イジメを受けた。キツかった。そして今この国はイジメ構造を利用している。さてどうしよう? ver1.01

 僕個人の歴史を見渡しても、現実の生活の中で、政治の話題は今までずっとNGだった。し、これからもNGだと思う。でもNGだからといってずっと黙っていたら、世の中はとうとうこんなに悪くなってしまった。やっぱりどうにかして、正面からど直球に、普通の場所で、普通に政治の話ができる糸口をつけなくては。

 中学三年生の頃、毎日の部活の時間、ピロティで複数の同級生に囲まれて、殴られたり、上履きで顔を踏まれたりしていた。ある日仕返しされる恐れもあったが勇気を出して、「部活をやめたい」といってみた。陸上部の顧問だった、小日山先生に「みんな我慢している。努力している。あなたが1500m走に出場しているとき、みんな心を一つにして応援の声を挙げていた。見富君はそれを見なかったの?」と、逆に怒られた(2009年5月頃)。同級生は、殴られてヘラヘラしている僕を見て、喜んでいるんだと思ってたみたいだ。でも本当は痛かった。「みんな」や、「一つの心」のような、先生が大事なものとして大上段に構えるものが、とにかく抽象的で現実味を全く感じられなかった。一方で、溝落ちを殴られたあとに痛いとか、コンビニのビニール袋に残飯を入れられ、「食え」と言われたら、食いたくないとか、偉い大人が取り合ってくれないだろうけど、先生にとっては取るに足らないことかもしれないけれど、僕個人にとってはとてもとても現実味があった。
 僕をいじめていた同級生は足が速く、全国大会まで出場した。ある日俺を殴っていた奴の名前が横断幕にでかでかと印刷されて教員室のベランダに下がっている。「なにも問題ない!!うまくいっている!!」と大人たちが言っているような気がした。
 やめたいと言ったのに、謎の精神論を押し付けられた中三の僕は、ただただ泣いてしまった。仕方ないので翌週は部活に出た。いつも通り陸上部のトレーニングメニューをこなすと、いつもは全然話しかけてこない陸上部のコーチの池田先生が話しかけてきた。何人も全国大会に行く生徒を指導してきた、腕利きの英語教師だった。「どうだ?汗を流すのもいいだろう?青春だろう?」驚くほどどこにも同意できる部分のない言葉だった。「あ、まあ、そうかもしんないっすね」とだけ返し、翌日から部活に出るのをやめた。確かに僕は扱いづらい生徒だったかも、でもこれ以上、別の地平に生きる大人たちに扱われるのもバカバカしくなった。

 当時あまりにも勉強ができないので、高校受験STEPに通い始めた。学校のピロティと同じようにプロレス技をかけられていると、塾の先生はけらけら笑いながら、「いいぞもっとやれ」と言って去っていった。乱暴なと思った。でもそれは全然絶望的な感じがしなかった。起きてることが同じでも、そこから抜け出す道筋があったからかも知れない。
「ここは受験のためにくる場所です点数だけが正義です。」と口では言うのだけど。授業の内容は人をひきつけるように、テンポのいい話芸として、よく考えられていた。聞き入ってしまうほど面白かった。点数が少しづつ上がるに連れて、学校とほとんど同じ顔ぶれの中に、少しづつ居場所が出来ていった。
不思議なことに、口を開けば「美しい心を育む」としか、しゃべれない大人たちが集まった公立学校よりも、あっけらかんと「点数が全て」と焚きつける大人が集まった私塾の方が居心地が良かった。

 「美しい心を育む」なんてそうそうできないことだ。少なくとも、僕にはそんなたいそうなことどうやったらできるのか、わからない。でもそうやってスピーチすると、大人たちのウケがいい。教育委員会の会合で繰り返すうちに「美しい心を育もう」と言わないとみんな物足りないような気がしてきて。前任者から次の先生へ、耳障りのいいポエムが受け継がれるようになった。

「All for One ! One for All !」
「 心 ・ 技 ・ 体 」
「感動は心の扉を開く」

学校は模造紙にでかでかと色とりどりの字で書かれたポエムで埋め尽くされた。

 初めて、詩的なスピーチをした先生は心の底からそんな言葉を思いつき、スピーチに書き足したのかもしれない。その夜の会合は拍手喝采で終わった。でもそんな素晴らしいスピーチを聞いた他の先生は「そうか!これを真似すればいいんだ!」と思った。その言葉を生み出した教師が、いかに優れたセンスを持っていたかは関係ない。オリジナルの、素晴らしい先生は転校となり、前任者から後任者へ、名文句だけが引き継がれる。そうした劣化コピーが何度も繰り返されれば、「美しい心を育む」なんて事を大声で宣言しながら、実際のところ何をどうしたらそんなことができるのか、全くわかっていない、できるなんて微塵も思っていない、という大人が大量に生産される。おそらくこのようにして公立学校の形式主義は、完成された。陸上部の先生たちも「心が一つになった」とスピーチできれば、へそ曲がり生徒の一人や二人がぶん殴られようが、お構いなし。もし加害者が全国大会出場者なら、当然黙殺する。
 一方の高校受験のための点数を稼ぐことは、テンポがよく記憶に焼きつく授業、小テストの繰り返し、ノウハウの蓄積と共有で、充分にできる。「点数が全て」という私塾の先生たちは、どうやったら生徒たちの点数を上げられるかも熟知していた。志望校を決めるとき、塾の先生は「行けるとこまで行きましょう」と言ってくれた。公立学校の先生は「君の内申だとこの高校しか行けないね」「みんなが受かることを目標として、先生たち一丸となって頑張ることにしているから」。言ってることと、やってることが真逆だった。

 この話の教訓として一つ上げるなら、嘘は構造から嘘だとわかるということだ。私塾にも、「点数こそすべて」というスローガンはあるにはあった、でもその言葉を実現させるためのノウハウを掴み、組織内で共有したうえで「点数こそ全て」と、宣言していた。できもしない事を自信満々に大声で吹聴する人間は、声が大きければ大きいほど、煽情的であればあるほど、大噓つきだ。だからスローガンを見た時は本当にこの人がこれを実現できる人なのか(そうすると今の政治家は与野党全て大嘘つきだ!!そのなかからマシな大嘘つきを選ぶしかない!!)、を見る必要がある。逆に言葉の表面だけを見ていたらどうなるか、あなたは美辞麗句の数々に籠絡されることになる。

 昨今新聞、週刊誌、テレビニュースで見聞きする、自民党とカルトの選挙協力体制や、五輪汚職、の実態は、答え合わせを見ているような気分だ。子ども庁に「家庭」を無理やりねじ込んだ時の、言葉の表面に対するこだわりの強さ。なぜ「家庭を」省庁の名前にねじ込むと、実際に虐待にあう子どもの被害がどうやって改善されるか、ついに説明されなかった。「これは何か変だぞ」僕は思った。五輪では、もっとたくさんの美しい言葉が垂れ流された。五輪が一年延期になり、当初の開催予定だった日に、難病を乗り越えて復帰しようとする池江里佳子が純白の衣装を着てスピーチする動画が公開された。「一年後へ。一歩進。~+1メッセージ~ TOKYO2020」おセンチなピアノのBGMとともに「スポーツがくれる勇気や人とのつながりは、本当にかけがえのないものだから」「(ヨーロッパの医療関係者の映像を流しながら)感謝と尊敬を胸に」「その炎は、まだ消えていない(字幕)」「アスリートのために、今できる最大限の準備をTOKYOはしたいと思う。(字幕)」などなど、全身がかゆくなりそうな、美しすぎる言葉が並ぶ。開催直前になってコロナの感染者数が急増した時も菅首相の答弁は「安心安全」と繰り返すだけ。何かがおかしい、何かを隠している、だから説明ができない。そして、その直感は正しかった。

 国政と自分の生活にはほとんど何の接点もないはずなのに、中学生だった僕が目にした小さな地域社会の断面と、構造的にきれいな相似形をなしている。小さな田舎町で起きたことと、同じ事が、今連日報道されている。取り繕えばなんとかなっていた、日本全国津々浦々で起きてきた不条理がいよいよ隠しようがなくなってきているのだと僕は思う。むしろ一番外側の、今、僕たちの国がどういう場所にいてどういう歴史のもとに今に至っているのか、から考え、問題意識に対してアイデアを出す必要がある。この程度の事ならば体性的理解で、充分に判断できる。とにかく、権力を持った立場の人間たちが「美しいこと」を言って「どうしたら実現できるか分かってない」時は、殆ど何かしらの嘘をついている時なのだ。
 
よくこういう話をすると、「自分を卑下するな」とか、「ネガティブな話をする必要はない」と返す人がいる。例えば10年前だったら小さな無理があっても、地域社会全体、国家全体で見たらまだうまく行っていた。でも今はそうじゃない。真逆だ。ネガティブなことから話して行くべきだ。これからは、小さな無理から正して行かないと、国家はおろか地域社会も回らなくなる。

    僕の訴えをとりあってくれなかった先生も、僕を殴った同級生も、殴れと指示を出した同級生も、一人ひとりは話せば、みないい人だった。いい人が集まって、平和な日常を暮らそうとした結果、僕にとっては最悪な出来事が起きてしまった。この憎しみをそれぞれの個々人に向けてもあまり意味がない。ちゃんと社会の構造の欠陥の問題である、社会の問題ということは政治の問題であるとして考える必要がある。少なくとも今、自分は政治的であることを恐れている場合じゃない。

一個人の実体験に基づいて判断した結果、現自民党政権下で様々な不条理が放置され、うやむやにされてきた、されようとしている事に、反対する。

一連の政治的ツイートを、そこまでたくさんの人に見てもらいたいわけではない。約束したいこと、言ったことが時間とともに変質していないか、矛盾していないか、考えるためにも書いている。ここに書いたので、実生活では自分からこういうみんなにとって不愉快な発言はしないつもり。しなくて済むとおもう。政治的な話がしたい、できる人とだけでもできたらいいなと。もし、何か違う意見があったら、実際に会ったとき内容について指摘してくれたら嬉しい。「政治的発言してるの?だっせー」じゃなくて、内容について指摘してくれる人となら、会話出来る気がする。


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