。

共感するつもりはないのですが、その女性は他者の男性性に苦しめられていると見受けられます。それなのにご自身もそれを引き継いでしまっているようです。

「お客様」はまだまだ強い立場です。お金を払っているんだからこれくらいいいだろう、という気持ちは良くないことですが理解できます。

「家事は女性の仕事」という固定概念がまだ強いこともあり、男性性に近い性質になるだろうと思います。

男性性と呼ばれていますが、男性でなくても、性別はどうあれ、誰にでも持ちうる性質なんでしょうね。もちろん自分も。

「強いのが正義」という考え方はそろそろおしまいでいいんじゃないでしょうか。「弱いのもあるよ」と表現できて、弱さに向き合えるような世間になればいいと思います。

なにか取り留めのない文章になってしまいましたし、くぐり抜けることから逸れてしまったようですが、ここまでお読みくださりありがとうございました。以下、頭の片隅に置きたいながらも難しい箇所を引用しておきます。

今こそ社会の「男性問題」、つまり「男性性」というセクシュアリティに含まれる問題点に目を向け、そこにメスを入れ、よりよい社会へ向かうためのアイデアを出し合おう、そうした風潮が生まれてもいいと思うが、そう単純に期待することもできない。その理由は、これまで社会が男性を中心に動かされてきたことから、そのこと自体の問題性が可視化されにくかったのと同時に、その問題を取り上げることが、多くの男性たちの自信を失わせる責めや加害のニュアンスを伴い、自分が傷つけられるかのように感じてしまうことがあるのだと思われる。

「くぐり抜け」の哲学 257ページより引用

しかし今後やってくる世界においてカラクリ/ゲームによって傷つけられたものは、その傷から回復するためのカラクリを、誰かをコントロールし、搾取することによってではなく、そのリスクをいつでも警戒しながら、自分で、あるいは他者と対話しつつ粘り強く作り出していく必要がある。その際、私たちがさらに向き合わなければならないのは、そのようなカラクリを作ることができない弱いものたち、あるいは、女性たちの労働やケアを搾取できなくなることを「損失」であるかのように感じてしまう、そうした男性たちの未来についてである。

「くぐり抜け」の哲学 277ページより引用

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