コロナ・失語症日誌

「世界がコロナ騒ぎをしている間に」

時は過ぎてゆく、私の時が、が、コロナ騒ぎは、私が見つべき時「世界がコロナ騒ぎをしている間に」

時は過ぎてゆく、私の時が、が、コロナ騒ぎは、私が見つべき時、よく見ておかねばと、人の邪悪と滑稽と、

クラインを聴くと時が戻る、優しさ、哀しさ、美しさ、輝き、時の中を生きていた感情が、
人は去り、私だけが残り、この時だけは消えず、

「彼らがやりたいことが」

金の支配、人の支配、清貧、慈悲とは対極の、そんなことを考えて一生を終える者等、

「狂人と、ロボットを」

見るような、マスクをした人の群れ、3.11の時の暗さを思った、人意識を失った群れ、マスクをしていない時の人の群れも、狂人ロボットだが、マスクをした人の群れは表情がわからない、狂人とロボットととは、自らをロボットとは考えず、

実存の定義~人間存在、人間疎外からの、
      哲学、文学、歴史、政治の中に                         
      失われた信仰のこだま、
人間は無限~機械文明への反抗、私有財産制   
の中心   の廃止によって解放しようと、

「第二次大戦~原爆、実存が本質に先立つ」

実存主義の~実存、存在、超越、可能と投企  
諸問題   根源、状況、瞬間、選択の自由、
      無と不安、本来性、単独者、他
      者、交わり、

『存在』
ホーキングの無は有からしか存在しない、存る、在ったが全て、即時も対自も、在る私が在ってのこと、

『超越』
人間は神であろうと、企てる存在などではない、釈迦の手の中が正しい、

『可能と投企』
希望の定義と同じ、意識を超えて在るもの、

『根源』
われ思う故に我ありが、全ての根源である、

「人間の神意識」

永遠という、宇宙という、死という、絶対という、人間の及ばない存在への、自然な感情から生まれる、これら存在への、帰趨、一体、あこがれ、が愛という感情を生き、
事物には周辺はない、全てが中心である、マクロとミクロの、無限と虚無の、パスカルの弁証法的思考、(パンセ)
ハイデガーの死の内面化、生における死の追求、

「自然ということ」

ガンであれ、その他の病気であれ、政治、芸術、哲学であれ、自然であるで良いと、実存などと定義付けも必要はなく、自然であるで良いと、マルセルの恩寵と同じ、ニーチェの永劫回帰といえど、釈迦、イエスの、慈悲、愛と言えど、人存在という、自然の中の自明、自然裡であると、人の死も、我が死も、自然と何ら変わらず、

「そのような人生が、人生だろうか」

人生とは何かを、求めることも無く、人生を終わっていく、問わずとも、人生とはこんなものだと、サルトルと言えど、ベランダ園芸する程度のものと、殊更言うことも無し、人生とはプッサンのひと踊り、

「明日死んでもいいと言う感情なついて」

人生とは何ぞやの問いが喪失、
人生とはこんなものという諦観、

「これでこの世界と決別できる」

コロナを通して、ニヒリズムが自明、肯定出来る時代となったということ、

「嘘を承知した」

マスクをし、商売を縮小して、人との距離を取って、消毒をして、シートをして、御用学者、マスコミの捏造、フェイクニュースを聞き流し、10ケ月経って1500人のの死者の事実に、嘘を容認する世界を、3.11とは違った、加害者としての国民が、嘘をつく人間としての世界が、アイヒマンの仕事だったからと同じ、悪の凡庸が、3.11とは違って全ての悪が露呈したということ、抗ガン剤、ワクチン、エイズ、DNA食品、支配構造、利権、風見鶏、科学無知、嘘の容認が、人間の崩壊、今や新しき人も、絶望主義も必要なく、只人間の自然、自然の存在に、これが人間の集団という、

「森有正 ドストエフスキー~罪と罰」

近代合理主義の、私対世界に対する罪と罰、人は罪びととする前近代、人は自由だとする近代、ラスコルニコフはソーニャの理想的な愛を通して、罪に至ると論ずる、ニーチェの神は死んだ、人は自由だへの、現代、罪は法となって人を支配、法は法、私はやりたいようにやるが現代、社会や法に対して、権力によって合理的に、統治者として悪の肯定、権力者と、罪も神も死んだで、無化された現代、愛さえ死んだで、現代人は全てから見放され、私で世界に立っている、私自身世界そのものを見据え、私対世界で立っている、世界の悪は世界のコントロール以内であると、為政者の意識、悪は世界のコントロールに委ねられ、核もコロナも、ハラリの言うコントロールの下に解消され、絶望主義さえ吸収され、

「始原の人間」

夕陽を見る猿から、叫び声で相手とコミニケーションする猿から、物まねをする猿から、直立歩行する猿から、他の動物から、他の種から、怯え、不安から、人DNAは他の動物の本能部分と変わらず、ウイルスとも、この大気、寿命からは出られず、現代人も始原人も、同じ人DNAとして、

「スタブローギンの精神像~森有正」

パスカル、デカルト、キルケゴール、ヤスパース、等の考察をスタブローギンに再考させる、近現代人の虚無、人は虚無にも、有為にもなる、絶望しても死なない現代人、無為の中を有為に生きている存在、19cとはすっかり変わってしまった、悪の虚無は全て知られてしまっている、人は私を生きる他なく、掃いて捨てるほどの、スタブローギンの山が世界には満ち、

「ドストエフスキーの神の問題~森有正」

罪と罰、救済、スタブローギン、ラスコルニコフ、それにら対し、ソーニヤ、etcの無垢なるものからの救済、人間関係に於いて、自らの不信と信仰を探る形の作品、近代、インテリゲンチャの信仰、神の問題として、ニィーチェをどう捉えるかの問題、神は死んだ、殺したのは人間だ、の、死に対し、医学の、AI社会の、人類共同体の、未来において、神は宇宙として、人にどのように捉えられているのか、

「16歳、神はいるのかいないのかと」

創価学会の信者と神などいないよと、議論していたら共産主義に出会った、神がいるとする者の意識が不思議だった、どこに、どんな姿で、見えないものを信じる者の不思議、同じマジナイ言葉を何百、何千と繰り返し、何を求めて、幸せ、御利益を求めて、病気が治った、金運が向いた、幸せになったと、イエス、イスラムと変わりはない、祈りが願いを叶えるという、見えない者の行為を、守られた、救われたと、ニーチェ、ドストエフスキー、etc、神とは闘うもの、人の罪と罰は、社会と歴史が決めるもの、人はその社会、歴史の中で生きるだけ、宇宙には自然の仕組みが在るだけ、その仕組みを理解しても、しなくても、人はその中を生きいくで良い、

「森有正が詰まらなくなったのは」

近代自我、美、神と人の、実存以前のものへの、煩悶が煩わしく感じられるようになったせいか、ドストエフスキーを罪と罰、神、無神論からは今や私は捉えない、罪と罰など、権力、社会の法と同じで、人間存在の有るということへの、存在の至上性への、これが人間存在だと言うものへの、人文化が存在への至上性に至っていないことへの、死も愛も、私対世界も、全て存在の至上性の中にあることの、絶望さえその中に在ることの、神以前の、神など必要のない、この存在の至上性の中にあったから有ることの、これが有という無限の至高性ということ、



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