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外路系の体育・天心ということ

活元運動相互運動も、行うときに一番大切なことは、やり方ではありません。

「天心」であること、が根本です。

天心で欲でない、相手に何ら求めることもなく、恩を着せることもなく、ただ自然の動きに動く、そういう心の状態でやらなくてはならない。
親切にしてやろうとか、やってあげる、受けているというような心があったり、自分の技術を誇るとかいう心でしてはならない。

活元運動も相互運動も自然の方法ですから、そのような雑念があっては出来ないのです。

無心で、全く生まれたてのような天心でやらなくてはならない。

それがそう相互運動が職業として成り立たない理由でもあるのです。ちょっと油断すると、違ったものになってしまう恐れがある。

みんなこれをニ、三回やって、悪いところへピタッと手が行って、苦しみが急にとれたなどとお礼でも言われると、「俺がやれば何でも治せる」などとお礼でも言われると、「俺がやれば何でも治せる」などと思ってしまうのです。

けれども、そういう自信をもってしまうこともいけないのです。何処までも謙虚に、ただ本能の働きだけに任せて行なう。知識ではない、生命の智恵に任せ切った無心だけが、相互運動を成し得るのです。

「苦しそうだ、親切にしてあげよう」などと思うことさえ、余分で邪魔になるのです。

受けるとか、やるとかの区別もなくなった同じ立場でなければいけないのです。

「心を空っぽにすることは難しい、無心になろうとすると、あとからあとから雑念が湧いてくるのですが・・・」と質問した人がありました。けれども雑念があとからあとから湧いてくる時は無心なのです。

心が澄んできたから、雑念があとからあとから出ては消えるのが判るようになったといえる。

或る雑念か心から離れないで、次の雑念を生み出すようだといけないのです。

だから浮かんでは消える雑念のまま、手を当てていれば動き出してくるし、動き出せばひとりでに雑念がなくなって、統一状態になります。

そうやって心が統一すると、普段できないことも出来るようになります。

愉気というのはそういう心を統一することなのです。気を集めて心を一つにすることが出来れば、愉気は出来ます。P125

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