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「愉気」ということー病気は調和への要求ー17

すべて調和というものは、一つ違っても調和ではないのです。そういうことは体が知っている。

私は、初めは病気を治すつもりで治療ということをやっておりました。そのうちに、人間が病気になるということは全く無駄なことだろうか、と思うようになりました。そう思ってよく観ると、病気する人は、病気しないといけない状態になっている。そして病気をして経過すると、今まで疲れが抜けてくる。眠っている力が出てくる。ひょっとしたら、病気はそういう居眠りしている力を呼び起こすためになるんではないだろうか。

大量配分計が出来てから観ていますと、大量配分計で左なら左に偏っていた人が真っ直ぐになろうとすると下痢をする。下痢をすると安定しそれを保つ。前屈みの人は、ある状態以上に屈んでくると風邪を引く。それを通ると腰が伸びてシャンとしてくる。そこで、風邪や下痢は体を調整するための働きではないか、それなら人間が病気になるということは、無意味なことではない。病気を治すよりは、病気の経過を全うした方がいいと思いました。
そう思って観ていますと、自然に経過した人は病気のあと元気になります。けれども、その経過の中でちょっと気が乱れたり、不安な気があったり、臆病な気があったりすると、病気になって却って体が弱る。どれは焦るからなのです。

私が病気を全うするということを考え出したのは、病気を経過した人がその後みんな元気になるということを観たからです。顔色を見てもスーッと透き通って、濁りがなくなっているのです。

「風邪を引いたのですね」と訊くと「どうだ」と言う。晴れ晴れしているからです。それを、くすりで止めたり、抑えたりした人は、病気をやっていよいよ弱くなってくるし、また病気をするんです。
病気をやったあとも濁った顔になっている。ほんとうに病気をやっているうちは蒼くとも、経過し終えたならばスッキリと透き通って来ないといけない。綺麗になって来なくてはならない。働いても疲れない体になっていなくてはならない。
それがそうならないと言うのは、経過を全うさせなかったからです。



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