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自己同一化の練習する意味(付録から参照)

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最も大切で、基本的な自己意識の体験、「私」の発見は、私たち人間の意識の中に「内在する」ものです。これこそが、意識はあっても自己意識は持たない動物の意識と私たち人間の意識の違いなのです。
一般に自己意識は確かに、「曖昧な」ものであり、明白ではありません。
これは、ふつうの意識のいろいろの内容と混然とし、あるいはそれらに覆われているために、霞んだり歪んだりしたものとして体験されます。

いろいろなものに絶え間なく影響されるために意識は澄んだものではなくなり、セルフは、意識そのものよりむしろ意識「の中にある内容」と偽りの同一化をしてしまうことになります。もし、私たちが、自己認識を明白な、すっきりした生き生きしたものにしようと思うなら、私たちはまず意識「の中にあるもの、つまり意識も内容」に対し、自分を脱同一化しなければなりません。

さらに明確に言えば、私たちのほとんどは、習慣的に、その時のその時点において、自分が最も生きがいを感じたり、あるいは自分にとって最も真実に思えたり、強く感じる感じたりすることと自分を同一化してしまうのです。

通常は、私たちが同一化する自分の一部というのは、自分が気づいている主たる心理機能あるいは気づきの対象、あるいは生活における主たる役割等に関連しています。これはいろいろな形をとります。
ある人々は自分の身体と同一化します。そのような人々は、感覚を通して体験し、自分のことを語ります。言い換えれば、自分が自分の身体そのものであるかのごとく機能するのです。
また、ある人々は、自分の気分と自己同一化します。そのような人々は、自分の状態を情緒的な言葉で語り、体験し、また感情こそ自分にとって最も重要で身近なものと信じており、一方、思考や感情は、もっとも縁遠いもの、あるいは自分から独立したものと感じているのです。
思考や知識や自己同一化しているような人々は、どのように感じているかを問われたときでさえ、自分を知的な概念で物語るのです。そのような人々は、しばしば、感情や感覚など重要な問題ではないと捉えていたり、その存在すらほとんど気がついていないのです。
多くの人は、役割と自己同一化しており、「母親」「夫」「妻」「学生」「ビジネスマン」「先生」その他の役割を通して生活し、機能し、自分を体験しているのです。

このように、自分の人格の一部のみと自己同一化する事は、一日的に満足が得られるかもしれませんが、これには、深刻な弱点があるのです。
このことによって、私たちは「私」すなわち自己同一性の深い意味での体験や、私が誰なのかを知る体験を実現することが妨げられるのです。
そして人格の他のあらゆる部分と同一化したり、さらにそれらの部分を充分に味わったり、利用したりすることが全くできなくなったり、かなり難しくなったりするのです。このようにして、この世にある一時点における私たちの「ふつう」(自己)表現は、私たちが持っている可能性のほんの一断片に限られたものになってしまいます。こうして、私たちの中にあるものの大きな部分に近づけないという事を意識的ーあるいは無意識的にでもーに認識することにより、自分の無能感や敗北感という苦しい感情や欲求不満が引き起こされることもなるのです。

ある一つの役割や主たる心理機能に同一化している状態が続くと、しまいには、ほとんど必然的に、不安定な生活状況、すなわち遅かれ早かれ結果的には喪失感、あるいは絶望に陥るようなことになります。
例えば、若くなくなるとともに身体的な強さを失う運動選手や、肉体的な美しさを失う女優や、子供が成長していく離れていく母親や、学校卒業して新しい責任に直面する学生の場合なのです。
このような状況においては、しばしば、深刻で苦しい危機に陥ることがあります。そのような場合は、多少とも心理的意味での「死」とも考えることができます。必死に、衰えていく昔の「自己同一性」にしがみつく事は何の役にも立ちません。真の解決は「再生」によってのみ可能であり、それは、新しくより大きな同一性に至ることです。これは時には人格全体との関わりとなり、悟り、あるいはまた、新しくより高尚な「状態」に「再生する」ことの必要になったり、あるいは結果としてそうなったりします。死と再生の過程は、種々の神秘的儀式において、象徴的に演じられ、また多くの神秘家によって宗教的体験され語られています。今日では、それはトランスパーソナル的な体験及び実現の文脈において再発見されつつあるのです。

この過程は、当人の意思や願望にしばしば反したり、その確かな意味もわからないままに起こるのです。でも、意識的自主的に、進んで協力することで、この過程は大いに促進され、育まれ、早められます。

自己脱同一化と、自己同一化というよく考えられた演習法を行うことがこれには最も最善です。
この演習を行うことで、その時々の状況に応じて、自分の人格のどんな側面でも、自分に適切であると思われる側面と自分を同一化したり、あるいは逆に非同一化することができる自由と選択能力を得ることができるのです
そのようにして私たちは、自分の人格のあらゆる要素や側面を、包括的に調和を持ちながら、自分のものとし、方向づけ、利用することを学べるのです。それゆえ、この演習は、サイコシンセンスにおいて基本的なものと考えられています。

ふと感じるものを中心に書いています。よろしくお願い致します。