わたしとは誰か

最近、古神道の教えを学び始めた。古神道って、ようするに日本古来から伝わる神道、神様事の教え。外来宗教や、政治(国家神道)の影響を受ける前の本来の教え。

神道っていうのは、そもそも宗教ではない。教祖もいないし、教義もない。宗教というよりは、日本人の中に伝わってきた生き方であったり、日本人の心、というモノです。

そこで「わたしとは誰か」という問いがあります。
わたしとは誰でしょう?

古神道でも、神は外側ではなく、内側に存在するということを説いています。また後日、内容を少し書いてみようと思う。

今日は、その前に、ふと、以前読んだ本と内容がシンクロすると思い、少し読み返してみた。

-以下、抜粋-
自我について、考えるきっかけに。

「神との対話」より抜粋要約、P51-53
まずはじめにあったのは、「存在のすべて」、それだけだった。他には何もなかった。その「存在のすべて」は、自分自身が何かを知ることは出来ない。なぜなら「存在のすべて」、あるのはそれだけで、他には何もないから。ほかに何かがなければ、「存在のすべて」も、ないということになる。「存在のすべて」は、裏返せば「無」と同じだった。これが、時のはじめから神話が語り続けてきた、「すべてであって/無である」ということだ。

中略&要約
神は、自らを体験的に知るため、相対性という自分への最も偉大な贈り物を創造した。愛が存在するために、正反対のものが存在する必要があった。そこで神は愛の絶対的対局にあるものを創り上げた。それが現在「不安」と呼ばれるものだ。不安が存在した瞬間、愛もまた、体験しうるものとして存在し始めた。

解釈:つまり、全てのことに対極的なものが存在し、対極があることで、もう一方が体験しうる。

次に、10年程前に読んだ苫米地さんの本をパラパラ。
自我というのは、そこには、物理的な実体もなければ、それ自体で独立して存在することもない、単なる「情報の状態」にすぎない。自分という状態を定義することは、自分以外の人や組織、物体など、他者を引き合いに出さなければ「自我」を何一つとして説明できない。

私という存在を決めているものは、結局のところ、どれも「他者との関係」性における自分にまつわる情報であって、自分自身ではない。つまり、「自分」だと思い込んでいるのは、情報の状態にすぎない、いわば、いくらでも書き換え可能なハードディスクの中身と同じ。

ここで「神との対話」に戻ってみる

P160 : 「これがわたしである」と宣言しなさい。宇宙でもっとも力強い言葉だ。この言葉をきっかけにものごとが動き、体験できるようになる。
宇宙が動く仕組みはそれだけだ。ほかに道はない。宇宙は「これがわたしである」という言葉に応える。瓶から現れる魔法使いが指示に従うように。

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