スターマインの標本


 ブリティッシュロックが響く室内で、僕は靴を磨いていた。心の安息はこの瞬間にある。僕は三十五歳で二十代の頃は靴は履き潰すものと思って気が向いた時に店に修理に出すだけだったが、昨年友人から靴磨きセットをプレゼントされてからは日課として取り組み、靴への愛着も深まっていた。最中、特にクリームを靴全体に広げる時にいつも色々なことを思い出す。それまで忘れてしまっていたようなことばかり。
 プレイリストがレディオヘッドの「True love waits」に差し掛かり、そのメロディーはいつものように僕を混乱させた。いや、いつも以上に僕は深く、激しく僕を混乱させ揺り動かした。
 僕の手は止まり、少しだけそのまま身を委ねてみることにした。十数年が経ってしまった今でもあの頃の感情は一瞬で蘇ってくる。五月、雨上がりの湿った風とみなとみらいのネオン、彼女のしっかりと甘く、それでいて凛とした雰囲気の香水の匂い。プレイリストは進み、U2の「Where the streets have no name」になっても僕はまだみなとみらいの海と風の中にいた。僕はそのままベッドに寝そべり、目を閉じることにした。
 麻美の葬式の後、僕は彼女について忘れないようになるべく正しく、文字に起こそうとしたが一文も書けなかった。当時の僕は感じたこと以外を書くのはとても難しく、そしてありのままを書くことはそれよりも難しく思い何枚も原稿用紙を破り捨てた。
 記憶は朧げなもので、順序立てて思い出そうと何度も記憶を遡ることを繰り返すうちに、何通りもの記憶が出来上がってしまった。別日の思い出と混同しているのか、まるでそんな事実がなかったのに願望が反映されたものなのかはわからなかった。どれも正しく、どれも正しくない気がした。けれど、今なら本当のあの頃の記憶に触れられる気がする。もう少しだけ目を閉じてみることにした。

 十九歳の春、僕はそれまで高校三年間通っていた東京を離れ、横浜の予備校にいた。高校時代はろくすっぽ勉強もせず、特別な動機もなく現役の延長として浪人を始めた。両親は僕にはどうしても行かねばならないと心に誓った大学に受かる為に浪人を選択したと思っていて、とにかく協力的だったが僕は勉強に全く身が入らずダイエーの中にあるCDショップやラウンドワンで一日の大半を過ごしていた。
 部屋にはソニーのマルチミニコンポがあり、CDラックには日に日に円盤が増え、僕は家では常に何かしら掛けていた。何かに心を奪われている瞬間だけは自分が何者でもないことを忘れられる気がしていた。またすぐに夏が来て、寒くなり再度現役の頃と同じ大学を受験する。なるべくそんなことを考えないよう努めた。
 ある日僕は思い立って、高校の近くに出向いてみることにした。四月の終わりのことだった。横浜駅からJR上野東京ラインで新橋まで行き、新橋から銀座線に乗り換え外苑前に向かう。昼過ぎの車内は営業マンと思しきスーツの人やどこかへ向かう主婦のような人たちしかいなかった。道中、僕はずっと車内で高校時代に付き合っていた子のことを思い出していた。僕はいくつかの大学に受かり、彼女と同じ大学にも受かった。彼女は僕に合わせた学校に決めたが、僕は結局浪人を選んだ。彼女は僕が大学に行かないのを現実逃避だと言っていたし、僕もそれが一番正しい僕の心情を表す言葉だと思った。
「あなたはもう私と一緒にいたくないから、そんなことするんでしょ?」彼女は言って泣いた。
今思えば、僕はこのまま地続きな人間関係が嫌だったから敢えて彼女と同じ大学に進まず、孤立したのだと思うけど、当時は上手く伝えることが出来ず、ただ泣いている彼女に
「そうじゃないよ」と言うことしか出来なかった。
外苑前で降り、僕は高校のあたりを散歩した後明治公園に向かった。ビル風が厳しく、明治公園の鮮やかな緑色をした葉も揺れ、太陽を沢山浴びて生き生きとしているようだった。すれ違う人々は何かに追われていそうなサラリーマン以外は暖かくなってきた気温を受けて幸せそうな顔をしていた。その時抱えてる気持ちに関わらず、長い冬が終わることは嬉しいことなのだ。
 僕は駅のキオスクで買ったサンドウィッチを食べてしまうと、公園を後にし、また散歩することにした。適当に千駄ヶ谷方面に歩いていると、日本青年館のあたりで麻美に肩を叩かれた。
「やっぱりみつばくんだった。何度か声を掛けたけど反応がないから違うかと思ったわ。けど、絶対そうだと思った。歩き方でわかるのよ」
彼女とそうやって話すのは同じクラスだった高校一年生の頃以来でなんだか久しぶりな気がした。
僕たちは幾らかの会話をし、彼女が夕方のアルバイトの面接まで時間があるというので僕たちは近くにある喫茶店に入った。彼女は昼食前だったらしく、ツナとチーズのバニーニのセット、僕はアイスコーヒーを注文した。彼女は自分や、自分の身の回りのことについて話してしまうと言いにくそうに僕のことについてあれこれ聞いてきた。僕はなるべく正直に一つひとつ答えたが、どれも麻美は納得していないようで、特にどうして彼女と別れる必要があったのかは理解してもらえていないようだった。暫く経って、気が付けば彼女は出ないといけない時間になり、僕たちは喫茶店を出た。
「また会えないかしら?もちろんみつばくんが平気な時にはなるけど」
「僕はもうしばらくこの生活を続けるつもりだからいつでも会えるよ」
「電話してきて、みつばくんが暇な時」彼女はそれだけ言ってその場を去った。

 英文法の里中という講師がその日珍しく吐く冗談が少なかった。彼の授業は音楽や映画なんかの話が多かったので土曜日の二限だけはきちんと出席していたのでとても残念だった。普段はビートルズやスティーブンキングの話をよくしていて、未だに彼の影響でそれらを好んでいる。校内の喫煙所に向かい、自販機でカフェオレを買った。煙草を吸いながら午後から何をするか考えていた。ふと、麻美の顔が浮かんで彼女に電話すると、彼女も特に用事がないらしく横浜で会うことになった。僕たちは横浜駅みなみ西口で待ち合わせをした。
 「みつばくんが煙草を吸ってたなんて意外だったわ、とても。前会ったときだって喫煙席でもよかったのに。吸わないって苦しいんじゃない?」
「こうやって誰かを待っていたり、特に何もすることがない時だけ特別吸いたくなるんだよ。高校の時は制服だったし家でしか吸わなかったけど」
彼女はその日薄いブラウンのニットとリボンの付いた白いフリルスカートを着ていた。ずっと前にそのスカートを着た彼女を見たことがある気がしたが、はっきり覚えていたわけではなかった。それだけ特別彼女を意識して見たことは当時まだなかった。
「私横浜ってずっと昔親に連れて来られた以来ないのよ。ねぇ、何があるのか教えて」
「何もないよ、駅の周りだけは栄えてるけど少し離れたら何もないし、東京みたいにいくつも繁華街が近くに点在してるわけでもない。本当、見える限りのものしかないよ」
「それって凄くちょうどいいサイズじゃない?私が住んでる埼玉はもっと何もない。何もないから何かしたくなったら、大宮に行くしかないけど、それならもうそのまま東京に出ようってなるもの。そうやって通過されるだけの街に比べてずっと素敵じゃない。ねぇ、みつばくんが息抜きに使ってるところとかない?」
僕たちは駅を抜けて、スカイビルにある川のすぐ近くの喫茶店に移動した。
「ここのテラス席によく来るんだよ。室内も天井が高いし、ソファも柔らかいし。テラス席は今くらいの時期だと涼しくてものすごく落ち着くんだ」

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