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炎上する考え方?ゲーム規制とフェミニズム(考えの整理)2384文字。

自分自身に心当たりがあることでもあるんですが、人は信じていたものが間違いだとなかなか受け入れられない生き物で、間違いを指摘された時に図星という皮肉がありますが防衛体制をまず取ってしまうんですよね。特に村社会で交渉技術が生活習慣にない日本人の文化では防衛体制が顕著であると思います。テクノロジーとフェミニズムが歴史から見ても毎回繰り返されているわけで、香川のゲーム規制条例騒ぎの源は政治と世間のズレにあるんですがそれは特別新しいことではなく20年前はゲーム脳になるとかそれ以前ではテレビで白痴になるカメラに撮られると魂を抜かれると今ではばかばかしい世論が当たり前に立っていた。これはテクノロジーの循環でどうしても15歳以下で経験したものは世界の一部に、40歳までは新しいものに、それ以上だと自然に反するものに精神が拒絶していくという見解があり、それのようなもので僕もそうなのかもしれないと感じます。ですからここの本質は”なぜゲーム規制条例というものが出来上がってしまうか”なのですが、それは①ゲームを知らない人が政をしているから②操作したいから③防衛体制を取っているから、ということで・・・ともかく①がほぼ全てだと思います。思考停止がどうとかいうのではなくて、そもそも人間は快楽を得るために生きているわけで、わからないこと怖いことは排除したいし自分が土俵に立てないことは消そうとしてしまうのですね、これは国家社会になってから平民貴族王族の関係が生まれ(民主主義になったものの権力の構造は同じ)なんども風刺されてきたこと。フェミニズムに関しても似ていて、ジェンダーを細かく区別していくことはとてもいいことだと思います(区別することで人間は認識できるから、それは成長であると思っています)ただ男尊女卑をなくし平等な社会を作るというのは手段であって、まず個があり全があるわけですから本質は「ちゃんと目の前の人物を見れるようになろうよ」ということですよね。例えば男尊女卑だったとしてもかなり前の時代はそれが成立していて、つまり「文化」が納得して疑わず、社会が効率的に回っていた場合、そもそもフェミ論争は起こりません。そりゃそうだ、でも個人で経済圏を持てる現代の構造に合わせて過去から進化しないと、と思い努力が続くわけですが、自分の行動ひとつひとつに、ジェンダー平等の社会に完全になって欲しいのか、自分が幸福になれればその形態はあまり重要じゃないのか、それの区別は各々考えていいんじゃないでしょうか。もし本当にジェンダーフリーにしたいのであれば自分が悪だと思っているものの知識も必要です。生活習慣の中で見たいものしか見ていないという自覚があったらいいのかと妄想します。そして多分この思想が正しい時代が終わった時、新しい思想を受け入れられなくなり、いつしか今ヘイトしていた対象に自分がなっていくと。そんなもんなのかなと訳も分からず僕は翻弄されています。

フェミニストというのは今ではもう皮肉ですけど、香川のゲーム規制条例を作る人と似ている心理で①②③の過程を通っている場合、ギリシアの時代の演劇からそれはしばしば「愚民」として象徴されているので、昔からその概念は変わっていないと言えます。

人間は快楽のために生きているので、こういった論争が起きる時何かを即否定したり完全に蓋をしたりするのは権力者の意図であり、人間が人間である以上出てきてしまう個性なので扱い方、活かし方を考えればそれは共存になります。結局若いうちに好きだったり流行っていたものがいつしか大人になった世代たちの思想となるので、テクノロジーを抑えるのは叩かれるし(今回はもうデジタルの認識が古過ぎてあからさまですが)最先端を知らない人間がその専門分野で社会を作る構造が何よりも問題です。それも選挙で国民が選んでいるので民主主義においては我々にも責任がありますが、IT大臣くらい新世代の人間に努めてもらいたいものです。ゲーム依存を提唱するのならゲームの仕組みや社会的役割をまず認識する専門家でなければおかしい。

フェミニズムは実害と抑圧されてきた実例が、関係のなかった人々の身近にあるのでスパッと割り切れないですが、多くの場合、ゲーム規制をしている人のようにともかく否、あるいは良と瞬間に「反応」し、対話がなく決めつけである場合が多いような気がします。人間は感情で動くものなので、自分以外の誰かが傷ついた時、協調しやすく、同じ体験をしたとわかると共感して感情が高ぶった時発信したりするので当然冷静ではないし、物事が片方からしか見れていない。それがフェミニストが皮肉される由縁なのかと思います。俯瞰ができなくなる場合もありますから、そういう方に「なぜそう思うのですか?」と問うたり発信すると一気に炎上します。と書くとこういう認識のやつがいるからダメなんだ。「ハラスメント」の原理だといきなり決めつけられてしまうのですが、段階を踏まない決めつけは非常に脆く、それはこうでしょ、とすぐ考えてしまうのは「極論」であるかもしれないと自分に戒めなければ、ゲームを始めとしたテクノロジー、フェミニズムを本当の意味で社会的に考えているわけではなくなってしまう、そういうように思います。どうもこんな弁論になった瞬間に敵だと認識されて喧嘩売られたと思う場合も多いようです。もし、物事に必ずあるメリットデメリットの両方の知識があれば感情的にならずに本質を見ようとするのではないでしょうか。即答はほとんど場合快楽にのっとってしているかもしれません。わかりませんけどね。

こんなことを考えるようになったから(あるいはマインドを変えたからかもしれませんが)僕の中で芸術に必要だと言われる「怒り」がどんどん薄くなっていく。きっと髪の毛も薄くなっていく・・・。

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