見出し画像

それでもやっぱり政治的なツイートとかするべきだと思った理由

 僕個人の歴史を見渡しても、現実の生活の中で、政治の話題は今までずっとNGだった。し、これからもNGだと思う。でもNGだからと言ってずっと黙っていたら、世の中はとうとうこんなに悪くなってしまった。やっぱりどうにかして、正面からど直球に、普通の場所で、普通に政治の話ができる糸口をつけなくては。

僕は生まれた時から大学4年生まで、鎌倉市に住んでいた。鎌倉というと素敵な場所のイメージがあるけど、僕が住んでいたのは山を崩して谷戸を埋めて作った、西鎌倉の新興住宅地だった。地中海風の家にヤシの木が植わっているかと思えば、その隣に北欧風の三角屋根の家、雪が積もってもすぐ落ちそうな、急な屋根の上に煙突が乗っていた。自分が暮らす生活世界の出鱈目さに最初に直面したのは中学二年生の頃だった。中学のころ、毎日の部活の時間、ピロティで複数の同級生に囲まれて、殴られたり、上履きで顔を踏まれたりしていた。ある日仕返しされる恐れもあったが勇気を出して、「部活をやめたい」といってみた。小日山先生は「みんな我慢している。努力している。あなたが1500m走に出場しているとき、みんな心を一つにして応援の声を挙げていた。見富君はそれを見なかったの?」と、逆に怒られた(2009年5月頃)。同級生は、殴られてヘラヘラしていたから、喜んでいるんだと思ってたみたいだ。でも本当は痛かった。親、教師、同級生、みんな出鱈目だと、感じたのはこの時が最初だ。「みんな」や、「一つの心」のような、先生が大事なものとして大上段に構えるものが、とにかく抽象的で現実味を全く感じられなかった。一方で、溝落ちを殴られたあとに痛いとか、コンビニのビニール袋に残飯を入れられ、「食え」と言われたら、食いたくないとか、偉い大人が取り合ってくれないだろうけど、先生にとっては取るに足らないことかもしれないけれど、僕個人にとってはとてもとても現実味があった。僕をいじめていた同級生は足が速く、全国大会まで出場した。ある日俺を殴っていた奴の名前が横断幕にでかでかと印刷されて教員室のベランダに下がっている。「なにも問題ない!!うまくいっている!!」と大人たちが言っているような気がした。碁盤の目に区画整備された西鎌倉の町も、そんな出鱈目を「すべてうまくいっている」ように見せかけ、自分を出鱈目の中に閉じ込める牢屋のように感じた。子供部屋の壁も、本当はバールでぶち破ってやりたかった。ほんとうならその時に、めちゃめちゃに破壊しておけば良かった。暴れることも、暴れる勇気もなかったがゆえに、よじれた大人になってしまった。やめたいと言ったのに、謎の精神論を押し付けられた中三の僕は、ただただ泣いてしまった。仕方ないので翌週は部活に出た。いつも通り陸上部のトレーニングメニューをこなすと、いつもは全然話しかけてこない陸上部のコーチが話しかけてきた。何人も全国大会に行く生徒を指導してきた、腕利きの英語教師だった。「どうだ?汗を流すのもいいだろう?青春だろう?」驚くほどどこにも同意できる部分のない言葉だった。「あ、まあ、そうかもしんないっすね」とだけ返し、翌日から部活に出るのをやめた。じゃあ当時の僕は素直でいい子だったかというと、明らかに問題児だった。子供のころの事だから、曖昧な部分もある。みんなが違う現実を生きている。そんなのは大前提として。でも、暴力を受けたという部分だけは僕が体験した明らかな事実だ。この事実が、今もどこかにいるはずの不条理に追い込まれた人に向けて何かをしなければならない。という動機付けになっている。まだまだ、そんな大目標を達成できるような立場にはいないけども、事あるごとに蒸し返し、じゃあ今何を判断するべきか、と考える。

新聞、週刊誌、テレビニュースで見聞きする、政治家や五輪組織委員会、多岐にわたる醜聞は、中学生だった僕が目にした小さな地域社会の断面と、構造的にきれいな相似形をなしている。小さな田舎町で起きたことと、同じ事が、今連日報道されている。取り繕えばなんとかなっていた、日本全国津々浦々で起きてきた不条理がいよいよ隠しようがなくなってきているのだと僕は思う。むしろ一番外側の、今、僕たちの国がどういう場所にいてどういう歴史のもとに今に至っているのか、から考え、問題意識に対してアイデアを出す必要がある。
    よくこういう話をすると、「自分を卑下するな」とか、「ネガティブな話をする必要はない」と返す人がいる。例えば10年前だったら小さな無理があっても、地域社会全体、国家全体で見たらまだうまく行っていた。でも今はそうじゃない。真逆だ。ネガティブなことから話して行くべきだ。これからは、小さな無理から正して行かないと、国家はおろか地域社会も回らなくなる。

    僕の訴えをとりあってくれなかった先生も、僕を殴った同級生も、殴れと指示を出した同級生も、一人ひとりは話せば、みないい人だった。いい人が集まって、平和な日常を暮らそうとした結果、僕にとっては最悪な出来事が起きてしまった。この憎しみをそれぞれの個々人に向けてもあまり意味がない。ちゃんと社会の構造の欠陥の問題である、社会の問題ということは政治の問題であるとして考える必要がある。少なくとも今、自分は政治的であることを恐れている場合じゃない。 

一個人の実体験に基づいて判断した結果、現自民党政権下で様々な不条理が放置され、うやむやにされてきた、されようとしている事に、反対する。

一連の政治的ツイートを、そこまでたくさんの人に見てもらいたいわけではない。約束したいこと、言ったことが時間とともに変質していないか、矛盾していないか、考えるためにも書いている。ここに書いたので、実生活では自分からこういうみんなにとって不愉快な発言はしないつもり。しなくて済むとおもう。政治的な話がしたい、できる人とだけでもできたらいいなと。もし、何か違う意見があったら、実際にあったとき内容について指摘してくれたら嬉しい。「政治的発言してるの?だっせー」じゃなくて、内容について指摘してくれる人となら、会話出来る気がする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?