避難所生活を振り返る

今震災で辛い思いをされてる方には届かないけれど
震災のお手伝いに行く人の目にとまって
すこしでも役にたてれたらいいかなぁと思って
わたしの経験談をお話します


わたしは東日本大震災の被災者です
家は流失しました。全壊ですらない流失。

その日わたしは仕事をしていました。
朝に高校生の妹と社会人の妹が家にいていってらっしゃーい!と言われて家を出ました

職場で地震にあい、わたしの妹たちは地震が大キライで地震があるとよく泣いてわたしに電話をかけてきていたので
もう午後で一人は会社、一人は学校に行ってる時間ですが電話も繋がらないので念の為
高台の職場を下り自宅に向かいました

家の中はめちゃくちゃ
でもだれもいないのを確認して
近所にすむ軽度の認知症の祖母の家へ

祖母はおかーさーんと泣いていました。
※お母さんとは祖母の嫁であり私の叔母

ばあちゃん、迎えにきたよ!と
祖母を車に乗せて高台へ避難しました

津波がくると放送が流れていたので高台にはたくさんの人がいました

みんなと高台から海をみていたら
真っ黒い波が街に押し寄せてきました

波に飲まれた家たちから砂煙のようなものがあがっていました

わたしは自宅が心配で高台を下りましたが
私の家は津波に飲み込まれました

うちは父が出稼ぎにいっており
わたしは長女なのでいつも父にこの家を頼むぞと言われていました

当時うちは家計が苦しくてみんなで必死に掛け持ちして働いていて
わたしの中では、家族と家を守るんだ!という気持ちが強かったので必死に守ってきた家が簡単に波に飲み込まれた瞬間に涙があふれました

自分の眼の前まで波が狭ってきた恐怖で我に帰り必死に走り高台の祖母のもとへ

家が流された無くなったと泣くわたし
軽度の痴呆症の祖母は
そんなわけあるか!ばあちゃん騙してからに!と怒られました

その祖母が可愛くて正気でいられたと思います

ここも危ないかもしれないからと更に高台に向かっている最中に母に会いました

泣きました

勝手に母は大丈夫と思っていましたが
実際あの光景をみたあとだと生きていることが奇跡でした

その後、母と祖母と中学校に避難しました

妹たちとは何度かメールがきて無事生きていて一緒にいると連絡がきていたのですがどこにいるかの話をする前に電波が入らなくなりました

中学校の体育館は600人、もっといたのかな

家族や親戚、近所の人などで固まっていたように思います

叔母も合流して
母にと祖母とわたしと叔母の四人

こうゆう状況化で男手がいないことがすごく惨めで不安に感じました

よその家族はお父さんが側にいて
お父さんがいる安心感が出ていたように感じたからです

お父さんが出稼ぎの間は家族はわたしが守るって思っていたけど
こうなると自分の非力さに惨めでお父さんがいる家族が羨ましかった記憶があります

結局毛布の配布がもらえず
毛布が入っていた銀の袋と当時わたしは昼夜働いていて車で寝ることもあったので車に毛布を大量に積んでいたのでこれ見よがしに分厚い毛布を家族で使いました

前置き長くなりましたね
さて避難所生活について
①トイレ
きったなかったですね
流れないかは紙をいれないでくださいとかいてあるんですがみんな癖で入れてしまうんでしょうね
わたしはそもそも催してないので利用してませんでした。

次の日、わたしは妹たちを探しに行きますが見つけられず帰ってきました
被災を逃れた山手にすむ婦人部の方々からオニギリの差し入れ
すぐ食べれば良かったのに次いつ食べれるかと不安でポケットにしまいました

次の日また妹たちを探しに行き
無事見つけて帰ってきました

そして、わたしの職場が避難所になっているからこっちにおいでよ!と職場の人が迎えにきてくれたのでそちらに移りました

こちらの避難所は被災三日目で既に役割やすべき事が整っていました

①トイレ
ゴミはもちろんゴミ箱
大きな樽に池から水を組んでくる通称水汲み部隊
各トイレに配布されてひしゃくを使って水でトイレを流します
トイレの掃除やペーパーの補充部隊もいました

②館内
土足厳禁にして衛生環境を整えていました
灯油係がストーブに灯油を補充していました
職場が宿泊施設でもあった為毛布や布団も各自配布されていました
宴会場に寝泊まりしてる方々はプライベートの確保は難しいようでしたが
同じ地域の方々で固まっているのは安心感があるのか進んで宴会場を希望してる方も

③食事
被災して三日目はじめて温かい汁を飲みました
涙が流れました
炊き出し班が出来ていました
その後炊き出し班はチーム編成していましたね

わたしは3月13日から7月まで避難所生活をしていましたが
いろんな方々のご協力ご支援のおかげで
徐々に生活は変わっていきました

当時はほんとに雑魚寝でしたが
今はプライベートが確保されるように仕切りみたいなのがあるんですよね?

当時からいろいろな災害をへて経験して
少しでも快適に暮らせるようにいろいろ進化しているんだなぁと思います

ほんとに当時は
この世の終わりかと思いました
避難所生活も他人と関わるのが苦手なわたしには苦痛だった
仮設住宅に行けたときは心底嬉しかった
だけど、生きるか死ぬかの不安は三日目にはなくなっていました

この環境で生きていくしかないと
生活していかなくてはないのだと方向転換したんでしょうね

自分の中では当たり前になっていた生活ですが
ゴールデンウィークに友達が帰省してきて
彼女の自宅も長されていたので避難所にきました

お昼に彼女たちの分もと炊き出し班から今日の物資のパンをもらってご馳走しました

彼女はビックリしていました

賞味期限きれてるよ、、と

仕方ないのです。いろんなルートをたどりわたしたちのもとにくる頃には期限はきれています
おまけに他の悪くなりそうなものを先に食べなければないのでパンは後回しになるのです

こんな物を食べているのかと友達はショックをうけていました

わたしたちにとっては当たり前でしたが
外からきたひとはそう思うのかとわたしも衝撃でした

後日ツイッターか何かで友達は
トイレはひしゃくで流しているし
パンは賞味期限切れだし支援がおいついてないんじゃないか?的な発言をして
何人かが衝撃をうけているやりとりを見ました

生きるか死ぬかを経験したあとの
生活なのでわたしたちにとってはそこは問題じゃなかったんですけどね

仮設住宅に入れるのはいつなのか?
その日までここで生きていく
ご飯が食べれて布団で寝れる

それだけで充分でした。わたしは

避難所生活っていろいろ大変なことあると思います

ありました

でも、必ず仮設住宅に入れます

あなたは入れないとかない

その日までせっかく生きたんだから
この苦痛はずっとは続かないと思って欲ばらないでいれば、けっこうあっという間に日常になります

わたしはそうでした

今被災して避難所生活してる方々

必ずまた自分の家
それが元の家か仮設住宅か新しいお家かはわからないけど
自分だけの住居で生活できる日はきます

希望を持って
過ごしてほしいなと思います

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