君がいない日々を超えて


熟々男性という生き物は女性によって成長させられるものだなと感心している。それというのも、自分の過去のブログを見返したりしているからなんだけど、ブログもまたノートと同じで別に原稿の締切や連載があるわけでもなく書かずにはいられないという衝動が書かせたもので生きた感情の証拠だなと思った。

例え方は様々ある中で、かなり抽象的ではあるけどきちんと話し合いをした上での失恋というのは痛いからやめて欲しいと言われて傷付けたことを自覚し、胸に刺さる棘のようなものだなと思う。
17歳の僕は今では見知った痛みを未だ知らなかった。

高校二年生の頃、僕には一年ほど付き合ってる彼女がいて高校二年生の文化祭の後に誰でも名前くらいは知ってるであろう川辺に行った。別に目的もないし、ただ何となく僕らの手でそのイベントを終わらせたかっただけだと思う。そこで夕陽が川に差し込む情景を見て彼女は僕に

「もし私達が今後も続くとしたらここは時々本当に大切な時や節目に来ようね。そして、もし別れてしまったとしてもここは他の誰かと来ないでね。まぁ、こんな辺鄙なところ来たがる子は少ないかもしれないけど」
僕はただエモいシチュエーションにエモい言葉を吐いてしまったのかなと冷静に考えていて、その後暫くして彼女とは別れた。

別れ話の時にあなたのどこまでも正しいと信じたものを曲げないところは好きで嫌い、と言われた。そしてそれで傷付き、傷付いてない振りをしていたしあの川辺でいつかこういう衝突の場が来る気がして先に約束しておいたのと告げられた。
その瞬間、その都度伝えてくれれば努力できたよ、と僕は応えたけど、彼女はそこが好きでもあったからと言ったきり何も言おうとしなかった。

きっとそれを経てから僕は相手の心情についてきちんと考える習慣を持つように心がけた。言葉や表情の奥に真意はないか、まるでポーカーで相手のテルを真剣に観察してブラフを読もうとするダニエルネグラヌに倣うように。
以来、言葉を必要十分にしか大切にしなくなり真意を取り巻くものの全てをくまなく観察し余計に傷ついたこともあれば、それで防げた事故もある。そしてそれは大人になると大切な時コミュニケーション能力のひとつだと気付いた。それでも依然として防げない失恋もあるし失敗もある。

女性ときちんと向き合い話すことで関係が悪化したり、自己嫌悪になることもあるけどそれを経てより魅力的な人間に近づけると僕は信じている。それはドラッグでバッドに入った後にきちんとバッドと向き合って克服した時に感じられる成長と近いものなのかなと、とある大麻系YouTuberが言ってたバッドはグッドという言葉を借りて説明しておきたい。

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