君がだれかとケンカをしたときに読む文章
このページを見てくれてありがとう
まずはじめに、このページを見てくれてありがとう。
君がこのページを開いたということは、君は身近な人とケンカをしてしまった、ということだね。このページには、そんな君に僕がどうしても伝えたいことが書いてあります。少し長い文章で、つまらない部分があるかもしれない。でも最後まで読んでほしい。国語の教科書にのっている長い文章も、いちばん大切なことはいちばん最後に書いてあるでしょ。でも、どうしても読むのがメンドウだと感じたら、無理して読まなくても大丈夫。途中で止めてもOK。気が向いた時に、少しずつでいいから読んでみてね。
ケンカのキッカケはなんだった?
君がケンカをしてしまったのはだれかな?いつもいっしょに遊んでいる友達かな?同じ班になった、少し気に入らないクラスメイトかな?それとも、いっしょに住んでいる家族かな?
正直、僕はその辺のことはわからない。でも、君にとってそのケンカの相手が、とても大切な人であることは間違いない。なぜなら、君がこの文章を読んでいると言うことはきっと、その人と仲直りをしてこれからもいっしょにいたいと思っているはずだからだ。もしその人が君にとってどうでも良い人ならば、仲直りなんてしようと思わないはずだし、これから一生、ずっと関わらなければいいだけなんだから。
まず僕から君に初めに伝えたいこと。それは「ケンカをするのは決して悪いことではない」ということ。勘違いしてほしくないから言うけど、もし君がその相手の人を叩いたり、気持ちを傷つけようと思って「バカ」みたいな言葉をかけてしまったのであれば、今すぐその人に謝りましょう。もし相手がそう言うことをやってきたのだとすれば、その人にしっかり謝ってもらいましょう。そう言うケンカは「悪いケンカ」だから絶対にNGだ。それは、君と相手の大切な体や心を傷つけることだからやってはいけないよ。今君は「だったら悪くないケンカはどういうものなんだろう?」と思ったよね。ここで君によく考えてほしいのは「なぜ君たちはケンカをしてしまったのか」ということ。つまり「ケンカのキッカケ」だ。きっと僕にはわからないような、いろんな理由があると思う。でもここで立ち止まって、しっかりと考えてほしい。
次の章から少しだけ、書いてあることが難しくなる。でも「ケンカのキッカケ」のことを考えながら、ゆっくり読んでみてほしい。
意見や考えが違うのは当たり前
君たちは学校で今、いろんな勉強をしていると思う。たまにテストもやると思う。国語の授業で「がっこう」を漢字で「学校」と書くこととか、算数の授業で「7×9=63」だと習ったと思う。こう言った問題には正解が1つしかないから「マル」と「バツ」が分かりやすいし、先生もテストで点数をつけやすいよね。でも例えば、夏休みの宿題で「この本を読んで、感想文を書いてください」と言われたとしよう。2学期最初の登校日にその感想文を出した時、その中身は他の人と全く同じになるのかな?もちろん、その感想は君だけのものだから、絶対に他の人といっしょにはならないよね。(もちろん友達の書いた文章を書き写したら全く同じになるけど、それをやってしまうと、先生にバレて叱られるからやらないように。)
ここでびっくりする事実を君に伝えたい。実は大人になると学校で習ったような「たった一つの正解」に出会うことの方が少ないんだ。むしろ「君の考えていることを聞かせてください」みたいな感じで、正解がない質問をされることの方が多い。だからこそ君はこれから「自分の意見や考えをしっかり伝える」ことの方が大切になってくる。そして、その伝える相手は「君と意見が違う人」であることの方が多いんだ。
少し話が逸れてしまったから、ケンカの話に戻ろう。僕はさっき、ケンカしてしまった「キッカケ」について考えてほしいと言った。たぶん、「がっこう」を漢字でどうやって書くのか、とか、九九の答えが何か、みたいなことがキッカケではなかったんじゃないかと思う。これは僕の想像だけど「自分の意見や考えが、その人の意見や考えと違っていた」から起きたことなんじゃないかな?
さっき僕が言った通り、これから生きていく中で「正解のないこと」とか「意見や考えが違う」人に出会うことがたくさんある。でもそれは当たり前なんだ。なぜかというと、僕たちは一人一人違う人間だから。生まれた場所も、家族も、食べてきたものもぜんぜん違う僕たちが、全く同じ意見や考えになる方がめずらしいんだ。だから君は隣の人と読書感想文が一緒になることはきっとあり得ない。その人の好みや意見、考え方も、君と違って当然なんだ。だから「ケンカ」をすることの方が当たり前なんだよ。何回も言うけど、暴力と暴言は絶対にダメだ。僕が言いたいのは「違う意見や考えを他の人とぶつけ合うのは悪いことじゃないし、むしろ良いことだ」ということだ。これだけはおぼえておいてほしい。
でも、そんなに簡単なことじゃないよね。なぜなら「初めは良いケンカだったのに、いつのまにか悪いケンカになってしまう」ことがよくあるから。ここから先は、君たちより少しだけセンパイの僕から、上手に良いケンカをするために大切なことを教えてあげましょう。
違う意見や考えの人と話すときに大切なこと
さっき「良いケンカというのは違う意見や考えを他の人とぶつけ合うことだ」といったよね。君はどんな人に「自分の意見や考えを伝えたい」と思うかな?逆に、どんな人に「自分の意見や考えを伝えたくない」と思うかな?
君の前に二人の人がいるのを想像してみよう。一人目は、君が意見や考えを伝えた時に「やっぱり君はダメなやつだな。僕と考え方が全然違うよ。」と言った。どうやら意見が違う上に、君をバカにしているような感覚があるよね。こういう人と、あまり話をしたくないと思わない?
それじゃあ次に、二人目に君の意見や考えを伝えてみよう。「すごく素敵な考え方だね。ただ、僕は考え方が全然違うよ」と言われた。さっきの人と「意見が違う」という点では同じなのに、そんなにイヤな気持ちはしなかったんじゃないかな?実は、良いケンカをするポイントはここにある。
さっきの二人のどこが違うかを考えてみよう。そう、「君そのものを認めてくれているかどうか」だ。一人目の人は、違った考えを持つ君をバカにしているけど、二人目の人は違う考え方の君を認めている。少しむずかしい言い方をすると「君そのもの」と「意見」を分けて考えているんだ。「人」と「意見」をしっかりと分けて伝えることができると、伝えられた人は「意見」を否定されても「人そのもの」を否定されたことにならないから、イヤな気持ちがしないんだ。
最初の質問に戻ろう。君はどう言う人に「自分の意見や考え方を言いたい」と思うかな?それはきっと「意見が違かったとしても、自分そのものは決して否定しない人」だ。逆に、これが守れていないと、暴力や暴言みたいな「悪いケンカ」に変化してしまう。これで答えは出たね。良いケンカをしたいなら、君自身が「意見が違かったとしても、相手そのものは決して否定しない人」になれば良い。簡単なことだ。
実は、ここまで話してきた内容は、難しい言葉で「しんりてきあんぜんせい(心理的安全性)」と言ったりします。でも、難しいから別におぼえなくていいよ。もしクラスの友達に自慢したいならおぼえてね。
最後に僕から君へ伝えたいこと
君はこれからたくさんの人と出会い、意見や考えをぶつけ合うことになる。だけど決して、相手そのものを否定してしまうような「悪いケンカ」はしてほしくない。自分と違う意見の人を決して笑ってはいけないし、小馬鹿にしてはいけない。そしてその人そのものを大切にしながら、その人とは違う、君自身の意見や考えを伝えられるような関係を作っていってほしい。
僕は最初に「今ケンカしている相手は、きっと君にとって大切な人なんじゃないか」と言ったよね。だからこの文章をここまで読んでいる君はまず、今ケンカしてしまっている人にとって「意見が違ったとしても、その相手のこと決して否定しない人」になれるはずだ。ぜひその人と「良いケンカ」をしていってほしい。
こんなに長い文章を最後までよく読んでくれたね。本当にありがとう。もし君が、またケンカをしてしまったり、ここに書いてあることを忘れてしまったら、何度でも帰ってきて、この文章を読み直してみてください。もしかしたら、その時に新しく気付くことがあるかもしれません。
それでは、いつかまた会いましょう!
大人の方へ
ここから先は大人の方に向けた内容です。
経緯と解説
当記事は「友達と喧嘩をして帰宅した小学校4年生の男の子」をペルソナとした上で、「彼が心理的安全性に対して本質的に理解する」ことを目的として書かれています。このアイデアは、ボトムアップ的自己組織化を要請する高アジリティ社会とハラスメント過剰反応社会の積集合に閉じ込められた結果、自身の強権性を露骨に発動できなくなった人間たちが「心理的安全性」を都合よく誤用・解釈し「クリーンな合意形成を演出」している現状に対する問題意識と、「心理的安全性」という概念の本質が「存在承認の保障」という小学校道徳教育レベルの結論に帰結するという批判的仮説を元に生み出されました。心理的安全性は「低ストレスと高パフォーマンスのコンフリクト」に依拠した非現実性の一点張りで批判されることが一般的ですが、この批判自体がまさに「人自体と成果を同一視する悪しき習慣が一定のマネジメント層に内在化している証拠」だと捉えることもできます。その習慣の連鎖を幼少期のうちに断ち切ることが、本記事の裏目標であるという点もご留意いただければと思います。