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ぼくのルーツが水戸に関わりがあったという話

水戸PR大使メンバーの山口瑠伊です。

いつもいつもたくさんの熱い応援、本当にありがとうございます。

ホーム町田戦は、水戸にきてからようやく無失点で抑えられた初めての試合でした。
前回ホームの甲府戦もたくさんの人の思いを胸にみんなで必死に勝ち取ったプラス3でした。
勝った瞬間、本当に嬉しかった。
ホームはやっぱりぼくたちにとって特別な場所です。

いつもぼくを応援してくれる83才と84才になる祖父母もホームの時は東京から試合を観にきてくれます。実は、この祖父母からぼくのルーツが水戸と関わりがあったことを最近聞いて、とても驚いています。

できれば水戸に関わる皆さんに聞いて欲しいと思ったので、Noteを初めて書いてみることにしました。

ぼくは日本の学校に通ったことがなく日本語での長い文が苦手です。ですから、ちゃんと皆さんに分かってもらえるようこの文章は結構いろいろ直してもらいました。文章は自分の実力ではありませんが、ぼくの思いが詰まっています。

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水戸のPR大使メンバーになってから自分なりに何ができるのかずっと考えていたけれど、来たばかりで水戸についてほとんど何も知らないし、ぼくは少し困っていました。そんなことも含めて水戸での新しい生活のことを家族に話していたら、それがきっかけでなんと自分のルーツが水戸に関わりがある事を初めて知ったのです。

ぼくには、日本とフランス、それぞれに祖父母がいます。
日本の祖父のお父さん、つまり、ぼくのひいおじいちゃんは、明治43年生まれ(1910年)で、埼玉県の出身だったそうです。小さい頃にお父さんが亡くなり家庭的にとてもつらい環境だったため、小学校が終わったくらいの頃、多分12才か13才あたりで家を飛び出し、そのあと苦労して一人で生きていった人でした。家を出てから、どうやってた行ったのかは分からないのですが、たまたまたどり着いたのが水戸だったそうです。ひいおじいちゃんは、水戸の豆腐屋さんに住み込みで働かせてもらい、天秤で桶を担いで豆腐を売りながら、なんとか学校に通ったそうです。背が低かったから、桶が地面につかないように歩くのが大変だったそうです。祖父の話によると、ひいおじいちゃんは水戸で今の中学にあたる高等小学校を出て、そのあと今の高校にあたる水戸中学というところに通ったそうです。学校の名前も正確ではないかもしれません。ひいおじいちゃんは、そこでキクチさんという同級生に出会い、とてもとてもお世話になったのだそうです。キクチさんは後に歯医者さんになったそうで、ひいおじいちゃんは、自分がおじいちゃんになってから、お嫁さん(ぼくの祖母)にいつもその話をしたそうです。水戸で働きながら学校を出て、そのあと大倉高商という今の東京経済大学を卒業しました。誰にでも好かれる人柄だったそうで、きっと水戸でいろいろな人に助けられながら頑張って生きて行ったのだと思います。ぼくの祖母に「水戸には本当に世話になった、水戸が大好きだ」といつも言っていたそうです。

ぼくは、サッカーと勉強を続けるため16歳の時に一人でフランスに行きました。ぼくが7年ぶりに日本に戻り、水戸ホーリーホックに入団すると知った時、祖父母は、なんというご縁なのだろうと思ったそうです。しかも水戸のPRメンバーになるなんて、ひいおじいちゃんが生きていたらきっと喜んでくれただろうと嬉しかったそうです。

ひいおじいちゃんが水戸で暮らしてからおよそ100年後、今度はぼくが水戸で働き暮らしています。

ホームで戦うときは、きっと水戸が大好きだったひいおじいちゃんも観にきているのかもしれません。
そしてひいおじいちゃんが頑張った水戸でぼくもベストを尽くしたいと思っています。

ぼくが水戸に来た事をきっかけに、祖父は自分のお父さんが辿った道のりを調べてみたいそうです。お世話になったキクチさんという方のご家族はいらっしゃるのかなど…。ぼくも少し手伝えればと思っています。そして水戸のことを知り、今度はぼくが水戸の素晴らしさをPRしていけたらいいなと思っています。

山口瑠伊

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